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努力が報われないのはなぜか?答えは私たちの頭の中にあった

ご挨拶

ご覧いただきありがとうございます!
株式会社M&Aクラウドで人事をしている仙波です。

今回は『「無理」の構造~この世の理不尽さを可視化する~』について書かせていただきます。本記事は私の読書感想文的な、学びをシェアする記事であり、網羅的な本の要約記事ではありませんので、その点あらかじめご了承下さい。

※流行りのChatGPTにタイトルを変更してもらいました(2023/04/09)

今後も定期的に本の感想や日々の学びをシェアしていく予定ですので、もしよろしければ「スキ」と「フォロー」をしていただければ嬉しいです!

はじめに

「どんなに頑張っても報われない」
「なんで自分(あの人)だけが、、、」
「世の中不合理なことばかりだ、、、」
ふと、こんな思いに駆られたことはないでしょうか。

世の中には「理不尽」なことが溢れています。
私たちは何かのために、仕事や日常生活で日々さまざまな努力をします。でも多くの場合、それは「無駄な」ものに終わって無力感が残り、場合によっては、それは振り返れば、あるいは他人からすれば「無駄な抵抗」に終わっているように見えます。そんなときに私たちは「世の中は理不尽だ」と感じることになります。

本書が目指すのは、このような理不尽さのメカニズムを可視化することです。これによって私たちが日常「世の理不尽さ」から感じているストレスや、それに対抗するための「無駄な抵抗」を少しでもなくそうというのが、本書の目標です。

抵抗が無駄に終わる原因の一つは、「自然な流れや法則に逆らっている」ことにあります。つまりどこかに「無理」があるということです。その「無理の構造」を明らかにすることができれば、抵抗が無駄に終わる根本原因を突き止めることができそうです。その原因を解き明かすために本書では、読者の頭の中の「コペルニクス的転回」に挑戦しています。

一言で説明しましょう。
「理不尽なのは『世の中』なのではなくて『私たちの頭の中』である」というのが本書のキーメッセージです。本書ではそのメカニズムを構造化して図解で示していきます。

そして、本書の根幹となる仮説は、理不尽の元凶は「対称性の錯覚」であるということです。つまり、本来同等でないものを同等だと思い込んでいること(に気づいていないこと)が、「理不尽さ」の原因となっているのです。それを以降の各章で解説していきます。

第1部:対称性の錯覚

本書の中心的な概念となる「対称性の錯覚」について解説します。まず「対称性」とは、「(何らかの基準で)二つのものが同等である」ことであると本書で定義されています。

次に「対称性の錯覚」とは、「本当は対称でないものを対称だと勘違いしている(あるいは薄々は感じていても明確に意識していない)」ことを意味します。下記がその例です。

「悲観」と「楽観」・・・なぜか悲観論の方が「賢そう」に見える
「同じ」と「違う」・・・「同じ」は一通りだが、「違う」には限りない可能性がある。
「変える」と「変えない」・・・変えないのは楽で無難だが、変えるには膨大なエネルギーが必要。
「知っている」と「知らない」・・・一度知ったら知らない状態には戻れない
「上」と「下」・・・重力が存在し、上から下には自然に落ちるが、逆向きに自然に動くことはない。

実は非対称な例

上記のように、様々な非対称性の陰には、重力ほど明らかでなくても一方向に作用している「見えない力」あるいは「見えないメカニズム」の存在が確実にあるのです。そして、人間や社会が従っている根本的な非対称性は以下三つに大別できます

  • 物理的非対称性

  • 知的非対称性

  • 心理的非対称性

第2~5部では、上記3つの基本的非対称性が具体的な人間の個別の行動や思考にどのような影響を与え、それがどういう形で「理不尽さ」となっているのかについて解説していきます。

ちなみに、知的非対称性で扱われる「具体と抽象」「知識と思考」については、以前書いたこちらのnoteで扱っておりますので、是非合わせてご覧ください!


