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【ミステリ】小野田桔平、おのれの迷宮に死す(3/全3回)

 岸部貞夫は出勤して机にむかっていた。ぎゅうぎゅうづめのオフィスで、朝から隣近所の電話が鳴りづめに鳴っている。岸部は電話をとらず、堂々巡りの思考をはじめて、仕事の手をとめた。ふりかえって壁にかかった時計をみると、昼までにはまだ時間があった。
 仕事どころではない。
 机の隅で冷たくなっている茶を飲んだ。
 もう一度時計を見て、右手の腕時計と比べるとずれている。岸部は舌打ちして、鳴っている受話器をあげるとすぐ下ろして、またあげた。時報で腕時計をあわせた。昼休みに沖田孝史がくるのだ。
 あれから桐子は出社していなかった。
 代わりに小野田桔平が出社してきた。
 桔平は桐子の居所を知っているのかもしれない。些細な疑惑が、確信めいたものに変わっていた。昨日は昼食を共にした。桔平はすでに桐子の失踪を知っていた。桐子の同僚から聞いたのだという。
あまりにも不自然だ。
 やはり二人は特別な関係にあったのだろう。そうでなければ、桐子の情報を得るため同僚に聞きにいく理由がない。偶然聞いたとでもいうのだろうか。桐子の会社まで出むいていったとでもいうのか。
 桐子は洋食屋での夜、桔平との関係を否定した。
 いまおもえば、おれに気をつかったのだ。そうおもうとそれが真実のような気がした。桐子のついた嘘なのだ。
 そうでないとすれば、小野田桔平が桐子に特別な関心をむけていたということだ。
 岸部も三十年近くは人生を生きている。ときには嘘が必要であることも知っている。真実を明らかにすることが、必ずしも良いことだとは限らない。
だから。
 おれとうまくやるために桐子は嘘をついた。
 彼女にとっては必要な嘘だろうが、おれにとっては、良いとはいえない。馬鹿を承知で桔平との関係を問いつめていれば、こうなる前に手を打てたかもしれない。
 なんとかして桐子に会いたい。
 一目でもいい。
 おれは桐子から真実を聞けば、嫉妬しただろう。
 だから桐子は話さなかったのだ。
 それが、悔しい。
 岸部は気をまぎらわそうと思考を寸断して仕事にもどった。ペンの先がでていて、考えているあいだ、書面にでたらめな筆跡をつけてしまっていることに気づいた。書類をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に放った。はいらなかったから誰かに叱責されたが、うるさいと一喝した。
 桐子のことを考えるたびに、桔平との仲が疑われてくる。おれにむけられた笑顔が、そのまま桔平にもむけられているのかとおもうと、やりきれない。
 周囲の喧噪を無視して、岸部はまた、なにか手はないかと考えはじめた。すべてが遅すぎるけれど、なにもしないわけにはいかない。
 今日、沖田孝史と小野田桔平をひきあわせてやる。いまからでもとりかえしてやるのだ。そうすれば、すべてのことがあぶりだされるような気がする。この不吉な予感も綺麗さっぱり消えて、桐子がいつものようにおれの前にでてくるだろう。
 そうしたら、きっと混乱するかも知れない。
 呆然とするだろう。
 なぜなら、おれはもう、桐子が死んでいるんじゃないだろうかとおもっているからだ。
 自分の探偵じみた行為が、桐子の死という事実を踏み固めているような気がしてならない。
 こいつをやっといてくれ急ぎだ、といって上司が岸部の机に書類をおいていった。すみませんがと返事をしたけれども、聞こえなかったようだ。
 岸部はまた腕時計を見て、やりかけ書類を机の隅に放ると、わたされた書類に手をつけた。いつのまにか仕事に没頭していた。背後に誰かいるとおもったら、きましたよと男の声がした。同僚が来客を知らせてくれたのだった。
 岸部は腕時計を見た。
 予定よりも早い。
 オフィスの入り口にたつ沖田孝史は、このあいだと同じスーツ、同じ帽子だった。快活に見えるけれども、幾分くたびれた雰囲気をまとっていた。
 岸部は挨拶を交わして、背の高い灰皿とベンチだけの、窮屈な休憩所に案内した。踊り場ほどの広さしかない休憩所には、冷房がかかっていない。腰をおろすと暑くてじっとしていられない。真夏日であったから湿気がこもっていた。たまらずネクタイをゆるめて、襟元をはだけた。沖田孝史が暑いですねといってジャケットを脱いだ。むかいの窓を開けると、生温かいビル風がはいりこんだ。
