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林檎の果実…中東のフリーメイソン、マーク・トウェインそしてバグダッド鉄道〜トーマス・クックシリーズ⑮

「オスマン帝国スルタン、ハミド2世。
 パレスチナをユダヤ人移民に開放して、ユダヤ人の自治祖国を設立させてください。
 その代わり、あなたのこれまでの借金を我々シオニストが返済し、さらに今後、オスマン帝国に資金援助継続をすることを約束します」

 この時、オスマン帝国はエジプトの領土を完全に失うかどうかの瀬戸際でした。よって、シオニストのヘルツルの提案を受け入れれば、エジプトを所有し続けられるかもしれない。

 ハミド2世は一瞬心が揺れ、この取引に合意しようと心が傾きました。大いに、大いに悩みました。だけども、ハッと気づきました。

 エジプトの領土を失うのと、パレスチナにユダヤ人国家が生まれてしまうのとどちらが問題なのか?

 そこでぐっと顎を上げ、きっぱりと却下しました。

「いつかカリフ国家が崩壊すれば、ユダヤ人は代償を払わずにパレスチナを占領できるだろう。
 しかしだ。私が生きている間は、決してそんなことを起こさせない。聖地パレスチナはイスラムの国から切断させない。
 私の体にメスを入れさせるとしても、私が生きている間は私の体を解剖させない」

 
シオニストの資金援助によって活動を行っていたYoung Turk(トルコ青年団)により、ハミド2世が廃位されるのはこの7年後のことでした。

本文より

ジョン・クック、「フリーメイソン」のパリ観光ツアーを手掛ける

2023年10月9日、パリのエッフェルタワーがイスラエル国旗色に染まり、ダビデの星が。

 1889年、フランス革命を迎える100周年を記念し、パリ万博が開催されました。トーマス・クック旅行社のパッケージツアーも多く押し寄せました。
 
  クック社がツアー客に配布したパリ観光の小冊子を見ると、主要な観光スポットに加えて、4 つの「お勧め街歩きプラン」を紹介しています。
 オペラ座、シャンゼリゼ通り、凱旋門、ルーブル美術館、ペール ラ シェーズの墓地など、現代の旅程とほぼ同じ内容です。

 これは非常に興味深いと思いました。なぜならパリと違い、東京の場合は約100年前の外国人に人気のある観光地が浅草寺以外、現代とはほとんど異なっているからです。
 明治時代は芝増上寺、浅草寺、池上本門寺、上野寛永寺、徳川家御霊屋、目黒不動、宮城(皇居)、二子玉川(鮎釣り)等。

 現代(2023年)は竹下通り、浅草寺、秋葉原・電気街等。

クックのパリと万国博覧会ガイド、1889 © Thomas Cook Archives. お金と基本的な両替、電車でのパリへの到着、ホテル、タクシーと乗り合いバス、レストラン、郵便サービス、利用できる娯楽について書かれています。

 約100年前のパリ観光はしかしながら、いくつかの驚きもあり、例えば遺体安置所では
「訪問者は、入り口付近の遺体が見れる」(「クックのパリと万国博覧会ガイド」p.69)、そして屠殺場見学、そこでのチップの支払いについても挙げられています。

 エッフェル塔については、
「危険を冒して頂上まで登らないでください」(p.119)
 博覧会開催当初、、エレベーターは作動していなかったからでしょう。

 しかしフランスのグランドロッジの見学については、一切小冊子には触れられていません。
 なぜ、そこに訪れていないかどうか気になるのかと言えば、トーマス・クック社のパリ万博ツアー第一弾はアメリカ人フリーメイソン団体御一行様だったからです。だからなのか、ジョン・クック自ら添乗も務めました。

 ジョン・クックは普段、パレスチナツアー同行が専門でしたので、パリのツアーに同行したこと自体、非常に珍しいことでした。

 しかし、この後からトーマス・クック社にフリーメイソンメンバーの役員や支配人が増えてきます。ただしジョン・クック自身はフリーメイソンメンバーではありません。

キリスト教国とムスリム教国が手を合わせ、キリスト教国をやっつける

 ところで以前の記事では、1798年のフランス軍のエジプト遠征により、エジプトにフリーメイソンが入ってきたことを御紹介しました。

 ナポレオン・ボナパルトはエジプトに上陸した時、この国を治めることと歴史や風土地理、文化あらゆることを調査することを目的にしていましたが、3つ目の目的もありました。

