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作品を鑑賞する力

 とても楽しみにしていたキングオブコントを観た。おもしろいコントにたくさん出会えた、とてもいい大会だった。(個人的にはロングコートダディのネタが一番好きだった。)

 お笑いの賞レースではいつもあることだが、自分ではおもしろいとおもったネタが全体の点数が低かったり、逆にあまりおもしろくないとおもったネタが高得点だったりすることが、今回もあった。

 このようなことはお笑いの賞レースに限ったことではない。小説や映画、音楽などでも、評価されている作品にあまり魅力を感じなかったり、逆に自分の好きな作品が世間的にまったく評価されなかったりすることがある。

 これに関して、作品を評価する人たちを批判したいわけではない。なにか物事を批評するということはとても難しいことで技術のいることである。自分にはその技術がないから批判はできない。

 だから私はいつも、小説や映画、音楽を鑑賞する上で「好き嫌い」という自分の感性の基準、つまり「美学」を大切にしたいと思っている。作品を鑑賞する力を成熟させるというのは自分の「好き嫌い」の基準を明瞭にしていくことだと思う。



 ときどき、SNSなどのメディアを通して、ある作品に関しての自分の「嫌い」という感情を正当な批評を通した「批判」であると勘違いしている人を見かける。それが意外と多くの支持を集めている人だったりするからやっかいである。

 多くの人がSNSをやっているこの世の中では誰もが作品の批評家を気取ることができる。だが批評というのはかなりの技術がいることだし、それなりの気概のいることである。だから、皆が気軽に批評というのはできないと思うし、しなくていいと思う。

 ただ、私たちは皆、小学生のときに読書感想文を書かされる。その慣習が、本のような作品を鑑賞をするときにはしっかりとした感想を持たなければいけない、つまり批評をしなければいけないという強迫観念を生んでいるのではないかと思う。

 小説や映画、音楽には絶対的に良いものなんてない。それに好みは人それぞれ違う。そのことはつまり、作品のおもしろさを語るという行為は難しいことであることを物語っている。

 確かに鑑賞した作品のおもしろさを表現することは、鑑賞という行為に奥行きを持たせる。しかし、それは鑑賞する際に必ずしも必要なことではないと思う。



 すべてのカルチャーには、発展のためにも批評されることは必要である。ただ同時にカルチャーは純粋に人々を楽しませるものであるということも忘れてはならない。だからこそ、「好き嫌い」と「批評」を区別する力をもつことが必要なんだと、私は思う。

 

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