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ジョン・ロックを読みながら学校校則について考えた

《ジョン・ロックの統治論》

ジョン・ロック (John Locke : 1632~1704年) の『統治論』を読んでいると、日本の現代政治につながる発想が多くておもしろいです。

立法権とか行政権などと言うと仰々しいですが、
古典の中ではもっと身近なもののように書かれていて、
いうなれば、
「自分も含めたみんなにとって快適なルールのつくり方」
「ルールをつくるときに注意しなければいけないこと」
というような語り口で書かれています。

そんな風に政治・統治を身近なものとして教育する機会が今の学校にあるのだろうかと考えると校則とか生徒会役員選挙とかしかないんじゃないかという気がしまして。
しかしああいった制度は、少なくとも私が経験した範囲ではなにもかもが茶番的で、お話にならないなと思ったのです。

そこで、もしジョン・ロックのような "法治国家の原点" のイメージをそのまま学校組織に当てはめたら、どんな校則・生徒会の姿が立ち上がるのか、想像してみるのもおもしろいかなと思い、やってみました。

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《選挙で校則をつくろう》


まず第一にジョン・ロックが言っているのは、
「法が大事なんだ!」ということです。
この場合の法というのは、みんなの総意でつくる決めごとのことです。
意見が完全に一致することは難しいので、多数決で決めるのがいいだろうとロックは言っています。

これを学校に当てはめるなら、
「校内の選挙で、校則をつくろう!」ということになります。

つくる校則の例としては "校内で履く靴について" なんかがいいんじゃないかと思います。

まずその学校では生徒たちが内履きを自由に持ってこれるとしましょう。
しかし靴の素材やかたちによっては武器になるようなものがあります。
そうした靴が校内に持ち込まれれば、多くの生徒が不安を感じるはずです。

そこで「金属素材の靴・先が尖った靴は禁止する」という校則案をつくることにしました。
ここでジョン・ロックのいう "法" つまり "校則" をつくる選挙がおこなわれることになります。
生徒たち全員が投票して、過半数を超える賛成が集まれば、新しい校則がつくられ、靴選びが制限されることになります。
その結果「金属素材・先が尖った靴の禁止」という校則は可決されました。めでたしめでたし。

この校則が可決されたのは、生徒たちの半分以上が、武器になるような靴を禁止したいと思っていたからです。
逆にあまりに安全性を重視しすぎて「100%ゴム素材の靴のみを許可する」なんて案を出せば、過半数の賛成は得られないかもしれません。
靴選びの自由と身の安全のどちらを重視するのか。
それを各生徒が自分のこととして考えて投票するからこそ、校則がバランスの良いあたりに調整されていくわけです。

おそらく時代や地域によっても、みんなが心地良いと感じる校則の程度は変わってくるはずです。
喧嘩っ早い人が多い学校なら、みんなが安全を求めて、ゴム靴校則が成立するかもしれませんし。
おしゃれな人が多い学校なら、多少の安全性を犠牲にしても、尖った靴を許可する校則ができるかもしれません。

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《生徒選挙 = 衆議院  /  教師選挙 = 参議院》

しかし考えてみると、学校の校則というのは、ジョン・ロックのいう "法" とは決定的に違う部分があります。
それは "より上位の権力" が存在すること。具体的にいえば教師や校長です。

更にいえば、県市町村や国の行政機関もより上位の権力と言えるのかもしれませんが、、まぁ顔の見えない外側の人たちのことはこの際置いておいて、学校の内側で過ごす人々だけに話を絞ります

もし教師や校長が「だめです」と言えば、たとえ賛成派が9割だったとしても却下されてしまいます。
こんな選挙教育では日本の投票率はいつまで経っても上がりません。

そこで私が提唱するのは、生徒会と教師会との二院制です。
つまり今の日本国会の衆議院・参議院制と同じかたちです。

まず生徒全員が投票を行い、過半数の票が集まれば、その校則案はいったん可決されます。
しかしその後、教師たちも同じように、一人一票の投票権を持って投票し、ここで過半数を超えなければ、校則案は廃止になってしまいます。