 岸部は近くの給湯室から冷たい麦茶をもってきて、沖田孝史にもすすめた。沖田孝史は両手で遠慮がちに湯飲みをうけとった。
 岸部は開かれた窓に向かい、沖田孝史とならんですわった。
「ちょっと早すぎましたか」
「本当なら冷房のある食堂に案内したいところですが、こんなところでもうしわけない。応接室もふさがってまして」
「いや、みなさんの前で桐子の話をするわけにもいきますまい。ましてや、あなたが一緒では」
「わたしは平気ですよ」
 沖田孝史は岸部の答えを聞いてほほえんだ。
「わたしは平気ではありませんな。正直いって、他人には知られたくない。なんというか、自分の娘が失踪したなんて、なんだか恥ずかしいことのような気がします」
 桐子が借金や男の問題で蒸発したという噂はあった。沖田孝史は何度か会社にきて、桐子の同僚から情報を得ていた。桐子が失踪したことは皆が知るところとなって、大げさにとった同僚がいった冗談であろう。不謹慎だとは攻められまい。人間はわずか七年で書類上は死んだことになるのだ。
 しかし問題は、関係者にとって月日は関係がないということだ。
 実際に失踪したことを証明できるのは、失踪した本人以外にいないのだ。本人が現れて、わたしは失踪した、死亡したといわれなければ、納得できるわけがない。
 岸部は麦茶を喉に流しこんだ。沖田孝史は岸部の考えを見透かしていたように、好ましくない事実があばかれることだってあるといった。
「そんなことはありませんよ」
「お気遣いには感謝しますが」
 岸部は言葉につまった。沖田孝史はにがい表情で、手にもった湯飲みの汗を、親指でぬぐっている。
「桐子さんの情報は」
「それが、ないのです。さっぱり」
「私もなにもわかりませんでした。昨日と今日、桐子さんの会社を訪ねてみましたが、やはり出社していないそうです」
「休暇届には理由を書く欄がありますが、桐子さんはなんて」
 沖田孝史は胸ポケットから紙をとりだすと、岸部に手渡した。休暇届の写しであった。私事のため、と理由の欄に小さな字で書かれていた。
 こんな単純なことで手がかりがつかめるならば、桐子の父親は既に様々な情報を得ているだろう。展開できるような情報がないからこそ、わざわざおれに会いにきているのだ。
 休暇届けを折りたたもうとして、日時に気がついた。
 岸部は桔平が長期休暇をとっていたことをおもいだした。
「まだ昼休みには早いのですが、一人、やはり桐子さんと面識のある人間がいまして」
桔平さんといいかけて、岸部は言い直した。
「小野田桔平というのです。会ってみませんか」
「ええ、是非」
 桔平の会社は北フロアである。沖田孝史を案内しながら、桔平が尻尾をだすのではないだろうかと考えた。桔平が妻の千鶴子と旅行にいったことは電話でわかっている。
 だが桐子の失踪についてはなんの説明にもなっていない。
 おれが桐子との仲を疑っていることに、小野田桔平は勘づいているだろう。桔平の口調は、わざと旅行の事実を知らせたようにも聞こえる。桔平が桐子をどうかしたのであれば、父親との再会で揺さぶりをかけることができる。
 岸部はなにも見逃さない覚悟で桔平がいるオフィスのドアをノックした。桔平を呼びだしてもらって、沖田孝史と引きあわせた。
 緊張しているようには見えない。桔平は岸部と視線をあわせてから、沖田孝史とむきあった。
「お仕事中に失礼いたしました。桐子のことを是非とも聞かせていただきたいとおもいまして」
 桐子の父親がきりだした。岸部は桔平の表情だけを見ていた。
 泣き笑いのような顔だ。気持ちが悪そうである。見ようによっては、罪の意識にさいなまれているようにも見えた。先入観を捨てなければならない。罪に苦しんでいるように見えるのは、おれがそう見ているせいかもしれない。
 桔平は桐子について、話すことができる情報をもっていないはずだった。案の定、挨拶を交わした程度で話は終わった。特に新しい情報はなかった。桔平は知らないの一言でなにも話さなかった。
「お役には立てません」
 桔平はそういってひっこんだ。
「いえ。どうも、お仕事中にすみません」