 それはエジプトでフリーメイソンを浸透させることで、さらにその後、フランス、スコットランド、エジプトの三カ国におけるフリーメイソン儀式の統一をすることでした。

 フリーメイソン儀式はいくつか種類があり、フランス式はベルギー、ルクセンブルク、オランダ、ギリシャ、スペイン、ブラジル、スイスに広がっていたのですが、ユーラシア大陸以外ではさほどそうではありませんでした。

 そこでボナパルトはユーラシア大陸以外の国々のフリーメイソン儀式もフランス式にしたいと考えており、中でもメンバーの多いスコットランドとエジプトがその対象でした。

 エジプトではとにかく一気にフリーメイソンメンバーが増えており、その数は中東最大規模でした。

 
 その後、ナポレオン三世もボナパルトの目指した「フランス・スコットランド・エジプト三カ国におけるフリーメイソン儀式の等一」を頑張るものの、結局、ナポレオン三世自身が失脚しイギリスへ亡命しました。
 
 
 さてさて。エジプトの宗主国のオスマン帝国ではフリーメイソン事情はどうだったのでしょうか。
 
 オスマン帝国にフリーメイソンが入ってきたのは、実はエジプトよりずっと早く、1700年代のことでした。しかし、すぐに当時のスルタンに潰されています。

 すると、1800年代半ばに入ると、オスマン帝国にもう一度、フリーメイソンが入ってきました。きっかけはクリミア戦争です。

 1853 年から1856年までの間、再びオスマン帝国とロシアとの間でクリミア戦争が起きました。オスマン帝国はこれまでも、何度も何度もロシアと戦争をしています。

 1853年に起きたロシア帝国との戦争では、オスマン帝国軍側に帝国領土のエジプトとチュニジア、そしてロシアの領土拡大を危惧したイギリス、フランスらも加わりました。

 これは2つの意味で、歴史に残る戦争になりました。
 というのは、まずキリスト教国(英仏)がムスリムの国(オスマン帝国)側について、一緒に力を合わせてキリスト教国(ロシア帝国)をやっつけるという戦争になったからです。

 繰り返します。クリスチャンとムスリムが手を結び、別のクリスチャンと戦った。こんなことは史上初です。

 英仏がオスマン帝国に協力したのは、ロシアにクリミア半島を取られたくなかった、領土を増やさせたくなかった。そのためにはオスマン帝国という、自分たちにとっては御しやすく、だけどもロシアに抵抗をする防波堤が必要だったからです。

 次に、なぜこのクリミア戦争が歴史に残るのかと言えば、「初めて」日刊紙によって報道され、写真によって記録された戦争となったからです。

 ハンガリー系ルーマニア人の写真家ザトマリは、勃発中の戦い現場写真を撮り、1855 年にフランスのナポレオン 3 世とイギリスのヴィクトリア女王それぞれに、自分の撮影したクリミア戦争のアルバムを献上しています。

 イギリスの写真家ロジャー・フェントンは、1855 年に 4 か月間クリミアに派遣され、350 枚を超える大判写真を撮影することに成功しました。

黒海を挟んで2つの大きな帝国があります。
本当に近いですね、両帝国は

 
 このクリミア戦争は、ほぼ400年間権力を握っていたオスマン・トルコ帝国を弱体化させたのですが、戦争中、共に戦ったフランス軍からオスマン帝国に再びフリーメイソンがもたらされ、それはアルメニア等にも広まりました。

 ところがです。
 オスマン帝国34番目のスルタンのハミド2世が1876年に即位するとすぐに、再び帝国内フリーメイソンロッジをすべて閉鎖しました。

 おそらくですが、民族宗教人種の垣根を超える「友愛」の教えが受け入れがたい。さらに、スルタン廃位を求めるトルコ青年団とフリーメイソンの繋がりがすでにあったので、ハミドは躍起になったのかもしれません。