そうなると、あらかじめ教師のうちの何人かに「賛成票を入れてくれ」と話をつけておくことも大事になるかもしれません。(ただし賄賂や恐喝は無しです)
そんな根回しをしなくても、新しい校則が教師にとってもメリットのあるものなら、過半数の票が集まるかもしれません。

もちろんその場合、校則は教師の行動にも適用されます。
たとえば「授業中の水分補給を許可する」とか、そういった校則案なら生徒票も教師票も集まりやすそうです。

余談ですが、二院制のようなアイデアは、古代ローマの元老院とつながりがあるようです。
元老院 (Senatus) の語源は、シニア (Senior) と同じですが、現在のアメリカの参議院 (上院) にもSenateという名称が引き継がれています。

元老院で、文字通りのお年を召した方々が、若い民衆の決定に対する最後の歯止めになっていたと想像するなら (※)
立場の違う生徒と教師が、それぞれ別々に投票を行う二院制も、民主制の原点に立ち帰るようでおもしろいんじゃないかと。

(※ 古代ローマの元老院の役割については諸説あるようなので、あくまで私の勝手なイメージです)

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《ジョン・ロックの時代の哲学》

ここまでが "私の考えた最強の有権者教育" のプレゼンでしたが、
最後にジョン・ロックのいう "法" について少し補足しようと思います。

ロックは "法" というものを、元々は人間の中に自然に備わっていたものだと考えていたようです。
たとえば、誰かに殴られたら、殴り返す。物を取られたら、取り返す。
そういう行動を「自然の法_Law of Nature」と呼んでいます

更にいうと、集団の中で誰かが誰かを害したり物を盗んだりしたとき、被害を受けた本人じゃなくても、集団のみんなが犯人を罰したり責め立てたりします。
もしこうした行為を見過ごしてしまえば、同じことをするやつがまた出てくることになるから、集団全体の安全のために、みんなで犯人を痛めつけるわけです。
ロックによればこれも「自然の法」です。

これらの法は、紙に書かれた法律がなくても自然に存在して集団の秩序を保っていると言います。
現代の日本語でいえば「自然の法則」とも言えるのですが、「法律」も「法則」も英語で言えば「Law」という同じ言葉なのは重要なポイントだと思います。

この時代 (16~17世紀頃) の哲学者たちは「世界のLaw」「人間の身体のLaw」「物理学的なLaw」「人間社会や宗教上のLaw」などをそれぞれ関連させながら考えていたようです。
そのため今ではそれぞれ「政治学」「物理学」「生理学」「宗教」などに分かれているものも、この時代にはまとめて語られることが多いです。

ロックで言うならば、
「神の意志がこの世界・人間をつくった」という宗教観が、
「人間の意志が、法や社会をつくった」という社会・政治観にも接続しています。

もっとおもしろいのがデカルトで、
彼の中では宗教観と物理学と生理学などが接続しているようです。
(いちおう記事にもしましたが、まだまとめられていない部分が多いので、いずれ書き直すかもしれません)

こうした哲学者たちにとっては、神の存在も、世界の法則 (物理学) も、人間の心や身体も、社会・政治形態にいたるまで、すべてが自分自身の存在とつながっている延長線上に見えていたようです。

「自分とはなんなのか」を考え続けていたら、物理学や政治社会学に行き当たったと言ってもいいのかもしれません。
この時代のヨーロッパ哲学のおもしろさは、そのごちゃ混ぜ感というか、宗教的な物語がそのまま物理学の説明に使われるような、ひとつながりの文化的発展があることだと思っています。

このNoteでは今後もそうした哲学の魅力をできる限り伝えていきたいと思っておりますので、無教養・筆不精の身で僭越ではありますが、興味のある方は見守っていただけると幸いです。

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