 桐子の父親は何度も頭をさげた。岸部は桔平に視線をおくってから、沖田孝史についてその場を辞した。岸部にとって、小野田桔平と沖田孝史をひきあわせることは、宣戦布告であった。
 桔平に対する。
 桐子に対する。
 すべてを暴いてやるのだ。
 岸部はまた必ず連絡するといって、沖田孝史と別れた。
 確かめなければならない。
 一刻も早く。
 さっき桔平の机の上を見た。書類が山積していた。仕事を途中で放りだす人間ではない。いつだってそうだった。桔平は自分ひとりでも目的を達成する。今度だって、仕事の整理をつけて逃げるかも知れないとおもうと、気が焦った。
 桔平のことはよく知っている。
 岸部は終業時間にやりかけの仕事を放りだして、桔平のいる北フロアにむかった。そうして部屋からでてきた女性社員をつかまえて、小野田課長はどのぐらい休んでいたんだと聞いた。女性社員は岸部がまくしたてた話をびっくりして聞いていて、ああ、あの山積みの書類ですねといって笑った。
「なんでも、いっぱい休んだからいっぱい働くんだっていってましたけど」
「どのぐらい休んだ」
 女性社員はしばらく考えて答えた。桐子の休暇届と日時が被っている。偶然だとはおもえない。
 岸部は礼をいって会社をとびだした。自分のアパートまで真っ直ぐ帰り、受話器を手にして聞いていた旅館の名前を電話帳で探した。
 電話口の仲居は桔平と千鶴子をおぼえていたようで、一悶着あったことや、桔平がイベントに参加していたことを気軽に話してくれた。聞きたかったことは聞いたから、仲居の世間話が終わりそうにないので、ありがとうといって電話を切った。

 アパート二階の六畳一間で、畳にちゃぶ台とテレビをおくと万年床しか残らない。岸部は下着姿になって寝ころんだ。
 岸部は千鶴子が家をでる前に電話をかけて、旅行の件を知った。
もしかしたら、あのまま家にいて、旅行にはでなかったのかも知れない。桔平さんは、千鶴子さんになんとかいって、くるのを拒んだのかもしれない。
桐子と一緒にいたからだ。
 岸部はそうおもったのだけれど、予想が外れた。宿帳に千鶴子の名前があった。桔平と千鶴子は確かに宿泊していた。
 桐子の名前はなかったのだ。
 桐子が桔平の妻の名を名のった偽名だったということも考えた。仮にそうだとしても、桔平とヒザをつきあわせて話すには材料不足であるし、決定的な証拠に欠けていた。ただ疑わしいというだけでは、自白を引きだせないだろう。
 行きどまりだった。
 これ以上、どこをどう調べればいいのか検討がつかなかった。桐子の写真をもって旅館にいくわけにもいくまい。仲居の口振りでは、奥さんは和服を着ていたというし、どうも相手が桐子ともおもえない。
 ああ、そうだ。
 桐子との旅行ならば、わざわざ妻に話す必要もないのだ。出張だとか、つきあいだとか、他にも最もらしい理由ならいくらでもある。
 気づくのが遅くて素直に驚いた。
 おれはやっぱり馬鹿だ。そうおもってすぐ、旅館が気になった。
 でもな、一応、いってみようかな。
 岐阜か。
 すぐばれる嘘なんてつかないか。
 岸部は桔平を端緒に大学のサークル『反撥』で創った作品をおもいだして8ミリを用意した。なつかしい。壁に貼ったままの白紙をスクリーン代わりにした。投影した画面は少々歪んでいた。
 黒一色の画面に浮かびあがった二階のベランダで、主人公は路地にすわりこんでいる人影を凝視していた。
 オープニングは桔平の意見を通したのだった。おれの意見は半分も採用されなかったけれど、作品が悪くなったかというとそうでもなく、これはこれで、非常に効果をあげているからおもしろい。 むろん、当時の岸部は自分の方がうまくできるという自信があった。
 酒を飲み続けてふてくされていると、玄関で物音がした。なんだろうとおもっていると、ドアがノックされた。岸部は8ミリをとめた。アパートを知っている人間はわずかである。ましてや訪ねてくる物好きはさらに少数だ。
「いるか」
 岸部はビールをおいて固まった。1Kの間取りでは誰の声か筒抜けだった。なおもドアを凝視していると、開けてくれないかと声がした。小野田桔平である。下着姿を遠慮する仲でもなかったから、たちあがってドアを開けた。
「すまんな。遅くに」
 岸部が座敷にさがって道をあけた。蒲団を三つ折りに畳んで、ちゃぶ台を部屋の真ん中にすえた。桔平はちゃぶ台のむかいにあぐらをかいた。
