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アニメ・マンガ・映画を「読み」ます。 基本的にはTwitter(https://twitter.com/zaikakotoo)にいます。 長めの記事はブログ (https://www.zaikakotoo.com/ ) に掲載しています。

最近の記事

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』感想

幾田りらとあのを主演に選択するということのメッセージ性について、過剰に考えすぎていたかもしれないと、見る前は思っていたけれど、杞憂だったかもしれない。結果的に、その政治性とメッセージ性が随所から伺える映画だったように思う。 それはこの『デデデデ』という作品そのものの主題と無関係ではない。「終わりなき日常」を真正面から取り上げつつ、結局のところ見かけの脱出路を仄めかしつつ、「終わりなき日常」の周りを巡り、回帰し、かろうじてフィクションに隘路を見出そうとしたのがこの作品だと、個

    • ヨルシカ「晴る」はドイツ語で „blauen Himmel“ だからヒンメルの歌?——『葬送のフリーレン』に即して解釈してみた

      ヨルシカ「晴る」は、ドイツ語で意訳すれば „blauen Himmel“ (本来は「青空」の謂い)で、「ヒンメル(Himmel)」の語が含まれるので、ヒンメルの歌、ということに(巷では)なっているらしい。 けれど、それを言うなら「春」はドイツ語で „Frühling“ (フリューリンク)で音が「フリーレン」に近く(ドイツ語の発音を聞いてみると、実際似ている https://ja.forvo.com/word/fr%C3%BChling/)、フリーレンの歌でもあると思う。

      • 『劇場版 SPY×FAMILY CODE: White』感想

        幅広い年齢層が見るアニメをつくるって、難しい(『SPY×FAMILY』も、当然ながら、もろもろのことが考えられているのだなと感じた)。 この予告のラスト、突如として石浜opリスペクトみたいな色遣いになっていて、こういう演出にする理由がめちゃくちゃ気になって行ったのだけれど、少なくとも物語上の理由は分かった。 ヨルが戦闘作画要員になるであろうことはTVシリーズからも推察され、なるほど見どころになるようなアニメーションは見ることはできた。 話としては、たとえばアーニャが看取

        • 『窓際のトットちゃん』感想

          特殊アニメーションがいくつかあって(水中、雨、悪夢……)、どれもほんとうに素晴らしかったけれど、個人的には雨のシーンが心に残った。 アニメーション化に当たって、当然、演出をどうするかがよくよく考えられるわけだけれど、「窓際」のモチーフが最後まで生かされていたのには感服した。 分かりやすいのは最初と最後の対比。トモエ学園よりも前の学校で、チンドン屋さんに呼びかけるため、危険を顧みずトットちゃんは「窓枠」をたやすく飛び越える。対してラストでは、同じくチンドン屋が見えているにも

        『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』感想

        • ヨルシカ「晴る」はドイツ語で „blauen Himmel“ だからヒンメルの歌?——『葬送のフリーレン』に即して解釈してみた

        • 『劇場版 SPY×FAMILY CODE: White』感想

        • 『窓際のトットちゃん』感想

        マガジン

        • 『天気の子』は「幼稚」な物語か?
          4本
        • 直井文人は神である。
          4本

        記事

          『傷物語 -こよみヴァンプ-』感想

          本作自体、圧倒的に洗練された作品であることは間違いない。そのうえで、『こよみヴァンプ』それ自体が、三部作から「牙を削って爪を抜いてのどをつぶして去勢して」、『傷物語』に「生きて欲しいと思うんだ」と告げた物語だと感じた。 お前が明日死ぬのなら僕の命は明日まで……。お前が今日生きてくれるなら、僕もまた今日を生きていこう——尾石達也は、いや、私たちは、『傷物語』にそう告げた。 言葉を補えば、本作は圧倒的にスタイリッシュで、デザインされたアートアニメーションとして、アニメーション

