見出し画像

中込遊里の日記ナントカ第100回 「運命に翻弄される/中高生と創るシェイクスピア劇」

“伝わらなさ”には可能性がある。

2016年から劇団員を引き連れて開始し、2018年には「7か月にわたるワークショップと年間2度の成果発表公演」という長期プロジェクトに生まれ変わった「たちかわシェイクスピアプロジェクト・中高生と創るシェイクスピア劇」。

2年目の今年も、7月23日(火)に最終成果発表公演の上演が叶った。

今年は23人の高校生に加え2人の卒業生がサポートで出演してくれて、25人の出演者と、照明担当の高校生1名と一緒に、八王子市学園都市センター(東京都八王子市)で上演した。

今年5月には、たましんRISURUホール(東京都立川市)で中間成果発表公演を上演。

その時の様子はこちら↓
https://syake-speare.com/tsp-all/post-1805.html

1月からのワークショップの参加者を累計すると、中学生から卒業生まで55名。今年はこの人数で作品を生み出していった。

昨年の様子はこちら。この「中高生と創るシェイクスピア劇」の目的や志を書いています。↓
https://note.mu/yuuri_nantoka/n/nb80166d812fc


去年のワークショップで達成したことに追加して、今年は以下のことに取り組んだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

①シェイクスピア作品の登場人物や状況を自分のことと捉え、シェイクスピアを手段として、2019年に生きる高校生ならではの表現を目指す。

②それぞれのシーンの個性を深める。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

①を達成するためのキーワードは「運命」

シェイクスピア作品には、運命に翻弄される人物が多く登場する。現代に生きる私たちも、自分の力ではどうにもならないことに日々翻弄されながら生きている。病気や事故などの大ごとから、クラスで隣の席に座ったあの子、まで。

中高生は、ほとんどがこの運命ってやつに翻弄されながら生きているのではないだろうか。通う学校、担任の先生、親や家族。自分の意志で選べるものはあまりにも少なく、与えられた環境の中で足掻いたり受け入れたりしながら自分というものを形成していく。

そのナマの姿を、シェイクスピア作品の登場人物に重ね合わせることを狙った。

そのためのひとつの方法として、生まれ月の星座で出演者をグループ分けして自由創作を行った。同じ星座という“運命”で出会った仲間(一人で創らなければならない人もいた)と一緒に創作する。これは高校生たちにも大変好評で、「自由に創るのが楽しかった!」という意見が多くみられ、けっこうな“無茶ぶり”の高いハードルを全員が越えてくれたので安心した。


②は、中高生の力を借りて劇団員が成長するためにも達成したい目標である。

去年に引き続き、シェイクスピア作品の中からいくつかを選び、それぞれ10分ほどのワンシーンとしてチーム分けしてオムニバス形式で構成した。各シーンは劇団の女優たちと私がそれぞれ演出/指導にあたった。2年目にして彼女たちの個性が引き出された良い結果となった。

また、全体にちりばめられた「自己紹介シーン」と「ロミオとジュリエット」は、私と振り付けの片ひとみが担っている。これもまた去年から継続することでの深まりがあったと思う。


それにしても、このプロジェクトを続けるのは本当に大ごとである。去年もものすごいエネルギーが必要だったが、今年は2年目ならではの力の入れ具合が必要だった。(そしてそれは今日も継続中。)

体制作り・お金・現場でのトラブル・並行してやらねばならない様々な別の仕事…と、洗い出せばキリがなく、いったいどうやって暮らしていこうと切実になることもあるのだが、なんとかして続けよう、続けるべき、と腰を据えられるのは、なによりも中高生の反応に可能性を感じるからだ。

上演後のアフタートークで、高校1年の女の子から「人によってこれほど考え方が違うことに驚きました」という言葉が出てきた。

彼女は「創作プロセスを大切にする」がテーマのチームに参加していたので、とてもたくさん考えたり言葉を交わしたりした経験から出た言葉だろう。

また、ちょっと別の場だったのだけど、出演した高校1年の女の子から「わからないことも面白い」という言葉が聞けた。

人はそれぞれ違い、思ったよりも伝わらない。人も、自分も、よくわからない。そのことに気が付けるのはとても可能性がある。

何かを表現する時には、まず「伝えたい、わかってほしい」と思うのが始まりだと思う。「人に何かを伝えるために丁寧な表現を心がける」という言葉は、演劇を始めたばかりの人たちへの定型句でもある。

もちろん、何かを伝えなければ表現ではないのだが、素直にその言葉を守り、真面目に伝えようとし続けると、必ず「伝わらない」という壁に突き当たる。

伝えるためには、技術や経験が必要不可欠だ。そして、「思った以上に人には伝わらない」と気が付くことが経験で、その上で表現を組み立てるのが技術だ。

「伝わらない」としっかりと気が付けないと、浅い技術で固められた「伝えた気になってる」作品になってしまう恐れがある。多感な思春期にそういう作品にばかり触れるのはもったいない。演劇はもっと豊かで幅広くてわけがわからなくて面白い。

だから、私たちと一緒に創作した高校生たちが、わからない・伝わらないことに前向きに気が付いてくれたのはとても重要で、我々の活動の要が確かであることの証明だった。


こんなふうに、伝わらないということは、一見するとマイナスの言葉にしか聞こえないが、可能性がある。

私が中高生と演劇を創ろうと決めたのは、この先長年活動を共にすることで凝り固まるだろう劇団に風穴を開けることが狙いのひとつであった。

同じメンバーでひとつの表現を追求する。それは透明感のある美しさだ。しかし、その透明な空気は、入れ替えなければ必ず澱む。仲間内だけで「わかった気になっている」劇団には未来がない。

中高生と演劇を創ることで、多くの「伝わらなさ」に我々も突き当たる。中高生と接する時ももちろんなのだが、それ以上に、その活動を支える大人たち(演劇のことをよく知らない人が多い)にこそ、ああ、そうか、伝わらないな、と気が付く。

その点で、私も劇団員も中高生もまったく同様に成長していく。「伝わらない」としっかりと気が付き、それにどのように豊かに真摯に向き合うか。この活動が続き、大きな実を結ぶには、私自身の態度にかかっている。

※写真は2019年7月23日成果発表公演のもの。撮影:bozzo


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?