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世界初のエジプトパッケージツアー物語〜シェファードホテル物語編〜・トーマス・クック シリーズ⑤

 なかなか行けないエジプトですが、ISOISOさんが最近、なんとエジプトの旅をして来られました。

 ご出発前でのコメントでのやり取りの時、
「(時期が時期なので)ああ学生バックパッカーに違いない」
と思い(内定が決まり卒業旅行に行く大学四年生の旅シーズンなので)、なんだかえらそうにあれこれアドバイスしちゃったら
投稿記事を拝見し、AF✈のゴージャスシートの旅から始まるという
ブルジョアご夫婦で、王家の谷の墓に隠れたくなるほど赤面しました😂

 写真の腕前が素晴らしく、貴重な最新エジプト旅行記です。私も面白かったです、続きも楽しみです。ぜひ!!!

(そして私の記事や本のご紹介もありがとうございました。読んでいただけだけで感無量です。ケディブ(副王)の位👑を授けます✨)

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「トーマス・クック氏は十字軍遠征以来の、大勢のイギリス人を聖地に連れて来た歴史に残る人物である」

 イギリスメディアがかつてこのように取り上げたことがあります。なぜなら、パレスチナへの年間観光客数は19 世紀前半には 2 ~ 3,000 人でしたが、1870 年代には約 7,000 人、第一次世界大戦前夜には 30,000 人に増加しました。
 間違いなく、トーマス・クック旅行社はこのレバント地方の観光業発展に大きく貢献しているからです。

 飛行機が飛んでいない、コレラとペストのパンデミックが交互に起こり続けていた時代だった。聖地パレスチナはイギリスからとても遠く、そしてまだまだ未開発の危険な地域だった。さらに前回の記事で書きましたが、旅費も庶民には手が届かない金額だった。
 これらを考えると、この集客人数は大したものです。しかしこの集客はイギリス国内のイギリス人だけが対象ではないことも、その理由でした。


ゴールドラッシュのカイロの外国人たち

左手の像はイブラヒーム・パシャです。「エジプトの狂想」を読んでいただければ感慨深く思っていただけるかと…。(この人の「あの強烈なルーマニア人妻」を調べるのに一番苦労しました。試しにぜひググってみてください。絶対出て来ません…)

 これだけの人数を聖地パレスチナまで連れて来られたのは、イギリスにいるイギリス人だけがターゲットだったからではありません。在カイロのイギリス人も大勢聖地パレスチナへ連れて行っていたからです。

 1872年、クックはカイロにトーマス・クック・カイロ支店をオープンしています。当時、カイロの人口は約30万人でしたが、そのうち7.5万人はヨーロッパ人でした。
 出張や駐在でカイロに滞在するヨーロッパ人も多く、クックはカイロ支店を通し、彼らも聖地旅行へ送り出していたのです。外国に支店を出し、そこで現地の外国人の旅行の斡旋をするという発想はそれまでないものでした。

ナイルのパリ時代

カイロのスレイマン(ソリマン)・パシャ通り。スレイマンとはフランス人のジョセフ・セルバ大佐のことで、「エジプトの狂想」に登場しますm(__)m

 1800年代のカイロについて一言でいうと「ナイルのパリ」でした。それは1798年にナポレオン・ボナパルトがエジプト支配にやって来て、フランス文化ーとりわけフランス語、演劇、オペラ、酒をもたらし、フランスへの憧れを持たせたことに基づきます。(しかしわずか数年でエジプト撤退している)

 さらにムハンマド・アリ王朝が近代化を目指すのに、フランスを大いに頼り、王子たちのほとんどはパリへ留学し、エジプトの優秀な学生たちも次々にパリへ送り込まれていたことも大きいです。

 アブディーン宮殿、ゲジーラ宮殿、ギザのメナハウス(現ホテル)宮殿など宮殿を建てまくったイスマイール副王(イブラヒーム・パシャと「あの強烈なルーマニア人妻」の間の息子)は街の真ん中の広場(今のタハリール広場)をコンコルド広場を見立てて作り、
 パリのモンソ公園を真似したエズベキーヤ庭園、カイロとアレクサンドリア両方にオペラ座、そしてベルサイユ宮殿を意識した数々の宮殿も建設、パリの街路樹そっくりの道も作りました。