第2部:時間の不可逆性

第2部で扱うのは「時間の不可逆性」、特にその質的な側面です。

第7章 気づきにくい社会や心の不可逆性―湯は冷め、振り子は止まる
第8章 社会・会社の劣化の法則―「盛者必衰」の真理からは逃れられない
第9章 具体化・細分化の法則―高度化すれば視野が狭くなる
第10章 上流・下流の法則―不毛な議論に費やされる膨大な時間

第2部の内容

本記事で取り上げる第10章では、川の上流から下流へという流れをアナロジーによって考察し、人間が形成する社会や組織の「成長過程」を見ていきます。

ここで上流、下流といっているのは、例えば下記図のような世界です。

このような定義に従って、上流下流各々の特徴を比較で示したのが、下記図になります。

この構図は、一つの会社などの組織の成長過程でも同じです。黎明期→成長期→成熟期と会社が大きくなるにつれて、人材も丸くなり平均化していきます。これは「上流時代」を生き抜いた年配者員からすれば「嘆くべきこと」のように見えるかもしれませんが、「下流時代」に入社した社員はそのようになって当然なのであり、会社としてはむしろ健全なことなのです。

このような特徴を踏まえると、上流と下流では、必要とされることも当然異なってきます。上流と下流との違いは「問題発見・定義(変数の決定)」と「問題解決(変数の最適化)」とに分けることができます。要は「そもそも問題は何なのか?」と決めるのが上流で、その問題に対する最適解を見つけるのが下流です。

このように上流と下流では特性が異なり、必要とされる価値観やスキルも大きく異なるのに、それをごちゃ混ぜにして「どちらが正しい」といった議論が頻繁に行われています。(SNSで巻き起こるベンチャーor大企業の議論は典型ですね)
前提を共有していない議論は、実は議論にすらなっておらず、ここでも「不毛な議論」と「無駄な努力」と「理不尽な思い」に膨大な時間が使われています。

まず上流で重視される「コンセプト」「理想」「方針」といったものは抽象度の高い価値観のため、下流の価値観からは理解されません。また、その数は川の流量と同じく下流側が圧倒的に多数派であるために、下流側の世界において上流側の声が通ることは極めて困難です。

これが「下流→上流への逆流」をほぼ不可能にしている理由です。したがって、下流の世界では抽象度の高い発想を要する「不連続な変化」を起こすことは困難なのです。

そうであるにも関わらず、毎日どれだけ多くの小舟が河口付近から渓谷を目指して一生懸命流れに逆らってオールをこぎ続けているいることでしょうか。同じ川の中で逆流するのは短い距離なら可能でも、山頂の最上流までたどり着くのは「無理」なのです。上流が恋しければ「再び山に登って新しい川を見つける」しかないのです。


第3部:ストックの単調増加性

第2部では「時間の不可逆性」に関して、「質的な不可逆性」の側面について述べました。第3部では「量的な不可逆性」について解説します。ここで着目する非対称性は「フローとストックの関係性」に関してです。
その中でも、本記事で取り上げる第14章では、大企業「病」という幻想について解説します。

第11章 「微分と積分」と現実―増やすのは簡単、減らすのは困難
第12章 のこぎりの法則―増えだしたら止まらない
第13章 折り曲げの法則とストックのジレンマ―「対極」は「紙一重」に変わる
第14章 大企業「病」という幻想―もう「あの時代」には戻れない

第3部の内容

「意味のない会議ばかりでうんざりだ」
「形式的なルールばかりあって効率が下がる」
「きれいな書類を作ることばかりに時間が取られる」
「皆自分の部署のことばかりを考えて全体のことを考えていない」
「最近社員に個性がなくなって金太郎飴のようになってきた」

組織が大きくなってくると、このような「症状」が必ず現れてきます。いわゆる「大企業病」と言われるものです。良かれと思ってしてきたことが、なぜこのような事態を生んでしまうのでしょうか。どうすればこのような状況を変えることができるのでしょうか。

実はこれらは、本書のテーマである「不可逆性」の典型的な例なのです。

物理の世界でエントロピー増大の如く、人間社会でも同じようにこのような不可逆的劣化が不可避で起こっていくことについては、第1部で述べたように、人間の根本的な知的・心理学的性質を考えると、ある意味で当然のことと考えられます。

第10章の上流・下流の法則と、ストック単調増加性を考慮すると、組織が生まれ、成長して大きくなっていく過程で、統治形態が変化していくのはあまりに自然な流れあり、これを「理不尽だ」と考える方がおかしい、ということになります。(下図)

