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「哲学専攻は就職に不利」は本当なのか。とある哲学専攻大学生の言い訳。

 私は現在しがない大学生である。専攻は哲学で、古代ギリシアや性倫理、性的認識論、仏教などを授業で取りつつ、近代から現代にかけて、カントからドゥルーズ=ガタリぐらいまでを本でざっくりと学び始めている。私の哲学に対しての造詣の深さはというと、最近キルケゴールの「死に至る病」を数ページ読んで挫折しているぐらいの浅学さではあるが、何ヶ月か勉強を続けてやっと「分かっていると思っていたことが実は全く分かっていないことだった」と気づけたぐらいには哲学をかじっている。ソクラテス風に言うなら、哲学に馴染んでいない人に比べて「無知の知」を発揮できている状態である。
 話は変わるが、大学生にとって就活は目の上のたんこぶ(半数以上がこの就活を有利に進める学士号という"資格"を取得するために大学に入ってるにも関わらず)であり、それは今の私にも当てはまる。そうすると不安になるのが、

哲学専攻は就活に不利

という噂である。火のないところに煙は立たないと言うが、この噂が流布してしまった要因として考えられるのは、一言でいうと「他学部に比べて実際の社会で役に立たなそう」という考えだろう。大学の文系学部では常に経済、商、経営学部などの経済分野、法学や教育学部などの公務員就職に繋がる学部の人気が高い。また最近は、コロナで少し人気は落ちているが異文化コミュニケーション系のグローバルな学部や、就活に役に立ちますよと言わんばかりのキャリアデザイン系の学部も増えている。そんな中でも人文学系、文、言語、歴史、哲学、民俗、文化人類学などはそれに負けない人気があるが、就職という側面では確かに直接役に立ちづらいのかもしれない。
 しかし最近哲学を勉強して思い始めたのは、どうやらそういうことでもないのかもしれないということである。確かに人文学系は仕事上で具体的に役には立ちづらいのかもしれないが、あらゆる学問分野はその思考法を仕事の側面に活用したり、歴史上の事実を実際の仕事上の選択に当てはめたりはできる。社会系に比べたら実用的ではないのかもしれないが、不利と言えるほどではないのだろうか。そこでこの噂がたった理由として私が新しく考えるものは「哲学専攻は就活に不利」なのではなく、「就活したくない人が哲学専攻に多い」という全く逆の発想である。
 「あらゆる哲学はプラトン哲学の注釈にすぎない」、ホワイトヘッドという哲学家が言った言葉であるが、古代ギリシアから今までずっと哲学はこの世界の根本を疑い続けている。善悪とは何か。社会とは何か。主体とは何か。労働とは何か。そしてこれら全ての思想を伸長させた奥の方には必ず、「死」とそれに翻る「生」の問題がつきまとってしまう。特に近現代の哲学は「死」を確定した全ての大前提として扱うところから始まっている雰囲気がある(勉強した内容の現時点での私の解釈にすぎない)ので、中途半端に哲学を勉強してしまった人間は、死が逃げることのできない事項として頭の中にこびりついてしまう感がある。そして先程話した世界の根本を疑うという哲学の姿勢は、言い換えれば「如何に今の私達が間違っているか」と問い続ける学問である。私に本格的な哲学の世界の一端を見せてくれた竹田青嗣氏の『現代思想の冒険』にはこのようなことが書いてある。

近代哲学の努力は、したがって基本的には、これらのさまざまな世界観からどのように共通の見解(普遍性)を取り出し得るかという方向へ動いたのである。なぜなら、繰り返し見てきたように、もしそういう道が全く不可能なら、そもそも認識とか思想とかいったものははじめから無意味だからだ。認識や世界観がひとの数だけあって決して動かしようのないものなら、それぞれ自分の好みや感覚だけで生きているわけだから、世界を認識しようという試みそのものが無意味である。ひょっとしたらそれが本当なのかもしれないわけだが、事実そうだろうか。近代哲学は、まさしくこの問題を確かめるための努力として出発したのである。

竹田青嗣『現代思想の冒険』p116

つまり哲学的な推論によって、この哲学思想、体系が本当なのかどうか確かめるのが哲学のやっていることなのである。すなわち、それが本当ではないことが分かってしまうと、自分の体を自分で食べるように自壊する可能性を常にはらんでいる。そしてそれすらも哲学の本来的な目的なのである。哲学は常に疑い続けなければならない。
 最近は就活において求められる能力に「論理的思考(ロジカル・シンキング)、批判的思考(クリティカル・シンキング)」があり、その方法として演繹法、帰納法、弁証法などが取り入れられる。これらはいずれもデカルト、ベーコン、ヘーゲルの哲学者に基づくものであるので、このような哲学的思考法が就活に役に立つことはあるだろう。しかし、これらはあくまでも哲学的思考法なのであって哲学の本質ではない。

  1. 全てにおいて死がまとわりつく

  2. 疑い続けることによる自壊性

この2つを乗り越えようとしつつ且つ、これらを前提に置かなければならない矛盾に耐えながら進んでいくのが、現在の浅薄な知識での私の哲学の解釈である。これが日常の選択にまで侵食すると厄介である。例えば就活の際にも先程の1,2を当てはめると「自分の強みってなんだろう。そもそも強みなんて裏返せは弱みでもあるから、本質的な強み、絶対的な善いことなんて本当にあるのだろうか。そして人間はやがて死んでしまうことが確定していて、死んだ瞬間この主体が存在しえないのならこの生きている状態に何の意味があるのだろうか。そんなことを私は何もかも分かっていない。」という一種の絶望を抱えてしまう。(哲学において死は必ずしも絶望的なものではない、そもそも絶望というものも最大の可能性としての絶望といったポジティブな雰囲気を持っていることもある。私を含め新参の哲学ミーハー達が絶望するのは、この哲学の前提にある死、自壊性というよりは、この前提を踏まえた哲学によって私は何も分かっていないことを分かってしまうことにあると感じる。)この絶望によって私たちは身動きが取れなくなってしまう。「語りえぬものについては、沈黙しなければならな」くなってしまうのである。
 もしかしたら私のこの態度をくだらないと思われるかもしれない。たしかに、こんなことを考えるのは無駄である。哲学は確固たる一つの答えがあるわけではない。確からしい解釈を見つけるものである。したがって、考えても具体的に何かが変わるわけでもないし、考えなくても生きていける。本当にその通りである。しかし、ないと分かっていてもそれを探さずにいられないのが哲学者の性なのだろう。私はその門前に立ち、門の大きさに身震いをしているだけの人間であるが、その深淵への誘惑を感じないわけでもない。その深淵に入ってしまうと前後左右上下何もかもわからない形而上の世界に入っていくことを知っていてもなおである。知を追い求める快楽は何物にも変えられない。
以上、私が就活をしたくない言い訳をつらつらと語っていった。とは言っても私は資本主義社会に生まれてしまっているので、その大きな流れに巻き込まれていかないと生きてはいけない。金を稼がなければいけないのである。大学生というモラトリアムを精一杯活用して、どうやって将来金を稼ぐか考えていこうと思う。

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