 岸部はビールを差しだした。
 桔平は断った。
 会社からそのまま、車できたのだという。
 なにから話していいのかわからない。考えていたことはたくさんあって、確かめたいこともあったはずなのに、なんといっていいのかわからなかった。
 岸部は桔平のむかいにすわって考えこんでしまった。追求して、逆上したりしないだろうか。伊達に陸上で鍛えていたわけではない。年齢だっておれの方が若い。取っ組み合いになっても、勝てる自信はあった。けれども桔平がどう反応するのか、そればかりがむやみに恐ろしかった。
「なつかしいものを見てるな」
 岸部が8ミリを再生した。桔平は映像をみて笑った。岸部はビールを口に運んで、ぼそぼそと話しはじめた。
「おれは後ろむきになっている人物から撮って、二階にパンしたいっていったんですよ。最初に後ろむきでなにかやっている姿をみせれば、凄く恐怖の演出として効果的でしょう」
「結局、僕の意見が通ったんだ」
「桔平さんはフィックスにこだわった」
 そのこだわったカットが画面に流れた。山高帽と外套を着込んだ紳士が、義眼を外すシーンである。
「できるだけカメラを動かしたくなかった。動きは下品だ」
「小津のようにしたかったんですか」
「成瀬のようにしたかった。フィックスにこだわったというよりも、なんというか、無駄を廃したかったんだ。うまくいえないけれど」
「小津こそ無駄を廃しているとおもいますけど。『東京物語』の茶の間のシーンなんて特に」
 桔平の言葉に熱がこもりはじめた。
「小津は駄目だというんじゃないよ。好みじゃないだけさ。僕は当時ブレッソンの『掏摸』を劇場でみたけれど、あれは凄いよ。大画面をじっとみていると、吐き気がした。映像の純度が高いというか」
「おれは『用心棒』を見たとき、ああ、こういうダイナミックな画が撮りたいとおもいましたよ」
「エイゼンシュテインが時々みせるフィックスの長回しやブレッソンの演出なき演出から、こちらに迫ってくるような迫力を感じるときがある。息がつまりそうなほどの凄みがある。計算しているのだろうけど、あれは凄いよ。当たり前だけれど、画が激しく動くからといって必ずしも迫力がでるとは限らないし、画が動かないからといって迫力がないとはいい切れないだろう。だったら後者を選びたいというだけなんだよ」
 岸部はうなづいていた。小野田桔平の声は途中で聞こえなくなっていった。
「なぜですか」
 岸部がつぶやいた。
 自分でもどうやら酒にやられていることがわかった。
 小野田桔平は口を引き結んだ。
 なぜですというと、ぼろぼろと、後から後から言葉がこぼれた。
「なぜです。なぜ、桔平さん。あなたは、桐子さんを、どうしたんですか」
 小野田桔平は、映写機を消しに立って、またむかいにすわった。
「桐子さんの、なにを知っているんですか」
 岸部は眼をあわせられないでいた。黙っていた。桔平は居住まいを正した。
「それを言おうとおもってね。きたんだ」
 岸部は言葉につまった。涙で視界がにじみはじめた。怒りで叫びだしそうだった。
 なにをいっていやがる。
 おれは、証拠をつかもうと、意地になって。
 旅館にだっていこうとしていたのに。
「桐子をどうしたんです」
「きみの想像どおりだ」
「嘘でしょう」
「本当だ」
「証拠はありますか」
 岸部は拳を握りしめながらいった。
 桔平を、こいつを疑っていたのに、なんでおれ。
 予感が当たったのに。
 自白しているのに。
 なぜ証拠なんて問いつめているのだろう。
「証拠か」
 小野田桔平はすぐに見せられるものはないといった。岸部が黙っていると、桐子なら会社にいるという。なんのことだかわからない。
「排気ダクトっていうのか。あの穽で」
 桔平はそこまでいって言葉をとめた。
「桐子が、そこに」岸部の声はふるえていた。
「落としたんだ」
 なんでだと言おうとしたが、口が動かない。
 小野田桔平は岸部を哀れむような眼で見た。
「あそこなら腐臭も屋上から逃げるし、発見の心配だってまずない。万が一、発見されたとしても、証拠が証拠として機能しなくなればどうってことはない」
 桔平の声が遠くなってくるようだった。犯行計画の細部を語っていたが、よく聞こえない。
「旅行は、桐子といくはずだった」
 岸部は突然、桔平の低くつづく声をさえぎって、ひでえよ、といった。
