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変な人 (35)とある映画館の、そこに座りたい女。

 「ここに座りたいんですけど」と、オバQ女は言った。

 そこは、昔の名作をリバイバル上映する昔ながらの小さな映画館。
 座席も今時珍しく、全席自由だった。
 ちなみに、今の方々は驚くかもしれないけれど、昔の映画館には、全席自由席はもちろん、真ん中正面のいちばん見やすい席だけが指定席、そのほかのすべてが自由席というところも結構あった。
 その日の上映作品は『ヘカテ』というヨーロッパ映画で、ちょっと妖艶な女優さんが出ている美しい作品だった。
 しかし、やはり昔の映画だからか、その日も200席くらいある座席に30人くらいしかお客さんが入っておらず、どこでも座りたい放題だった。
 座席は、やはり中央の見やすい席から埋まり、人間心理なのだろうか、その人の塊を嫌った人が周囲にぽつぽつと、ちょっと離れて座るという陣容。
 私もそのぽつぽつ派の一人で、スクリーン正面から少し左にずれた席に座っていた。
 斜め前には、私と同じように考えたであろう女性が、一人腰掛けている。
 その席の前は通路になっており、列には他に誰も座っていなかった。

その女性は、なぜ、その席にこだわるのか?

 上映開始まであと5分。
 50歳代と思しき小太りの身体に、オバケのQ太郎のようなシルエットのワンピースを着こんだ女性が、その斜め前に座る女性の前に立ち、女性の隣の席を指さしてこう言い放った。
「ここに座りたいんだけど」
 言われた女性は「え?」という仕草で椅子に座り直し、
「意外、心外、何言ってるんだお前、ほか行けよ!」
という気持ちをすべて練り込めたような声で、
「ここに荷物を置きたいんですけど」
と答える。
 もちろん、席があまり空いていないという状況なら、女性は荷物をどけるべきである。
 しかし場内はガラガラ。
 事実、8席ほどがつながったその座席の列には、その女性以外誰も座っていない。
 どこでも座りたい放題である。
 しかしオバQ女はそんな女性の言葉など聞こえなかったように女性を見下ろし続ける。
「私の言いたいことは、さっき言ったとがすべて!」
と言わんばかりに口を閉じ、黙って立っている。
 女性が荷物を反対側の席に移動させるだけなら、せっかくこれから楽しみにしていた『ヘカテ』をオバQ女と隣り合わせで鑑賞することになるだろう。
 その女性も、そのがっかりな将来を想像し、なおかつオバQ女の不気味さに耐えられなかったのだろう。荷物を手にとると、場内の右方面、こちらもガラガラに空いている席へと移動していった。
 オバQ女の完全勝利である。何に勝ったのかは不明であるが。
 それにしても、なぜオバQ女は、この席にこれほどの執着を見せたのか。
 亡くなった旦那さんと、この席で思い出の映画を見た。だから毎年この日にここで映画を観る……。
 絶対、そんな美しい話ではないだろう。
 座席に荷物を置く女性が許せない、公共心が異常に発達した女性か。
 なんか違う。
 その座席で秘密の取引が行われ、座席の奥に白い粉とか秘密のメッセージなどが隠されている。……ありそうだけど。
 その角度から絶対に映画を観たい偏執者。あぁこれかな~。
『ヘカテ』はぞくぞくするぐらい美しくて切なく素晴らしい映画だったけど、10分の1くらい、目の端にちらつくオバQ女にぞくぞくさせられていた、その日の私であった。 


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