          『傷物語 -こよみヴァンプ-』感想

          映画『大室家 dear sisters』感想

          アニメーションとして、たくさんの見どころがあった映画だった。まずopからして喰らった。あまりにも文脈が豊富な「実写」との混合のなかを、無邪気に、しかし豊かにキャラクターが歩みを進める。あれこそ、アニメーションが「日常」を歩む姿そのままだ。 個人的に惹かれたのは、撫子とその周辺にまつわるエピソードだった。映画が sisters と friends を取り上げるからには、撫子にとってそのカテゴリの埒外にある大切な存在は、決定的に不在のまま。この不在の宙吊りを、生かしたラストはし

          映画『大室家 dear sisters』感想

          『哀れなるものたち』感想

          想定したよりも、もっとずっとオーソドックスなスタイルだった。真正面から、「女性」が歩んできたとされていることが顛倒して物語化されていた、という印象。劇場の雰囲気も加味したひどく独善的な感想としては、まだこのフォルムをブチかまさなければいけないことの辛さを勝手ながら感じた。 劇場の雰囲気、というのは、たとえばラストシーンや甲斐性なしの男が酷く振られたところで笑いが起こったり、幕が降りたあと第一声で聞こえてきたのが、エマ・ストーンの「美貌」や洗練されたデザインの話だった、という

          『哀れなるものたち』感想

          劇場版『ハイキュー‼ゴミ捨て場の決戦』感想

          3セット目、温存していた(?)もろもろの「絵作り」が解放されて、これでもか! というくらいいくつもの角度から快いアニメーションを味わった。 自分のお気に入りは点数のカウントが6-7になる前後の一連のアニメーション。腕の振りはふだんの可動域を越え、飛び跳ねるときには全身が悦ぶ。熱気溢れる運動は、フルセットにもつれ込む試合の盛り上がりに呼応しているかのように見えた。 言い換えれば、熱に当てられ、常軌を逸したキャラクターの運動や縦横無尽なカメラワークは、試合そのものの逸脱してゆ

          劇場版『ハイキュー‼ゴミ捨て場の決戦』感想

          『天気の子』は「幼稚」な物語なのか?④(完) なぜ物語には<子供らしさ>が描かれるのか?

          Ⅴ. 『天気の子』は「幼稚」な物語なのか?ⅰ. まとめ 以上、下の3つの疑問を軸に『天気の子』を考えてきました。 ①「青空」ではなく「陽菜」を選ぶというラストの選択は「幼稚」だろうか? ②世界を捨てたという選択に対して、帆高は「世界なんて、最初から狂ってた」ことを免罪符にしているだろうか? ③「大丈夫」は無責任な言葉なのだろうか?  また上の問いと同時に、『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? というタイトルの問いにも答えてきました。それに対する答えもまとめておくと、以下のよ

          『天気の子』は「幼稚」な物語なのか?④(完) なぜ物語には<子供らしさ>が描かれるのか?

          『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? ③「大丈夫」は無責任な言葉か?

          Ⅳ. ③「大丈夫」は無責任な言葉か?ⅰ. 「大丈夫」は無責任な言葉か? 『天気の子』の感想を見ていて、一番気になったのは、「僕たちは、大丈夫だ」という言葉が無責任だ、という趣旨の感想です。  たしかに私も映画館でこのセリフを聞いたとき違和感を覚えました。東京は海に沈んだし、天気は治らないし、何が「大丈夫」なんだろう? と、そう思いました。  ただよく考えてみると、帆高はそういう意味で「大丈夫」と言ったわけではない、ということがわかってきました。 ⅱ. 「悩むよりも『自分た

          『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? ③「大丈夫」は無責任な言葉か?

          『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? ②「世界なんて、最初から狂ってた」は免罪符か?

          Ⅲ. ②「世界なんて、最初から狂ってた」は免罪符か?ⅰ.「最大多数の最大幸福」か「一人の生命か」 前の記事で、「青空」か「陽菜」かという問いは<大人>×<子供>という対立の延長線上にあると言いましたが、それだけではこの問いの本質を十分とらえきれているとは言えません。  なぜなら「青空」か「陽菜」かという問いを<大人>×<子供>と捉えることは形式的な構図の話だからです。いわばそれは外枠であって、選択の内実ではないからです。  「青空」か「陽菜」かという問いの内実は、もっと道

          『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? ②「世界なんて、最初から狂ってた」は免罪符か?