 これらが可能だった背景にはアメリカの南北戦争のおかげでエジプト綿の需要が高まり、エジプト綿バブルが起きていたからです。

 トーマス・クックが初めてエジプトツアーを出した時のエジプトの統治者はこのイスマイール副王で、非常に景気の良いそういう時代でした。

イスマイール副王。彼も若い時は痩せていてイケメンの類でした。ギリシャとフランスのハーフです。

お金の使い道に困っている裕福外国人のために

第二次大戦前のカイロ中心部地図です。ペンの箇所は「エジプトの狂想」「エジプトの輪舞」で登場する場所及び人の名前です。MALIKA NAZLI通りはファルークの母親ナズリ、MALIKA FARIDA通りはあのファリダ王妃の名前からです。MALIKAとは「王妃」の意味です。ちゃんと女性の名前も通りにつけられており、1952年革命のあと、むしろ男たちの名前だらけになったと私は思っています。

 カイロにはすでに国内中に鉄道が敷かれ、ギリシャ人、ユダヤ人、イギリス人らの関わり合いで銀行が誕生しています。どんどん新しい産業が入って来ており、ゴールドラッシュごとく景気の良いカイロに大勢のヨーロッパ人が移住していました。
 彼らは羽振りが良く、せっかくカイロにいる間に、すぐそこ(でもないけれど)聖地にも足を伸ばしたいと思っていました。
 しかし以前の記事に書いたとおり、当時の聖地パレスチナは多くの意味で危険にあふれており、個人旅行では行きにくい地域です。

 トーマス・クックはそんな彼らに目をつけ、エズベキーヤ地区(東京で言えば丸の内のど真ん中)のカイロのヨーロッパ人やお金持ちのエジプト人のたまり場でもあるシェファードホテルの建物にカイロ支店を開いたのです。

サミュエル・シェファード(シェパード)

 シェファードホテルといえば、ここでサミュエル・シェファードについて話さねばなりません。ちなみに本来は「シェパード」が英語に近いカタカナ表記ですが、アラビア語では「ぱぴぷぺぽ」の音がないため、人々はみな「シェファード」と発音していました。よって私もずっと「シェファード」の表記にしています。 

 シェファードはもともとイギリスの田舎者で、コックをしていました。が、小さな村の生活に飽きて仕事を辞めて海兵隊に入隊し、任務でギリシャへ。アテネではカフェのコックの求人広告を見かけ除隊。そのままアテネで暮らし始めます。

 ところがしばらくするとアテネ生活にも飽きて、今度はP&O海運社に転職。船乗りになります。P&Oは1840年代に既にエジプト進出し、初めての郵便物と宅急便荷物、そして旅客サービスも行っています。

 ある時ー
 船長の不正が発覚。シェファードは仲間と共に糾弾しました。すると逆ギレした船長にリーダー格だった彼は船の外につまみ出されます。船は彼を置き去りにし、地中海へ出航しちゃいます。

「ここはどこだ?」
 エジプトでした。

 ポケットを見ると、1ギニーしか入っていません。これじゃあ船代には全然足りません。イギリスに帰れません。
「そういえば、以前アテネのカフェで知り合ったジョン・ヒルという男がカイロにホテルを持っていると言っていたな」

 そうして荒馬車で首都カイロへ向かい、そのままヒル氏の経営するブリティッシュホテルに就職。

ブリティッシュホテル 1830年代創業

 意外とホテルマンとしての才能があったようで客の人気者になり、そのうちブリティッシュホテルの顔になります。
 実は「ぼちぼち引退を」と考えていたジョン・ヒルは
「あとはもうサミュエル・シェファードに任せようか」
 1850年代初頭のことでした。ここから所有者はシェファードになり、名称もシェファードホテルに変わります。

ナポレオン・ボナパルトの住まいがシェパードホテルになる

  この約60年前の1798年〜1805年。
 ナポレオン・ボナパルトは前王朝のパシャが住んでいた屋敷を自分の私邸及びフランス軍の本部にしていました。
 ボナパルトが敗北し去った後、そこにはムハンマド・アリの娘夫婦が住み、現在はムハンマドアリ語学学校として利用されていました。

 多分、富裕層のエジプトの子息や優秀な学生を対象にしたフランス語学校だったのでないかと思いますが、女王陛下の代理人でエジプト総領事だったチャールズ・マレー卿はそれを「もったいない」と思っていました。

 そんな時、サミュエル・シェファードが
「シェファードホテルを移転させ、拡大したい」
と言っているのを知ります。
 そこで当時のエジプト統治者だった気弱で小心だったアッバス・ヒルミーに圧力をかけ、旧ナポレオン・ボナパルト邸である語学学校を
「格安でシェファードに売れ」
と圧力をかけました。

ナポレオン・ボナパルトの私邸および仏軍本部だったという屋敷。

  そうしてボナパルトの住んでいた邸宅はイギリス人のホテルになります。

 1859年、シェファードはアレクサンドリアでホテル・オリエンタルを経営していたバイエルン人のゼック氏に12,000ポンドの割増料金でシェファードホテルを売却し、イギリスへ帰国。エジプトの度重なるコレラとペストのパンデミックにうんざりしたのです。すでに妻子がおり、子供三人がそれらに感染して死亡した時に「ああもうこんな国、嫌だ!」となったわけです。