 しかし…自治権を持っていたエジプトや遠く離れたパレスチナの「領土」までは目が届きませんでした。パレスチナのフリーメイソンメンバーにユダヤ人が加わってきます。

パレスチナのフリーメイソン

 民族人種宗教の垣根を越えるフリーメーソンは創設以来、ユダヤ人を会員として歓迎しており、大勢のユダヤ人が入会していました。

 むしろメンバーのほとんどがユダヤ人だったと言われており、その大半はセファラディ系(スペイン系ユダヤ人)出身の富裕層でした。

 そのうちの 1 人は、超大物のモーゼ・モンテフィオーレ(1784年10月24日-1885年7月28日)です。

昔の紙幣に顔が使われました。英語、アラビア語、ヘブライ語の三カ国語で「イスラエル銀行」と印刷されています。

 ファラディ系ユダヤ人のモンテフィオーレはイギリスの金融家、銀行家で、活動家、そイギリスのユダヤ人の代議員会の会長、そして人道活動家や慈善家でもありました。

 例えば、イギリスがエジプトを含む中東における奴隷制度を廃止させようと懸命に努力をしていた時、モンテフィオーレはロスチャイルド家と並び、迷わずポンッと巨額の資金を調達してやっています。

 また、モンテフィオーレはパレスチナのユダヤ人コミュニティの産業、ビジネス、経済発展、教育、健康を促進するために多額のお金を寄付し、まだ地位の低かったパレスチナ地方のユダヤ人の地位の改善に、大いに貢献しました。

 1868年、エルサレムで最初のフリーメイソン儀式が開催されることができたのも、モンテフィオーレの資金援助があったからです。

 この初のエルサレムのフリーメイソン儀式の場所は、東エルサレムのダマスカス門近くにある、ゼデキヤの洞窟(一般にソロモン王の採石場として知られている)でした。

 洞窟が選ばれたのは、
「もしかしたら、フリーメイソンに結びつく古代遺跡を発見できるかもしれないので、ついでに発掘もしてみよう」
 フリーメイソンメンバー達の胸に期待が踊ったからでした。

 ただし、儀式を執り行ったのはモンテフィオーレ自身ではなく、ロバート・モリスというケンタッキー州生まれのアメリカ人でした。

 そして、この儀式出席メンバーの顔ぶれは豪華で、例えばパレスチナのヤッファ州知事のトルコ人(ムスリム)やプロイセン王国の領事や様々なイギリス人などで、アメリカ人作家のマーク・トウェインもいました。

マーク・トゥエインとフリーメイソン

 マーク・トゥエインの本名はサミュエル・クレメンス。ユダヤ系ではありません。

蒸気船クェカーシティ号

 1868年、
 トゥエインはアメリカを発ちヨーロッパと中東へ、蒸気船の旅へ出かけました。この蒸気船は南北戦争で使用され、その後旅客船に改造されたクェカーシティ号です。

 大西洋を横断しヨーロッパに到着すると、トゥエインは仕事の記事を書くためにパリ万博を見物しました。

 ややこしいですが、前述したトーマス・クックのアメリカ人とイギリス人のフリーメイソンツアーは1889年のパリ万博見学で、

 マーク・トゥエインが訪れたのは、その22年前の1867年のパリ万博です。これは日本が初めて国立パビリオンで世界に日本の美術品を発表した万博です。

 万博見物をしてヨーロッパを離れると、コンスタンティノープルに入り、この先オスマン帝国領土内を旅するための許可書の書類を作成します。この証明写真を撮影したのが、前の記事で少し触れたアブドゥッラー兄弟です。

 

 アメリカとオスマン帝国が国交を開始したのは1832年なので、すでにアメリカ人も聖地パレスチナへ訪れることができました。

 トゥエインはオスマン帝国領土に立ち入る許可書を入手すると、エジプトとパレスチナへ向かいました。
 エジプトはただの観光を楽しみ、パレスチナは前述のとおり、エルサレムでのフリーメイソン集会の出席です。

 のちに、これら一連の旅は「The Innocents Abroad」という題名の本になりました。

 その約140年後の2009年。
 ネタニヤフは「The Innocents Abroad」の本を当時のアメリカ大統領、オバマにプレゼントしました。

 ネタニヤフが何を伝えたかったのか明白です。なぜなら、この本の中で、トゥエインはパレスチナについて、このように言い表しているからです。

「ぼろ布、惨めさ、貧困、汚れ…(省略)エルサレムは悲しげで、陰鬱で、活気がない。私はここに住みたくない」
「先に進むほど、太陽は暑くなり、風景は岩だらけでむき出しになり、不快で陰鬱なものになっていくばかりだった…どこにも木も低木もほとんどない、うんざりだ」