「そりゃあ、あんまりだ。ひどいよ」
 そんなことってないだろう、と岸部はつぶやいた。お前はひどい。ひどいとくりかえしながら、涙がこぼれた。景色も感覚も閉じていって、もうなにも聞こえなくなった。なにもわからなくなって、泣きつづけた。
 岸部はひどく酔っていた。
 どういうわけか、桔平に対する怒りがわかなかった。桔平を追求してやろう考えていたのに、とおもいかけて、あとはもう知らなかった。
 気がついたらむかいにすわっている桔平が立ちあがっていた。すまないといって、頭をさげた。
「やりかけの仕事をまとめたら、自首するつもりだ。だからもう少し待ってくれないか。あと数日。そうしたら、綺麗さっぱり終わらせる」
 桔平はもう一度頭を下げるとでていった。岸部は動けなかった。桔平が階段をおりていく足音が遠ざかった。
 岸部は拳で畳を打った。
 ちくしょうといって、もう一度、畳に拳を打ちおろした。
「なぜ殺したんだ」
 いまさら言葉にしても仕方がなかった。どうしても、そう聞くことができなかった。
 岸部はちゃぶ台につっぷした。階段をあがってくる音がして顔をあげると、階下の住人が苦情をいいにきたのだった。
 正体のぬけた表情でたちあがり、涙をふくと平謝りして帰ってもらった。岸部はそのまま風呂にいき、また酒を浴びて横になった。
 電話が鳴った。眠気と酒で意識が朦朧としていた。電話は鳴りつづけている。
 近所に迷惑だとおもって受話器をとった。相手は無言でいる。もしもしといいかけると、電話口で声がした。
「夜分にすみません。小野田ともうします。岸部さんのお宅でしょうか」
 この声は。
「千鶴子さん、ですか」
 岸部はか細い声でいった。千鶴子はなにかを察したらしく、主人が話しましたかという。
「ええ」
 千鶴子はしばらく黙った。それから、わかっていますといった。 
「あの人は自分の荷物を人に押しつけているんです」
 千鶴子は厳然とそういった。
 意味が分からない。
 夫を攻めるような口振りである。
「主人はいま、家でも仕事をしています」
「おれには関係のないことです」
「ですが、私からもお願いしたいのです」
「なんのことです」
「警察にはいわないでいただけますか」
 どういうわけか、まだそういう気にはなれない。いいませんと答えるのもしゃくにさわる。自分の気持ちも整理がすんでいないから、わからないという言葉が喉元まででかかった。
 岸部は言葉を飲みこんだ。ため息をつくと答えた。
「桔平さんも、もう少し待ってくれといって帰りました」
「わたしは、主人とはちがうのです」
 岸部は腹が立ってきた。
「どうでもいいじゃないですか。ご主人は自首するといっていたんですから」
「そうではないのです」
 千鶴子は急におちついた声をだした。
 様子がおかしかった。
 そうして、はっきりといった。
「子供のために警察沙汰にはしないでください。お願いします。主人はいいのです。ですが、子供だけは守りたいのです。なんとしても」
 もう怒っていいのか泣いていいのかわからない。受話器を握って呆然とした。
「主人の自首はなんとかして押しとどめるつもりです」
 岸部はどうしようもなくて、なにかいいかける千鶴子の声をさえぎり、電話を切った。

 自首しようと決めたらやることは決まっていた。課長という役職であるから仕事は多い。引継できることはわかるように整理する。引継できないことは全部やってしまう。なにもあとには残さないつもりでいた。小野田桔平は自分の今までの人生を、文字通りかたづけようとしていた。仕事を終えて、家族からもはなれ、刑務所に入れば、人生のふりだしにもどることができるのだ。
 帰宅時間を過ぎても道は混んでいた。桔平は空いている車線を選んでハンドルをきり、赤に変わった信号機を認めて停車した。目の前が横断歩道をわたる歩行者でさえぎられると、しばらく放心した。意味もなく、長かった一日の断片が頭によぎった。
 岸部にすべてを話し、肩の荷をおろしてきた。
 一番大きな荷物だった。

 今朝は会社について早々、仕事をもち帰ってやるものと会社の設備がないとできないことにわけて、順序立ててこなしていった。普段なら整理されている机の上に、大量の書類が積みあがっているものだから、同僚がいぶかしんだ。
