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賞与支給日

先日賞与が支給された。

なんと愛おしく甘美な響きなんだろう、この賞与支給日という言葉は。学術的根拠は無いけれど、もしかすると支給と子宮が同音異義語なために、母親の胎内にいた時と同じ安らぎを脳が感じているのかもしれない。その視点で突き詰めていくと、賞与と言うのは我々が気づいていないだけでその実、母乳の隠喩である可能性があることに気づくし、ともすればボーナスというのはもはや隠喩でも何でもなくほとんど直接的に父親のおちんちんを指していることは明白であろう。棒茄子。

これほどまでに人々の心を掴んで離さない側面を考えれば、企業は毎日我々労働者に賞与を与えてもよいのではないかと思う。そうすれば労働者は「Amazing Bonus How sweet the sound(素晴らしき賞与 なんと美しい響きなのだろう)」と賛美歌を歌いながら仕事へのモチベーションを上げるだろうし、企業は生産性が著しく上がることで収益がアップするWin-Winの世界線へ変貌を遂げるに違いない。その昔、日本のアーティストであるスピッツは「愛してるの響きだけで強くなれる気がしたよ」と歌い、岡本真夜は「涙の数だけ強くなれるよ」と歌った。これは賞与でも同じことを言えるかもしれない。ボーナスの響きだけで強くなれる気がするしボーナスの数だけ強くなれるのだ、我々現代人は。
しかしこういった物事の本質に気づいてしまったときこそ冷静に見極めていく必要がある。勝って兜の緒を締めよとは少し違うけれども、こんな時にこそあえて俯瞰から見た視点で問題点をあぶり出すことで宇宙の真理へとまた一歩近づいていくことが出来るのだ。

この場合の問題点として挙げるとするならば、人間は慣れるのだ。その状況に慣れてしまうと如何に自分が恵まれているかを忘れてしまう。人間は忘れる生き物であるからこそ、その一瞬を大事にする儚い一面があり、それこそが人間足らしめているとも言えるしその一瞬を切り取りたいがために写真を撮影しインスタグラムへとアップロードするのかもしれないが、ついつい恵まれていることを忘れてしまうのである。つまり女性であれば自分にあって当たり前であるが故におっぱいの偉大さを忘れてしまいがちになっていると言える。

どういうことかと言えば、我々男性は実際のところ女性が考えるより遥かに積極的におっぱいを揉んでいきたいと思っているし、代わりに「キンタまくらしたい」と言われれば、我々男性は積極的にアイスノンでキンキンに冷やして金玉を提供する準備はしておかねばならない。東におっぱい揉みたいものが居ればおっぱいを揉ませ、西にキンタ枕したいもの居ればキンタ枕をすべきなのだ、我々現代人は。おっぱいを揉ませてもらえなくとも、渋々キンタ枕はやっていきたいとは思う。憎しみに憎しみで返しても戦争は終わらないのだから相手が憎しみの気持ちを持っていても僕は常に慈しみの心を持ち、金玉を提供したい。渋々だ。あくまで、渋々である。

話を戻して、ボーナスを毎日貰ってしまえば、いつしかそれが常態化しているが故に感謝の気持ちを忘れてしまいボーナスの意味を成さなくなってしまう恐れがある。そう考えるとやはり「たまに貰うからこそボーナスに対してこんなにも愛おしい感情が芽生える」のであって、毎日貰うというのは少し違うのかもしれない。というか、毎日賞与を貰うとしたらそれはもはやただの高額な給与であるし、企業の収益がアップすると書いたが普通に経営破綻するし、何故嬉しいかと考えるとお金がいっぱい貰えるためだからという単純な理由であることは多分これを読んだ全員が既に気づいていただろうと思うので結論を言うと、シンプルに五億円欲しい。五億円もらって家のローンを完済し終え、リビングの壁にとてつもなくそっくりな触感をした精巧なおっぱいを取り付ける改修工事をおこなった上で毎日横を通るたびに一揉みしてこれからの一生を終えたい。

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