 明らかにネタニヤフは
「イスラエル建国以前のこの地は荒れくれて、人が住めたようなものではなかった」
というのを、オバマに伝えたかったと考えられます。

 しかしです。
 The Innocents Abroadを全部読めば分かるのですが、トゥエインは他の国のことも悪く書いています。ドイツではワグナーのオペラについても「酷い代物だった」とけなしています。
 
 よって、少なくともこの本を読む限り、もともと偏屈な人だったのだと思います。あの、のびのびした「ハックルベリーの冒険」と「トム・ソーヤーの冒険」で育った大人としては、なかなか衝撃です…。
(現在、キンドル読み放題にもアップロードされているはず)

マーク・トウェイン(丸で囲んだ)とクエーカー・シティに乗船客たち。いかにも全員アメリカ人らしい外見ですね…

トーマス・クック社の総支配人はフリーメイソン

 1873年のこの年、パレスチナのヤッファに、アメリカ人入植者であるケンタッキー州生まれのロバート・モリスによって、2つ目のフリーメーソンロッジも設立されました。その流れはこうでした。

 まず、レバノン出身のキリスト教徒のアラブ人、アレクサンダー・ハワードという男がそこの土地と建物を購入。彼はもともとパレスチナの国籍を所有していますので、土地購入にはさほど難航しませんでした。

 第一、ハワードが何者かといいますと、トーマス・クック旅行社パレスチナ支部の総支配人(代理人)です。
 いくらすでに土地売買制限をもうけられていたとはいえ、そんな男が土地を購入できないわけがありません。

 それにです。ハワードはトーマス・クック社の大繁盛のおかげで、「世界に影響力のある実業家ランキング」に入るほど、大儲けしている有名人でした。ロンドンのトーマス・クック本社から口出されず、パレスチナでは好き勝手できていたのでしょう。

 有り余ったお金でヤッファ、エルサレム、それ以外の地域でもホテルを建てていき、パレスチナ・ホテル王にもなっていたハワード自身の住まいはヤッファにありました。
 地元の人間では知らない者がいないほどの大豪邸でしたが、その大豪邸はのちにフリーメイソンのロッジとして使用されました。これはきっと計画だった可能性があります。

 一旦、アラブ人が自宅の名目で土地を購入し、そこに実際に建物を建てる。そして、その次にフリーメイソンもしくはユダヤ人入植者に転売するというのは、すでによく行なわれていましたから。

 それはともかく、注目すべきなのは、当時のパレスチナのフリーメーソンのロッジにはユダヤ人とアラブの両方のセレブが、メンバーとして混在していたことです。

 トーマス・クック旅行代理店のエージェントでもあった、イスカンデル・アワドというキリスト教徒のアラブ人ホテルオーナーもその一人でした。 
 
 これはフリーメイソンの名の下で、様々な民族、宗派のクリスチャンやモスリムが、同じ志で手を組んでいるというのはなかなか興味深いことです。

 本来あるべきの「パレスチナ多様性」および「パレスチナ平等」という理想の構造が、そこのフリーメイソンロッジの中だけでは存在していたことになります。

 ハイファに拠点を置くフリーメーソンの一人、ダニエル・ファーヘイ博士という人物も次のように書いています。
フリーメーソンは、イスラエル社会の異なる民族的および文化的層の間、特にユダヤ人とアラブ人の同胞間の理解を深めることを積極的に促進する数少ない組織の一つであり、また、移民の社会統合である

 こういった証言から見えるのは、19世紀のうちはまだパレスチナのアラブ人とユダヤ人のフリーメイソンは、互いに仲良くやっていたということです。覚えておいてください!

 1881年、ハワードが引退した後、トーマス・クックパレスチナの次の総支配人になったのは、エルサレムのフリーメイソンメンバーでありモルモン教徒でもあるローラ・フロイドでした。

 これは女性もメンバーになれたロッジだったということになりますし、この時代に女性を支配人に置いていたということでもあります。

 ちなみに、ローラ・フロイドはヤッファとエルサレムの間を結ぶ馬車のビジネスも始め、結構儲けています。1898年のヴィルヘルム2世の巡礼ツアーでも、自分の馬車会社の馬車を出したので、二重で儲けたようです。

バグダット鉄道

  1898年、ドイツ帝国のヴィルヘルム2世がパレスチナ巡礼ツアーを敢行しました。
 この巡礼の裏には、オスマン帝国との関係を強化したいドイツの思惑が秘められており、英仏ロシアはそれが分かっていたので、だからヴィルヘルムの聖地ツアーに眉をひそめていました。