このような傾向は会社の世界だけではありません。歴史を見ても、戦国時代や明治維新など、下流となった体制が大きくリセットされて上流に戻るときに活躍するのは「下流武士」なども多く、身分とは関係ない個人の実力がものを言いますが、次第に社会が成熟して下流へと変化するにつれて、身分制度が確立されて必要以上の「実力による下克上」が起こらない方が、組織や体制の安定のためには良いということになります。

組織が成長し、成熟するということは、様々なストックが不可逆的に溜まっていくことを意味します。したがって、それが長所であるとともに短所であり、完全な表裏一体の性質になっていくことがわかります。

「大企業病」というのは病気でも何でもなく、成長した組織を維持し、最適に管理するために必要な状態になったというだけなのです。


第4部:「自分と他人」の非対称性

第4部と第5部で述べる非対称性は「空間の非対称性」です。「空間」といっても目に見える物理的な空間というよりは、私たちが頭の中で浮かべる「心の空間」に着目してみます。

第15章 宇宙と「人間の心」―「絶対的中心」があるかないか
第16章 コミュニケーションという幻想―「言葉の意味」の共有は難しい
第17章 「公平」という幻想―基準は人間の数だけ存在する
第18章 「対等」という幻想―批判する人とされる人の間に横たわるものは

第4部の内容

非対称であるとはその関係性を決定するための何らかの「中心」がどこかに存在することを意味しています。中心が存在すると、その周辺には必ず「内と外」という非対称な関係が発生するからです。

では、「人間の心の中心」とは何でしょうか。
それは「自分自身」です。すべての人には「自分」という中心が存在し、これをベースにしてものを見て、そして考えます。したがって、自分が他人を見る目と、他人が自分を見る目は決定的に異なっているのですが、あまりに当たり前のことを人はしばしば忘れてしまいます。

それがこの第4部で解説する「自分と他人」の非対称性です。人は「自分を中心にしてしか、ものごとを考えられない」ということです。そのことが実に様々な理不尽さを生み出しています。

人間「いかに自分が可愛いか」の例はいくらでも挙げられるでしょう。問題は、そのことへの自覚がないか、あるいはあったとしても、実態とはかけ離れて超過小評価されている点にあります。

例えば下記のようなことが世の中にありふれています。

・「他人に一番話したいのは愚痴と自慢だが、一番聞きたくないのもまさにその二つ」という非対称性
・「ネットで他人の批判ばかり言っているやつは許せない」というSNS投稿をする自己矛盾
・自分の新入社員時代のことはすっかり忘れて「理解できない言動をする新人」について嘆く、自分を棚に上げる言動

これらの「非対称性」はとりもなおさず、「客観視」の難しさを物語っています。心理学などでいう「メタ認知」という考え方ですが、いかに自分を上から見られるか、言い換えれば、「自分」という「宇宙の中心」を離れて、いかに自分自身を宇宙空間の真っ只中に放り込んで、他のすべての物体と同等に見られるかということです。

私たちが世の中に抱く「理不尽さ」は、起こっている現象が原因ではなく、自分たちの頭の中にあるのです。人間の頭の中こそが理不尽である、ということを受け入れられれば、「理不尽」が「理」に変わります。逆に受け入れられなければ、全ては「無理」に変わります。


第5部:「見えている人と見えていない人」の非対称性

第5部は下記の内容となっております

第19章 決定的な非対称性―「見えていない人」には「見えている人」が見えない
第20章 「全体像」という幻想―自分の視野の狭さには気づきようがない
第21章 「経験則」という幻想―自分の経験が「部分」であることに気づけない
第22章 「啓蒙」という幻想―教育は無力なのか

第5部の内容

どんな分野でも「わかっている人」と「わかっていない人」がいます。そこまでは異論がないと思います。しかし、ここで重視したいのは「わかっていない人」が大きく二つに分けられるということです。(下図)
つまり、自分が「わかっていない」ことをわかっている人と、「わかっていない」ことすらわかっていない人の二通りです。