 快晴で、湿気がないものの風が凪いで、今朝は出勤時から焼かれるようであった。室内は涼しいけれど、同僚はぐったりしていた。その中で一人、必至に働く桔平は異様であった。真面目というよりも悲壮でさえある。一段落ついて、椅子にすわったまま背伸びをすると、欠伸がでた。ふと気づいてふりむくと、同室の社員全員が小野田桔平に注目していた。よく知る女性社員が、課長と呼びかけたきり、絶句した。
「なんだよきみたちは。なんでもないだろうに。休暇ももらったし、ちょっと、やってやろうという気になっているだけだよ」
 昼間でまだ時間があるから、もうちょっとやっておこうとして机にむくと、ドアがノックされた。
 課長と呼ぶ声がしてふりむくと、岸部がたっていた。でていくと桐子の父親を連れていた。紹介されなくともわかった。淡い茶色のジャケットにスラックス姿で、禿頭をさげている。年齢は還暦に近いだろう。
「お仕事中に失礼いたしました。桐子のことを是非とも聞かせていただきたいとおもいまして」
 沖田孝史と名のった桐子の父親は、低くかすれた声だった。顔を上げると染みと皺だらけである。
 殺した相手の父親に頭をさげられていると考えると、胸やけのように気持ちが悪くなった。やけに喉が渇いた。小野田桔平は不安を隠して唾をのみこんだ。
 岸部が近寄ってきた。
「桐子さんの消息を調べているそうです」
 岸部をみて、それから桐子の父親に頭をさげた。
「ですが、わたしはここにいる岸部くんと同じで、昼休みにすこし話をするだけですから、彼女のことはほとんど知らんのですよ」
 沖田孝史は何度も軽くうなづいて、そうですかといった。
「警察には、もう」
「ええ。子供や老人ならばともかく、いい大人ですからね。自分の意志で姿を消したのではという話を最初にされました。わかってはいましたが、薄情なものですね」
 双方が黙ってしまい、後が続かなかった。
 小野田桔平はごまかすように笑みを浮かべた。
「しかし、お役にはたてません」
 桐子の父親がそうですかといった。
「いえ。どうも、お仕事中にすみません」
 岸辺と共に、沖田孝史は何度も頭をさげて帰っていった。
 小野田桔平は岸部が終始なにもいわず、自分を見つめていたことに気づいていた。岸部は気づいているのだろう。
 だから、わざわざ桐子の父親に引きあわせたのだ。
 小野田桔平は仕事にもどった。
 もう気にする必要もない。
 自首するのだから。
 激しいクラクションがして、座席についたまま飛びあがった。歩行者の姿はもうない。信号が青に変わっていた。

 小野田桔平は書類を抱えて帰宅した。まっすぐ書斎にいって、夕飯の輪に参加しないでいた。椅子にすわって書類を整理していると千鶴子がやってきた。薄紫の浴衣であった。桔平はちらと千鶴子をみて、書類に視線をもどした。
「御飯はどうします」
「残しておいてくれ」
 千鶴子はドアを閉めようとして手をとめた。
「なにを、なさっているんです」
「仕事さ」
「家で、ですか」
「僕はいままで隠してきて、ずっと、皆に隠してきて、もう疲れてしまった」
 桔平は自分に決まりをつけるようにいった。
「今日、岸部に全部話したよ」
 ドアの閉まる音がした。いってしまったかとおもって振り向いたら、千鶴子がじっと立っていた。桔平はため息をついた。
「やり残しの仕事をすませてから、自首しようとおもってね」
 桔平は引きだしをあけて、桐子に飲ませようと計画していた薬を机にだした。
「こんな卑怯者が父親では子供が不幸になる」
 とたんに千鶴子は走り寄ってきて薬を奪いとった。
「もしものときさ」
 桔平は笑ったが、千鶴子は蒼白の表情をこわばらせた。
「僕のような人間がぬけぬけと生きながらえていて、俊平が後でそれを知ったらどうおもう。死ぬにしても生きるにしても、潔くした方がいいだろう」
「自首なんてしなくても平気よ。誰にもわからないわ」
「もう話してしまったし、僕の方が片づかないんだよ」
「本当に自首するつもりなんですか」
 千鶴子の表情は引きつっていた。声がふるえている。眼が見たこともないような熱をおびていて、その熱が桔平を責めるようで、いたたまれない気持ちになった。桔平はおのれの決心を噛んでふくめるように口にした。
「考えてみろ。父親は自分の過ちを立派に償ったと、そうわかってくれた方がいいに決まっている」
「なぜなの」
「なぜとはどういうことだ」