          『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? ①「陽菜」を選ぶという選択は「幼稚」か?

          Ⅰ. はじめに多くの「大人たち」に、この作品は無責任だと罵ってほしいし、「大丈夫」なわけないだろうと憤ってほしい。そしてオタクたちが「これが理想だなあ」と言いながら須賀のようになっていき、それを尻目に「帆高たち」には迷わずまっすぐ走っていって欲しい。  『天気の子』を見た直後のこの感想は、今でもおおむね変わっていません。  しかし、『天気の子』に対する他の方の感想や批評記事を読んでいると、どうも私の理解は不十分なのではないかと、違和感を覚え始めました。  その後自分なりに

          『天気の子』は「幼稚」な物語なのか? ①「陽菜」を選ぶという選択は「幼稚」か?

          直井文人は「神」である。 ―Angel Beats! への答え④<完>―

          11. 直井文人は「神」である。 こうして彼は三度「神」となる。  最初に書いたように、彼も「理不尽な人生」を歩んだうちの一人だ。  誰に頼んでいないのに「陶芸の名手の家」に生まれ、しかし彼は頭角を現すことなく、不慮の事故で兄は死に、結局、「直井文人」としての自分は認められずに生涯を終える。  ここで彼は、彼の心に「元型」として宿った「イエス・キリスト」に一致する。  イエス・キリストと同様に理不尽な目に遭い、生きる苦しみを知ることが、元型としてのイエス・キリストと一致する

          直井文人は「神」である。 ―Angel Beats! への答え④<完>―

          直井文人は「神」である。 ―Angel Beats! への答え③―

          7. 神の人間化 こうしてヤハウェは「人間化」することになる。  しかし彼も神だ。ただの人間にはなろうとしない。  彼がなった人間は、人間は人間でも、イエスという人間であった。  ただし、ここで注意したいのは、ユングはヤハウェという神がイエスという神に物理的に、直接変化したとは語っていない点である。  ここで語られている「神の人間化」とは、あくまで人々の心の中の神のイメージの変化の話である。  要するにこれは、『ヨブ記』に登場する、人間以上に道徳的に劣った神ヤハウェを都合よ

          直井文人は「神」である。 ―Angel Beats! への答え③―

          直井文人は「神」である。 ―Angel Beats! への答え②―

          4. 『ヨブへの答え』 カール・グスタフ・ユング (1875-1961) はスイスの心理学者・精神科医で、「ユング心理学」の創始者として有名だ。  ユングは著書『ヨブへの答え』で、どう考えても非合理的で、非道徳的なヨブの物語に、ある種の「答え」を与えている。  ヨブへの「答え」というからには、それは何かしらの「問い」への「答え」ということになる。もちろんそれは、ヨブ、ないし『ヨブ記』が発した「問い」であるわけだが、ではその「問い」とはなんだろうか?  それは端的に言うなら、

          直井文人は「神」である。 ―Angel Beats! への答え②―

          直井文人は「神」である。 ―Angel Beats! への答え①―

          1. 「僕が神だ」 人は死ぬとどこへ行くのだろうか。  天国に行くのか、地獄に行くのか、はたまた死んだら何もないのか。古今東西、死後の世界はいろいろな作品で描かれてきた。そんな死後の世界を舞台にしたアニメーションの一つが『Angel Beats!』だ。  『Angel Beats!』の描く死後の世界は、学園(天上学園)だ。しかし誰もがそこに行けるわけではない。「ひどい人生」を、「理不尽な人生」を送った者たちだけがそこに辿り着ける。  なぜ「ひどい人生」を送った者だけが、「理

          直井文人は「神」である。 ―Angel Beats! への答え①―