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『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』感想

幾田りらとあのを主演に選択するということのメッセージ性について、過剰に考えすぎていたかもしれないと、見る前は思っていたけれど、杞憂だったかもしれない。結果的に、その政治性とメッセージ性が随所から伺える映画だったように思う。

それはこの『デデデデ』という作品そのものの主題と無関係ではない。「終わりなき日常」を真正面から取り上げつつ、結局のところ見かけの脱出路を仄めかしつつ、「終わりなき日常」の周りを巡り、回帰し、かろうじてフィクションに隘路を見出そうとしたのがこの作品だと、個人的には、解釈している。

言うまでもなく、それは脱出ではけっしてなく、フィクションはいまや、サブカルでもマイナーでもなく、メインでありメジャーである。要するに、フィクションでごまかしごまかし「やっていきをやっていく」現実に(部分的には「センシティブ」な(政治的)設定をチラつかせつつも)回帰してしまう。

そう解釈したときに、極めてメジャーでメインの「アイドル」(偶像)をこの作品に引っ張ってくるというのは、そのまま「終わりなき日常」を延命させてしまうこの作品に、グロテスクなまでにお似合いだと言える。この営為は、どこまで作為かは措くとしても、十二分にアイロニカルではあると思う。

感想をいくらか検索して、この作品が原作と照らし合わせて素晴らしい出来だ、と賞賛されていることも、「終わりなき日常」の延命にほかならず、そこまで回収されて、「出来が良い」映画だと思う。

そう整理したとき、アニメーションは勘定に入っていないことに気づく。たしかに、目を見張るような「絵」があった。いくらか魅入られるようなマンガ的記号(象徴的なマンガ的顔や控えめになった描き文字の演出)があった。運動は、どうだろうか。

原作と照らし合わせて褒めている人も、この「マンガ」の素晴らしさに気づいているのだろう。この「マンガ」が最後まで信じ続けたのは、最終話の描き文字を反転させる(100→001)演出に代表されるような、マンガにおけるフィクションの作用なのだろう。

もちろん、判断を下すのはいささか性急だ。どこまでもアイロニカルにこのマンガを引き受けた作品が、どこにアニメーション的隘路を見つけられるか。後章をとても楽しみにしている。

【補記】

主演2人の芝居がダメだったとは一言も言っていないことは、急いで補足しておきたい。特に、あのの芝居には、時折「ホンモノ」としか感じられないサブカルさがある。これはこの人にしかできない。

たとえば私は、(声優ではないけれど)『Adam by Eve: A Live in Animation』のあのの芝居が好きだ。それは、この人がここにしか生きていないと思わせてしまうような生を生きていると思うからだ。

そういうことを誰かが自覚しているということが、『デデデデ』が「完成」されているゆえんなのかもしれない。

2024/3/25

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