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さぁ、コタツに入って、高山とペンギンの話を聞いて欲しい。

新年となりましたが、親戚一同が集まる場ともなれば、普段聞かないような話なども耳にしたりします。

大抵はたいしたことのない話であったり、おぼろげな話であったりするのですが、お正月のゆったりとした雰囲気ではなんとなく聞いてしまうことも。

これはそんな話に基づいた自分の故郷のとりとめもない話。

オチもなく、炬燵に入ってぼんやりしながら聞くような話です。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇


眼鏡屋は年末年始、岐阜県の北部、飛騨高山に帰っています。

まわりを全部山で囲まれたこの町で生まれましたが、なんでかペンギンやイルカといった海の生き物好きに育ちました。

昔々、お正月に親戚の集まる中、ゆる~く炬燵にあたりながらテレビをぼんやり眺めていたらこんな話を聞きました。

『お前、そう言えばペンギン好きやったろ。昔な、高山にな、ペンギンおったんやぞ。』
『あそこの城山公園知っとるやろ。あそこにペンギンおったんやぞ。』


自分の地元にペンギン?
この山奥の田舎に??
ハテナがぐるぐる頭に巡ります。

城山公園というのはかつてあった高山城の跡地である城山を整備した公園で、市民の憩の場ともなる場所です。

ペンギンは南半球の生き物です。
高山は北半球の日本。
生息域は掛け離れています。ペンギンのような鳥がいたんじゃないかな?とも思います。サギとかってたたずんでる姿がちょっとペンギンに似てなくもないし。

可能性はなくはないです。
似ているから冗談半分でよく見かけるやつに、◯◯ペンギン!って愛称がつけられたとかってありそうです。

ただもしかすると、本物がいたかもしれません。

自分の生まれる前の地元を調べるべく、お正月の膨大にあまりある時間を消費すべく、眼鏡屋は2020となった今立ち上がりました。

調べてみましょうか。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

ここから(たぶん)高山市の出しているPDFを拾ったので、それをおおまかに拾っていきたいと思います。

以下、参考部分は太字に。

公園の歴史を紐解くと、公園となったのは明治6年の公園制度が制定されてからとなりますが、それよりも昔の1800年頃には既に憩の場として親しまれていた模様。

明治38年に現在の“城山公園”という名称に。

昭和38年に鳥類舎、動物舎の文字が。

そして

昭和41年に“ペンギン池完成”とありました。

ペンギンの文字が出てきました。
ペンギン池なるものがあったらしいです。
ペンギンがいたかもしれないという可能性がぐっと高まります。

しかし、さらに進めていくと

昭和49年、城山の動物園閉鎖とあります。

おそらく動物園というのは鳥類舎、動物舎らをひっくるめた総称で、ここにはペンギンも関わっていると思われます。

さらに

昭和57年、ペンギン池跡地に金森長近公の銅像が設立されました。(武将の像)