「なんで自首なんて」
「人を殺したからさ」
「そうじゃないわ」
「じゃあなんだ」
 千鶴子は黙ってしまった。
「用が済んだらでていってくれ。薬はきみにとられてしまったし。自首するといっても、このぶんじゃあ、あと三日はかかるよ」
 桔平はつみあがった書類を、ぽんぽんと叩いた。
 翌日も会社で残った仕事をかたづけた。同僚の視線など気にしない。頭のなかで延々と昨夜聞いていたジャズが鳴りつづけた。昼食も買ってきてもらったパンですませた。
 仕事は定時で綺麗に片づいていた。帰って音楽でも聴いて、仕事を終わらせよう。
 車に乗り込み、エンジンをかけた。気持ちがはずんでいた。おもいどおりに事が運んでいる。たとえそれが刑罰に向かう道でも、おもいどおりに。なんだか痛快な気がした。
 小野田桔平は、ハンドルを握って、自嘲した。
 なにもかもが終わって、もう後にはもどれなくて、不思議に気持ちが安らぐなんておもしろい。
 もう先はないのに。
 これっぽっちも残っていないのに。

 ヘッドライトの明かりに、玄関に立つ千鶴子の後ろ姿が浮かびあがった。和装で傘をさしていた。ずっと待っていたのだろうか。千鶴子はふりむいて、ゆっくりと頭をさげた。お帰りなさい、と口元が動いた。笑っているのか泣いているのかわからない表情である。
 雨がひどくなっていた。
 車をおりると、千鶴子の傘にはいって玄関まで走った。
 書斎に夕食を運ばせて仕事をはじめた。音楽はジャズのレコードを選んだ。家で仕事をすることは少ない。音楽をかけながらとなると尚更である。音楽は好きだが、出勤前や仕事中のように余裕がない場合は億劫になって、レコードをかけたりはしない。耳障りでさえある。
 いま桔平には余裕があった。後にまっているものが刑務所だとわかっていても、怖くはなかった。
 実感がわかないから恐ろしくないのか。それとも、死刑になるわけじゃないと、わかっているからだろうか。
 ノックして千鶴子がはいってきた。盆にのせられた夜食が湯気をたてている。食事がテーブルにおかれると、みそ汁の香りがして、空腹をおもいだした。千鶴子が桔平に近づいてきて、終わりそうですかと聞いた。桔平が瞥見すると、盆を両手で腰の前に抱え、肩をすぼめて小さくなっていた。
「わからない。まだあるからね」
 アゴをしゃくって残り少ない書類を示した。桔平が仕事を再開しても、千鶴子はしばらく黙って見ていたようだった。しばらくすると、突然音楽がとまった。顔をあげると、千鶴子がレコードの横に立っていた。
「なにをするんだい」
「お願いします」
 小野田桔平は目をふせ、仕事を続けた。
「音楽をかけてくれよ」
「自首のことです」
「またその話か」
 千鶴子はなにもいわない。
「考えてだした結論だよ」
 そうですか、と答えた千鶴子が、いうまいとはおもっていましたがと前置きしてつづけた。
「わたしたちのことは考えていただけましたか」
「あたりまえだ」
「本当ですか」
 桔平は手をとめた。視線をあげて千鶴子を見た。
 泣いていた。
 ふりしぼった声で、小野田桔平は口を開いた。
「すまないが、ぼくは自首をする。それがぼく自身のためでもあるし、俊平や母さんのためでもある。きみのためでもあるんだ。わかるだろう。もう苦しむのはごめんなんだ」
 千鶴子はうつむいた。なにかを迷っているように見えた。それから、わかりましたといって、赤くはれた眼で桔平を見た。
 納得した顔ではない。
「どういう意味だ」
 千鶴子は書斎からでていった。
 小野田桔平は不愉快になった。それでも深夜まで仕事をつづけた。 そろそろ寝ようとして時計を見ると、日付が変わろうとしていた。
 書類をまとめていると、ドアがノックされた。立っていってドアを開くと、無表情の千鶴子が盆にのせたお茶をもって立っていた。
 まだ風呂にはいっていないのだろうか。なぜかシャツとジーンズの洋服に着替えていた。真夏の盛りでも見たことがないほど軽装である。
 お茶は飲みたくないが、ありがとうというと、千鶴子は部屋にはいってきた。桔平はもう一度礼をいってドアを閉めた。桔平が机を回りこんでソファにすわると、千鶴子は立ったままでいる。すわりなさいというと、お茶をおいてむかいに腰をおろした。
「明日は仕事を休むよ」
 千鶴子は返事をしなかった。
