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【短編小説】原理

【執筆当時の創作メモ】
生きる力さえも死ぬことにしか使えない。戦争という究極の男性原理の不合理さ。

 天候不良により鹿児島県鹿屋基地に帰還したが、二十名近くいた知ったる戦友は三人に減っていた。
 昭和二十年の春である。
 私は久慈、吉野という学徒兵と食事をすませて店をでた。日が暮れ始めていた。腹はちっともふくれなかったが、もとよりどうでもよかった。
 三人とも、先輩から軍隊は人を人扱いしないと聞かされて、召集をまぬがれるため大学に入ったようなものだから、文学論を戦わせることも哲学を語ることもしなかったけれど、人の目を気にせずに話せるだけで楽しかった。
 私は教練の成績も悪かったから、軍隊にいきたくなかった。いっても何もできないとおもっていたが、桜花隊ならば役にたてるといわれた。
 今日は晴天だったのに、日暮れになっても農道は昨夜の雨で荒れたまま、そこに桜の花弁が舞い散っておびただしく、きたならしい。
 脳裏に学徒出陣で猛々しく合唱した『海行かば』が流れだした。口ずさむと二人も歌いだす。すれちがう兵士が、私たちの歌声に触発されて歌いだし、歩き去っていく。
 そのうち誰からともなく声がとぎれた。
 なにか聞こえるとおもって身体を固くした。久慈の指した方角を見ると、はるか彼方で戦闘をしているらしい。下に凝った淡い闇と、消え入りそうな夕陽の二層に別れた薄暗い宵空で、無数の光が競うようにひらめいている。
 あの空を飛ぶんだとおもうと、見ているだけで黄昏の空に気持ちが吸いこまれるようである。真っ赤な夕陽の、そのまた先の先へと、ずっと飛んでいけそうな気がする。
「一枚一枚は綺麗なのになあ」
 ふりかえると吉野が花びらをひろいあげていた。薄暗くて私にはよく見えなかった。
 私は二人の先を歩いて帰った。

 翌日、金属の骨に布を張った飛行機で飛んだが、機体の不調により生還した。くさくさしてしかたがなかったけれど、吉野が帰っていることを知ると嬉かった。会ってすぐに、吉野が久慈は逝っちまったといった。そうか、といって二人で飯を食いにでかけた。
 農道ですれちがった男から、遅れていた兵の補充がおこなわれたことを知った。基地はまたにぎやかになるだろう。
 二人のあいだで久慈の死が話題になったから、食堂まで歩いているときに口をすべらせた。
「ことさら、死ぬことにこだわるのはおかしいよ」
 吉野は厳しい表情で私をにらみつけた。私はおさまらず、生きて帰って、戦後の日本をたてなおしていくのが本当じゃないだろうかと言葉をつづけると、吉野は固い表情のまま、首をふった。
「それはぼくらの仕事じゃないよ」
 食堂に入ると、見知らぬ兵隊たちにまぎれて給仕の女性がいた。名を聞くと桜といった。一昨日食堂の女将がなにかいっていたようだが、彼女のことだろうとおもった。
 桜と私たちは同世代で、同様に教養もあった。食事の場は華やいだ。店内は学徒兵ばかりで、彼女におかしなちょっかいをだそうという人間はいなかった。
 静かな会話とつましい食事で、ひさしぶりに落ちついた気持ちをあじわうことができた。吉野はとめるのも聞かず酒を飲んだ。
 桜は食事をすませた私たち数人を引っ張って自宅にむかえ、ピアノを弾いてくれた。
 音楽で楽しむのはいつ以来だろうか。横で見知らぬ兵隊が女々しく泣きだした。私がおもいだしたのは音楽の授業だった。飛行機の爆音で敵味方を峻別すると称して、和音の聞きわけを強制されたことだ。
 桜は『アヴェマリア』を奏でた。可憐であった。吉野の合唱したいという声で『帰れソレントへ』を弾いた。
 私たちは元気をとりもどして肩を組み、大合唱した。
 そのうち吉野は酔いつぶれた。
 皆が帰ってから、吉野を起こそうとする私をピアノの前にすわった桜が手招きした。桜は内緒だといって、最後まで残った私に『宵待草』を歌った。哀しい響きであった。
 桜はピアノから手をひくと、主人を亡くしているといった。私は先を聞こうとおもったが、桜はそれ以上語らなかった。
 吉野を背負って、別れ際に、戸口にたった桜が生きて帰ってくださいといった。
 彼女の言葉に勇躍して応じる兵もいるだろうが、私は見つめかえすことしかできなかった。
 私と桜のあいだには、あたたかいけれども恐ろしいなにかがあった。彼女は私を見つめていた。軍規に隠された私を見透かされた気がして、下腹があたたかく、生きる力のようなものがわきたつようだった。けれども、その力をどこにむけていいのか、私にはわからなかった。
 私は胸を張って答えた。
「同期は散華していって、ぼくだけが残されるというのはやりきれません。ですが、ぼくは、早まらんつもりです。任務を全うするまでは、絶対に、断じて、やりぬきます」
 桜はなにもいわなかった。一度部屋にひっこんで、もどってくると、白い絹地をつくろったマフラーを、私の首にまいてくれた。お守りだという。
 私は早々に整備隊長に会いにいき、いい飛行機を下さいと頭をさげた。お願いしますというと、髭面の老兵はうなづいた。

(了)

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