推測するに41~49年までの期間、高山にはペンギン池があったということがわかりました。
まだ疑っていますがペンギンもいたかもしれない。

年代がわかったところで少し踏み込みましょう。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

ここから活躍するのは地方新聞である、『高山市民時報』の出番です。

そして手元にあるのはそれらをまとめた市民時報縮小版。各年代のものをまとめたものです。

これをひたすら探すという作業。

幸い、ペンギン池完成とペンギン池が無くなった時期はわかります。

ペンギン池完成

記事をまとめると、岐阜市からペンギンを一つがいもらい、さらに名古屋市からも一つがいもらう予定とのこと。

もしそうだったとしたら、4羽いたかもしれないですね。

白く潰れていますが、写真上で白い岩の塊からピョコピョコと伸びているのがペンギンです。

構想としては、他の動物舎もここに移転して、子供用のカートなども導入してちょっとしたレジャースポットにする“子どもの楽園”構想があったようです。

ちなみに自分の小さい頃には既に普通の広い公園で、売店の味噌おでんが美味しかったという記憶。

話を戻し、そして解体。

どうやらペンギンは4羽とも亡くなったようです。
その後しばらくはペンギン池自体が遊び場として機能していたようです。

元々が“子どもの楽園”にする予定であったところを別の遊具などにせず金森長近公の銅像にしたことに対して記事では

『市ではペンギン池に代わる“城山にしかない遊び場”を設ける予定は持っておらず金森長近のまたがる馬に遊び場が蹴飛ばされた格好』

と結構上手いこと言っているのが印象的です。

さてさて、どうやら本物のペンギンが高山にいたということがわかりました。

令和の時代となった今、この事実を知る者は少ないと思います。

この話、きりの良いところで終わりましょう。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

わりとまとまりよく終わるのが上まで、ここからはオマケの話となります。蛇足です。

ですが蛇のように長い話です。

調べていて気になるのは、
・いつごろペンギンが亡くなったのか?
・ペンギンの種類は?
ということ。

なので続けて市民時報にて調べました。

前述のペンギン池完成とペンギン池跡地に関しての記事は、年代がわかっていたのと、見出し記事になっていたため目次の部分でページまですんなりたどり着けました。

しかし、その後の情報としては目次に乗っていないため、もしかして続報とかないの?と思っていましたが、ちょっとした小さい記事に取り上げられているのを発見。

これを探すことに。
(上記の“ざつろく”の中に名古屋市からペンギン一つがいが入ったという内容が。東山動物園の職員さんが連れてきたらしい。)

何分、縮小版であることと印刷技術の関係上読みづらいため、精読するのは時間と体力が持ちません。

『ペンギン』と『城山公園』と『ざつろく』の文字を意識して拾うことにします。

↑ペンギン池に石が投げられて怪我したという内容。なんともひどい話。

↑ペンギン池横でウサギと触れあえる場所があったらしい。小鹿を入れるという計画も。

↑お菓子屋さんらしき人物から、動物園の動物達にとパンを寄贈、近隣の保育園でも余ったミルクやミカンの皮を届けるとの内容が。

あれ?見落としたなと思い、ちょっと前の市民時報を見ると

↑右上の一筆啓上という記事に餌を求める内容の記事が。実際はどうだったのかわかりませんが、動物を飼育するには食費もかかるしそれを世話する人件費もかかります。予算厳しかったんじゃないかと思ったり。

ちなみに昭和46年の時点での飼育動物は
哺乳類が
・白シカ・カモシカ・クマ・イノシシなど8種類
鳥類が
・クジャク・タカ・オシドリ・ペンギンなど約11種、23羽
とのこと。

クジャクも名前が浮いていますが、この面々ではペンギンというなんかポップな感じの字面が異彩を放っていますね。

ここまでで結構な時間使っているのですが、なんとなくの雰囲気として、ペンギンの死亡は記事になってないんじゃないかなぁという気がしました。

時間がたっぷりあればペンギン池が無くなるまで追えれたのですが。

結局、種類といつまで生きたかについてはわかりませんでした。

今、名古屋に帰る為の列車に乗っています。(電車ではない)

最後の最後にネットで検索していたらフェイスブックの懐かしの飛騨・高山さんが昔の写真を投稿されており、そこにペンギンが4羽写っていました。

画面中央下に1羽、木箱の中に1羽、上段に頭部が切れているものの2羽写っています。

種類は中央のものは胸にラインが入っていることや顔の模様からフンボルト属のペンギンであり、上段のものは立ち方の雰囲気からアデリー属かと思われます。

どちらがより長く生き残っていたんでしょうか。
どちらもペンギンといえど、アデリー属は南極に棲息しており、フンボルト属はアフリカなど温暖な気候に棲息する種です。

屋外で飼育するにはフンボルト達には冬の高山は厳しいと思いますし、当時の飼育環境では特にアデリー属などは呼吸器がカビでやられてしまいそうです。

暑がりと寒がりを一緒の環境で飼うというのは難しいと思うのでそれなりの工夫が必要になったのではと思います。

なぜ“子どもの楽園”にペンギンが贈られたか。
ささいなことですが、これには当時の人らにとってしかわからない思い入れがあったんじゃないかと思います。

大規模なものでは東日本大震災、最近では台風19号と数多くの災害があり、時間が経ちましたがその爪痕というのはまだまだ残っています。

この当時の世にも戦争という大きな爪痕が残っていました。

その上で、他国と並んでの戦後の国をあげての捕鯨や南極観測事業というのは注目されたのではないでしょうか。

南極から帰ってくる船がお土産として連れて帰ってくるペンギンには、少なからず復興の象徴というような思い入れがあったんじゃないかと思います。

そんな思いを託され、岐阜の山の奥に南半球からの使者としてペンギンが来たのかなと思うと胸が熱くなります。

最後に、ペンギン池跡地、現在の城山公園の写真でお別れを。

金森長近公
ぎふの旅ガイドさんHPより引用

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