シェファード氏。どうしてああいう国に何年も住むと、ヨーロッパ人もみんなこういう風貌になっていくのか…。

 その後、ゼック氏はさらに多額の資金を投じ、このホテルの増築改築を行います。フランスの保険会社に14,000ポンドの保険に加入し、建物は高さ 2 階建てです。
 下の階には大きなワインセラー兼酒倉庫を作り、そこには6,000ポンドから7,000ポンド相当のワインを置きました。これがのちにホテルの命とりになります。

シェファードホテルの「ムーア人のレストラン」。あまり美味しくはなかったらしいです。

 トーマス・クックがツアー客をエジプトに初めて連れて来て、カイロのシェファードホテルにチェックインしたのは1869年の1月。その数年前にシェファード氏はこの国を去っているので、実は二人は面識がありません。

 残念です。というのは前に書いたとおり、クック氏は極度のアルコール嫌いです。かたやサミュエル・シェファードは両親をアル中で亡くし、そのため彼はまだ少年の時から苦労していました。よってもし二人が出逢っていたら、アルコールの悪口で意気投合したはず…。

シェファードホテルのピンチを助けたトーマス・クック

 シェファードホテルはすでにバイエルン人のゼック氏のものになっていると書きましたが1868年、ホテルの南館を放火されその棟が全焼しました。ここに宿泊していたある将軍の命を狙った放火でしたが、不幸中の幸いは死者が出ず、改築と増築をし終えた東館が無事だったことです。
 しかし消火するものを何も置いておらず、従業員も火災の場合の対応の訓練を全く受けていなかったことが発覚。ホテルは長期間に渡る営業停止をくらいました。

改築増築を繰り返し、最終的なシェパードホテルの外観

「まずいな」
 新オーナーのゼック氏は頭を抱えます。フランスの保険に加入していたとはいえ、これはイタい。
 ところがこの窮地を救ったのがトーマス・クック氏でした。

 年が明けた1869年、クック氏が次々とツアー客を連れて来ました。その人数は増える一方です。しかし当時これに対応できる大型ホテルは他にありませんでした。そのため急遽、シェファードホテルの営業停止が解除されることになったのです。
 
これは大いに、大いにありがたい。そこでゼック氏はシェファードホテルの建物に、気前いい契約内容でトーマス・クックオフィスを用意してやりました。

看板には「エルサレム」と大きく書かれており、いかに目玉商品だったのか分かります。それにしてもこの顔ぶれの従業員、、、こんなむさい男だらけの旅行代理店。入る勇気あるか!?

 なにしろ、店を構えた場所が最高です。カイロの「黄金地区」と呼ばれたエズベキーヤ地区…中央駅にもオペラ座にも各銀行にも近く、シェファードホテル自体裕福な外国人の集う場です。おかげでナイル川クルーズの旅および聖地パレスチナ旅行の手配が続々と舞い込みます。

 そして
「トーマス・クックツアーのカイロ宿泊は全部シェファードホテル」
というやり方もその後のツーリズムの先駆けです。
 お客さんには「シェファードに泊まってね。その代わり必ず部屋を取るし値段も安くするよ」といい、
 ホテルには「必ず部屋をおさえておいてね、割引も頼むね。そのかわり空室が出ないようにしてあげるからね」

スイス人実業家のシェパードホテル

 トーマス・クックのお客さんたちのおかげでますます営業が忙しくなったシェパードホテルは、今度はスイス人実業家のカール(チャールズ)・ベーラーの手に渡ります。
 途端にシェファードホテルはますます壮大になりました。ステンドグラス、ペルシャ絨毯、庭園、床、古代エジプトの寺院に似た巨大な花崗岩の柱など…。シェファードホテルは何度も改築増築されていますが、一般的に「超豪華なシェファードホテル」とはこのベーラーが所有していた時代を指します。

チャールズ・ベーラーがオーナーだった時代のシェパードホテルの最大の特長が、これらの古代エジプト神殿を模した柱群でした。

シェファードホテル、トーマスクックオフィスも暴動で放火され消滅

 1952年1月26日、「ブラックサタデー」もしくは「カイロの火」と呼ばれる反支配者イギリス暴動が起きます。
 詳しくは「エジプトの輪舞」下巻に書きましたが、この時カイロ市内の建物が次々に放火されました。

