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いつも両手は空いている

ある日、雑談形式でやりたいことを話し合ってたとき、頭の中にあるイメージをうまく相手に伝えきれていないことが、歯切れの悪さやその人の表情から読みとることができた。
だからそのとき、僕が想像していた脳内イメージに近く、相手がピンときそうな「水族館みたいな…」や「Google検索みたいに…」といった例えを話すと、「それならもっとこうしてもいいよね」と相手ものっかってきたので、わかりにくい話でも相手になじみのあるものに例えることで、大まかなイメージを互いに共有できるとあらためて気づいた。

この経験もあって『わかりやすさ』について考えていると、前に相手から「今のわかりやすかったです」と実際に言われたできごとを、ふと思い出した。


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その日は僕含め4人でグループワークが行われ、互いにアイディアを出し合っていた。
だけど、3人のうち1人とうまく話がかみ合わない時間が少しあって、なんとも言えない違和感と、その理由をうまく言葉にできないことが気持ち悪くて仕方なかった。

だから「彼がここからここまでなら、僕達はもっと小さなここからここまでで、彼と僕達が考えている、ひとつのまとまりがそれぞれ違うっぽいね」と両手で表しながら抽象的になった説明をすると、たぶん他の人も僕と同じようにモヤモヤしていたのか「今のめちゃくちゃわかりやすいですね」と褒められた。

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簡単な図なら両手を使えば表すことができるし、手元に紙とペンがなければ空中にササッと書き、相手に伝えることができる両手は、めっちゃ便利。
そもそも誰かと話しているときって、きほん両手は空いているからそれを使わない手はないよね。と目からうろこの気づきだった。

ただ一方で、これは面接を受けたときのできごとだけど、「面接のときはボディランゲージ大事!」とどこかの何かで目にしたばかりに、それを意識してしまい、勝手にアワアワして空気をコネコネしてる人になった経歴もある。

そのとき担当だった面接官が僕の空気コネコネに対して、実際どんな印象を持ったのかは分からないけど、少なからず落ち着きのない印象を持たせてしまったようにも思える。
そのため、あらかじめ用意された文章を伝えるためには、あまり意味がなく、同じ両手を使うものでも、言語としての「手話」と非言語としての「ボディランゲージ」はまったく違うことを痛感した。

だから、非言語として両手を使うのなら、
自分が語る言葉に沿った「自分の感情」を伝えるのか
理解を促すための「図やイメージ」を伝えるのか
相手の視界の中で動かすことで「自身に注意を向けさせる」のか
そのときの状況によって目的をはっきりさせ、自分の考えを相手に伝える言葉の補助具としてどんどん使っていきたい。

p.s.
最近読んで面白かった漫画「アオアシ」に感化されて今回noteに書いてみました。まだ13巻までしか読めてませんが、めちゃくちゃおもしろい漫画です!

サポート費は、本、フィルム代として使わせていだだきます。