 案の定、巡礼ツアーの翌年にまずドイツ東洋協会による発掘作業がバビロンで始まり、オスマン帝国政府の財政再建のために、ドイツ政府高官が投入されました。

 こんな最中。
 義和団の乱以降、ドイツは中国のムスリム軍(甘军士兵)と問題を抱えおり、大変弱り果てていました。

 これを見ていたハミド2世はドイツに恩を売るためにも、同じムスリムとして、中国のムスリム軍(甘军士兵)との交渉を買ってでて、ドイツを助けたりもしました。

 そして両国の強固な結びつきの目玉はこれです。
 1903年にはドイツ資本によるベルリンから(オスマン帝国領土の)バグダードまでの鉄道建設計画、バグダッド鉄道が開通しました。

 バグダッド鉄道のルートはベルリンからコンスタンティノープル、シリア、ロシア、パレスチナ、メソポタミアのバグダット、そして将来はインドまで繋ぐ予定で、そしてドイツがペルシャ湾を建設するというものでした。

 完成したら、すでに英仏による管轄のエジプトのスエズ運河を通過せず、ドイツはアジアへ進出できてしまいます。つまりドイツによる中東、インドを含むアジア制覇の可能性が生まれてしまうのです。

https://www.globalsecurity.org/military/world/europe/de-berlin-baghdad.htm

  実際、ベルリンとバグダッドを結ぶドイツのバグダッド鉄道は、スエズ運河の強烈なライバルとなる東への交通ルートになる予定で、バルカン半島とオスマン帝国周辺におけるドイツの影響力と圧力が実際に増大し始めました。

 さらに、ドイツはバグダッド鉄道建設で得る林業、鉱業、農業、採石その他の権利で一儲けをし、そして破産しているも同然のオスマン帝国を完全にドイツの支配下に置く、すなわちドイツがオスマン帝国を手に入れることをも何を隠そう、こっそり計画していました。

 だからオスマン帝国とその領土には、皇帝自身の特別な訪問が必要であったため、聖地巡礼にかこつけ、ヴィルヘルム2世ドイツ皇帝(カイザー)はレバント地方へ渡り、
 最終的にはダマスカスにあるサラディンの墓で自らを「イスラムの守護者」と宣言したのも、バグダッド鉄道建設の計画ならびに最終的にオスマン帝国の領土を全部ドイツがいただこうという野望があったからです。

 この一連の動きに、イギリスなどはますます苛々を募らせ、国際問題に緊張が走りました。
 それを感じ取ったドイツ銀行は、この鉄道建設にお金を出せという皇帝に要請に従うのに躊躇しました。争いに巻き添えをくらいたくなかったのです。
 だけども結局、資金を出すことにしたのは、メソポタミアで石油鉱床が発見されたからでした。

 ところで、バグダッド鉄道の工事には大量のアルメニア人が強制労働でかりだされました。しかも海から攻撃されないように、内部の複雑な山脈に線路を敷くため非常に危険な作業であり、工事中に大勢が死亡しました。

 スエズ運河は南スーダン人の奴隷、ドイツのバグダッド鉄道はアルメニア人の強制労働者たちが、、、というわけだったですが、むしろ中東に限らず、この時代、犠牲を出していない大工事現場があったのかどうか知りたいものです…。

飛行機の時代へ移り変わる

  バグダッド鉄道の路線が拡張される最中、1911年、トーマス・クック旅行会社は​​ ルツェルンに本拠を置く飛行船会社と、湖一周の飛行船旅行のチケットを販売する契約を結びました。

 これをきっかけに、トーマス・クックは航空券の販売もしくは飛行機を利用したツアーの販売に力を入れていきます。時代が蒸気船や汽車ではなく、飛行機が主役なのだということにいち早く気づいたからです。

 飛行機に乗れるのはまだまだビジネスマンやブルジョアだけでしたが、トーマス・クック旅行社に限らず、人の移動が飛行機になろうとしております。
 
 かたやシリアとトルコの周辺の情勢は不安定です。ここを列車で陸路通過するのは大変危険です。だから
「バグダッド鉄道って本当に必要なの?」
と、バグダッド鉄道建設に対して白けた雰囲気になっていました。
 工事があまりにも長期に渡ると、時代にそぐなわなくなってくる…