 暴徒はシェファードホテルに押し入ると、地下の酒創庫を発見してしまいました。そこには26もの大きな酒樽がありました。これにカッときた彼らは大々的な派手な放火を行いました。
 つまり暴徒集団がナポレオン・ボナパルトの住んでいた屋敷を燃やしちゃったというわけで、ツッコミしかありません。それに何でも火をつけたがるところに民族の違いを感じます。
 おかげでこのホテルにあるトーマス・クックカイロ店も一緒に炎で燃やさ消滅しました。もっとも、すでにトーマス・クック社は破産し売却されているので、正確にはもうクックとは無関係で、別の所有者のトーマス・クック旅行社です。

5年後、1957年にカイロ市内ガーデンシティ地区のナイル川沿いに再オープン。しかし名前が同じだけで、元のシェファードホテルとは全く無関係。その「新シェファードホテル」は今年2024年にマンダリンオリエンタルホテルグループに買収されることが決定しています。

慈善活動にも資金を提供したトーマス・クック社


 エジプトと聖地パレスチナでさんざん儲けたクック氏はこれらの土地にそれなりの還元もしています。
 例えば無料診療所のエルサレム眼科診療所に資金を提供、エジプトのルクソールでも病気の旅行者や地元住民が同様に利用する総合病院に資金を提供しています。中東ではありませんが、ローマではバプテスト礼拝堂を建設しています。これらはほんの一部です。

 もともとトーマス・クックは儲かったお金で貧しい人びとのための施設を各国に作っていきたいと思っていました。しかし息子のジョンは儲かったお金はホテルやクルーズ船購入に注ぎ込みたいと考えており、この件でも意見は対立しています。

ルクソールを観光都市にしたトーマス・クック社

 トーマス・クック社はルクソールの都市建設にも乗り出しました。ナイル川沿いには遊歩道「コルニーシュ」を建設し、そこに蒸気船が積荷上げ下ろしができるようにしました。
 また、以前にも書きましたが、太陽が降り注ぐカルナック大神殿の中は砂山、瓦礫やガラクタの山、そして人が住み着いていました。これでは神秘的もなにもありません。
クック社はそれを全部整備しました。

 おそらく、息子のジョン・クックのはずですが、彼は前述した、カイロ在住のスイス人実業家のベーラーと共同でアスワンにはカタラクトホテル(1899年)、ルクソールにウィンターパレスホテル(1907年)を建設しました。

 時代はエジプトではムハンマドアリ王朝だと書きましたが、この王朝の統治者たちは宮殿、病院、学校、兵舎の数は増やしていきましたが(ハーレムの誘拐妾も増やした)エジプトが旅行先として人気が出るという発想がまるでなかった。
 ムハンマド・アリ(統治期間1805−1849年)は古代の美術品をどんどんヨーロッパに横流した上、
「ピラミッドを破壊し、スエズ運河建設の石材にしよう」と言い放ったくらいです。もしフランス人技師が止めなければ、本当にピラミッド破壊が実行されていました。

 つまりムハンマドアリ王朝が気づかなかった、興味もなかった、成さなかったエジプトの観光業開発と発展をトーマス・クック(一応、その息子のジョンも)という男が手掛け、これだけ大ブームにしました。

ルクソールに「トーマス・クックの立像を建てよう」

 2004年、ルクソールで
「トーマス・クックの像を建てよう」
と声が上がったのもごもっともです。実現はしませんでしたが、クック氏がいなければルクソールもっといえばエジプトの観光地(国)としての発展はあと数十年は遅れたに違いありませんから、その声はごもっともです。

 2011年、〈アラブの春〉こと二度目のエジプト革命が起きた時、(クックの末裔とは関係ない)トーマス・クック・グループは真っ先にルクソールへのフライトを止めました。これは早かった。
 その後も政情不安とテロへの懸念、コロナのパンデミック、隣国の戦争により数百万人の観光客を遠ざけており、爆発的エジプト観光ブームはまだ実現していません。

 ですが、今までもこういうことは度々、非常に何度も何度もありました。その都度エジプトの観光ガイドたちはこう言っています:
「エジプトの観光業を蘇らせるのには時間と情勢の安定、メディアの宣伝が重要。そしてもう一つ重要なのはトーマス・クックだ」!!!

            🐪

 このシリーズ最後の2つは「聖地パレスチナツアー」続きです。
 私が個人的に一番気になった
「クックはアラブ人ガイド、ユダヤ人ガイド問題どうしていたのか?」
 ああ調べた〜!

 そしてクック社によるドイツ皇帝の聖地巡礼です。トーマス・クック旅行社エルサレムオフィスとシオニズム運動が絡んでいく問題で締めくくりたいと思います。よろしくお願いしますm(__)m。

歴史に残る「トーマス・クック社によるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のエルサレム巡礼ツアー」

*サミュエル・シェファードについても、その他についても様々な説があること、出典により異なっていることをお断りしておきますm(__)m



 






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