第5部のテーマである「見えている人と見えていない人」の非対称性とは、上図に示した境界線によって分かれます。

「見えていない人」と「見えている人」との思考回路の違いを示したものが以下の図です。一見してわかる最大の違いは「視点の高さ」です。この図では、見えている領域と見えていない領域との境界を、ある一定の高さを持った壁で表現しています。

「見えていない」人は最強です。「根拠のない自信」を持っており、「自分に見えている世界」が世界の中心であり、すべてそれらが「正しい」という信念に揺るぎがありません。新しい概念や理解できない概念を提示されても真っ向から否定し、決して譲ることはありません。

これに対して「見えている人」は、自分がわかっていることとわかっていないことの区別がつき、理解できないことについては「間違っているのは自分の方かもしれない」という疑いを常に自分に対して向けています。

皮肉なことに、見えていない人はいつも「わかった、わかった」と言ってますが、見えている人はいつも「わかったかどうかはわからない」というスタンスです。だから一見、見えていない人の方がわかっているように見えてしまいます。本当に「見えている」とは限らないのですが。

そして、決定的な非対称性は、「見えている人」から「見えていない人」は見えるが、「見えていない人」から「見えている人」は見えないということです。いってみれば「マジックミラー」の構図です。(下図)

この対立構造が、「見えている人」の側、「見えていない人」の側の双方に「理不尽さ」を生み出すのです。この二者が議論をした場合にお互いが感じるストレスを下記の図に示します。

真の意味での議論が成り立つのは、「見えている人と見えている人」の間だけです。それ以外の議論はそもそも議論にすらなっていないので、やるだけ時間の無駄です。ところが残念ながら、「議論にすらなっていないこと」自体がわからないのが「見えていない人」であることが、この問題の根の深さを物語っています。

見えていない人の思考回路で代表的なのが、「思い込みの激しさ」です。思い込みの激しい人とは、例えば「被害者意識」の強い人、感情的に怒っている人、「自分の正しさ」を露ほども疑っていない人です。すべて悪いのは他人と環境のせいという「他責」の人も同様です。

このような人たちには「いくら言っても時間の無駄」であることは、誰もが一度や二度は経験があるでしょう。このような状況でたとえ一秒でも時間を使うのは

  1. 相手は変わらず状況は一切改善しない

  2. なおかつ相手を不快な気分にさせる

  3. さらに自分も不快になる

という三重苦でしかありません。ならばいっそのこと、無駄な努力はしない方が建設的なのかもしれません。

ただしそういう場面を建設的に活かすとすれば、思い至らすべきは、果たして自分自身が他の場面でその「思い込みが激しい人」になっていないかどうかです。改めて自己診断するための良い機会になるでしょう。

本章を読んで「まったくあの人がそうだよなぁ・・・」と周囲の「他の誰か」のことのみ思い浮かべた人は、自分自身が他の人から見たらまさにその人になっている危険性があります。
「見えていない人が生み出す理不尽さ」を作り出しているのは「あのわからずや」ではなく「自分自身」なのです。


まとめ

今回は『「無理」の構造~この世の理不尽さを可視化する~』について書かせていただきましたがいかがでしたでしょうか?

私は特に第5章の「見えている人と見えていない人」非対称性を読んだときに、ソクラテスの「無知の知」を思い出し、とても印象に残りました。自分にとっての常識に囚われるのではなく、知らないこと、見えていないことがあるという前提に立って考えること、物事に向き合うことの重要性を学びました。

また、「理不尽なのは『世の中』なのではなくて『私たちの頭の中』である」という本書のキーメッセージは、直面する理不尽に対して我慢して耐え忍んだり、避けるような受動的な姿勢ではなく、メカニズムを理解した上で、「理」に沿った行動を取っていけという主体的な姿勢を後押しするもので、多くの人にとって大変役に立つものだと思います。

今回ご紹介した内容以外にも、非対称性がもたらす具体的な事例が盛り沢山なので、私自身も何度も読み返してしっかり理解を深めていこうと思います!もし皆さんもご興味あれば是非書店でお手に取ってみてください!

今後も定期的に本の感想や日々の学びをシェアしていく予定ですので、もしよろしければ「スキ」と「フォロー」をしていただければ嬉しいです!!
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