 ちなみ1938年、日本が大東亜鉄道建設を打ち出していました。東京から下関、そこから釜山から中国を通り、アフガンのカブール、イランのテヘラン、そしてバグダッドまでレールを敷こうと。
 色々な意味で甘いですね…。 蛇足ですが、現代のイラクの国内の鉄道は、中国が建設したものです。

 そうそう、アガサ・クリスティはバグダッド鉄道に乗車しています。二番目の夫がシリアで発掘をしていたからですが、「オリエント急行殺人事件」は鉄道がアレッポ駅を出発するところから始まります。もちろん、トーマス・クックツアーもバグダッド鉄道を利用しています。

「聖地パレスチナはイスラムの国から切断させない」

 以前の記事にも書きましたが、「ユダヤ国家」を執筆し、世界シオニスト機構を立ち上げたティルヴァル(テオドール)・ヘルツルはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の賛同と支持をとりつけるのに失敗した後、直接オスマン帝国スルタンのハミド2世に交渉することを決心しました。

 そのために必死に「つて」を探し求め、そこに現れたのがポーランド人のフィリップ・ニューリンスキーという男でした。

 ニューリンスキーは元々ポーランド貴族の家系の出で、外交官になったあとフリージャーナリストに転職していましが、彼はハミド2世との繋がりを持っていました。

 1901年5月のある日

 ヘルツルは自分のメッセージをニューリンスキーに託し、ハミド2世に届けさせました。
 ようは
「パレスチナを買いたい。売ってください」

 正攻法ではだめなのは分かっていたため、ヘルツルはハミド2世が食いつくであろう「pie」を用意していました。pieとは「餌」です。

「スルタン・ハミド2世よ、
 パレスチナをユダヤ人移民に開放してください。ユダヤ人の自治祖国を設立させてください。

 その代わりです。あなたのこれまでの借金を我々シオニストが返済し、さらに今後、オスマン帝国に資金援助継続をすることを約束します」

 ヘルツルは知っていました。ハミド2世が抱える借金が途方もない巨額のものになっており、 さらにこの時、オスマン帝国がエジプトの領土を完全に失うかどうかの瀬戸際であることを、非常によく理解していました。

 だからこそ、このタイミングで金銭的に手を差し伸べることを申し出たのです。

 実際、ハミド2世は心が揺れました。ヘルツルの提案を受け入れれば、エジプトを所有し続けられるかもしれません。

 だから、この取引に合意しようかと、大いに、大いに悩みました。だけどもです。突然、ハッと大事なことに気が付きました。

「エジプトの領土を失うのと、パレスチナにユダヤ人国家が生まれてしまうのとどちらが問題なのか?」

 ヘルツルの日誌にも書かれていますが、この時、ハミド2世は顎を上げて、使者のニューリンスキーにきっぱりこう返事をしました。

「いつかカリフ国家が崩壊すれば、ユダヤ人は代償を払わずにパレスチナを占領できるだろう。
 しかしだ。私が生きている間は、決してそんなことを起こさせない。聖地パレスチナはイスラムの国から切断させない。
 私の体にメスを入れさせるとしても、私が生きている間は私の体を解剖させない」
"I cannot give away any of it. Let the [Zionist] save their billions. When my empire is partitioned, they may get Palestine for nothing. But only our corpse will be divided. I will not agree to vivisection."

 ハミド2世が退位を強要されるのはこの7年後のことで、その背後にはシオニストがいたことは判明しています。

     「ハバナギラ(Let's rejoice and be happy)編」へつづく

 あともう一記事でおしまいとするつもりが、
次回の「ハバ・ナギラ(Let's rejoice and be happy)編」に力が入ってしまい、あともう二記事になりました。

 ハバナギラの歌はもともとメロディーがあったのですが、歌詞がつけられたのは1917年。つまり大英帝国軍のエルサレム征服と1800年間そこに住んでいたアラブ人追放の始まった年です。

 オスマン帝国を追い出し、バルフォア宣言を称えるコンサートがエルサレムで開催されることになりました。そのステージで発表し盛り上げるために、古い民謡にハバナギラの歌詞がつけられました。Let's rejoice and be happy…

イスラム教ではイブがりんごを食べたとは明言しておらず、先祖の[原罪を子孫が負うのはおかしいとしています。ちなみに、りんご🍎はアラビア語ではトゥッファー、ヘブライ語ではタップファーです。



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