「いままで忙しくていけなかったところでもいこうとおもう。きみも、一緒にいこうか」
「はい」
 千鶴子の声に覇気がなかった。いいすぎたかもしれない。千鶴子は機嫌が悪そうだった。しかし自首するという決意はまげられない。小野田桔平は口調をやわらげた。
「どこがいいかな。映画かい。これからが楽しみな監督がいてね。なかなかいいんだよ。この間、どこだったか。予告をみたんだがなア。憶えていないな。海外の映画がよければ『アンドロメダ…』もやっているかもしれないな。ほら、きみもみた『サウンド・オブ・ミュージック』の監督が撮ったやつだよ。まあデートにはそぐわないが、質は保証できる」
 千鶴子はわからないぐらい小さく、うなづいてばかりいた。
 聞いていないようで嫌になってきた。
 千鶴子がこないなら、別の映画にしようとおもった。
 明日の予定を考えて、興奮したのはいつ以来だろうか。
 なんだか、自首なんてやめたくなってきた。
 本当に、自首なんてやめてしまおうか。俊平も夏休みの毎日を楽しみにしているだろう。もう数回は、一緒にでかけてもいいかもしれない。
 小野田桔平は自首の決意を底にしずめて、なかばふざけた調子で考えた。本当に自首しなければ、家族との時間を楽しむのもいいだろう。桐子をすっかりわすれられるかもしれないし、千鶴子とのあいだを修復することだってできるのだ。
 長口舌に喉が渇いてお茶を飲んだ。おかしな味がしたが飲みくだすと、胸がむかむかしてきた。
 胸のあたりをさすっているのを、千鶴子が見ていた。どうした、といったつもりが、口が動かない。おかしいとおもっていると、どんどんおかしくなってきて、腕や足が痺れてきた。吐き気がする。頭がぼうっとしてきた。
 意識が薄れてきているのだった。
 喉が灼けるようだ。
 心臓の鼓動だけが激しく聞こえた。
 桔平は苦しさにたちあがったが、首を押さえてよろめいた。
 視界がぼやけてきた。
 息ができない。
 お茶に、なにか。
 薬だ。
 桔平は千鶴子に組みつこうとして一歩踏みだしたが、その足も、もういけなかった。そのまま床に倒れこんで、焦点のぼやけていく眼で、唇を引きむすんだ千鶴子を見ていた。

 深夜に岸部の部屋の電話が鳴った。寝て起きて、まだ三時間ぐらいで眠かった。息がまだ酒臭く、頭もやられていた。電話は執拗に鳴りつづけた。岸部は蒲団から這いだした。受話器をあげると、相手が早口で何かいった。
「なんだ。だれだ」
 なんだか耳元でもごもごといわれても、よくわからない。おかしな唸り声をだしながら呆けていると、電話口から声が漏れた。
「千鶴子です」
「なんですか」
 桔平が自殺したのです、と千鶴子の声がした。
 ほてった顔から血の気が引くのがわかった。
「死んだって」
「毒を飲んで」
 千鶴子がくぐもった声をあげている。泣いているのだった。とぎれとぎれの言葉が受話器からもれた。小声で喋っているから、泣き声でつぶれて、ほとんど聞きとれない。きてください、という言葉だけが判別できた。
「きてくれといわれても」
 岸部は下着姿で受話器を握っていた。
 受話器から押し殺した泣き声がつづいた。
「おれがいっても、どうしようもないじゃないか」
 お願いします、と千鶴子がいった。岸部のいうことなど聞いていない。しだいに頭がすっきりしてきた。
 岸部は怖くてしかたがなかった。
 さらに語気を強めてつづけた。
「警察を呼べばいい」
「警察を」
 千鶴子は放心したように岸部の言葉を繰り返した。
 岸部の脳裏に電話口で哀願する千鶴子の声がよみがえった。
「お願いします」
「桔平さんが、死んだのですね」
 千鶴子がなにかいったが、岸部は聞いていなかった。
 桔平が死んだ。
 罰だ。
 桐子を殺して、自分も。
 ざまをみろ。
 岸部はそうおもったとたんに、自分が、なんだか重い荷物を背負っているような気がしだした。
 今度は自分自身の死を、おれに科せるつもりか。
「警察を呼んでください。じきに向かいます」
 感情を押さえて受話器をおいた。シャツとジーンズに着替えてタクシーをつかまえるため大通りに走った。

「断る。絶対に」
 千鶴子はタクシーがいったことを執拗に確認した。話しかけようとした岸部をふりきって、玄関脇の植えこみから桔平の死体を引きずってきた。眼にした途端、身体中が粟立った。千鶴子は死体の足をもって、ふるえる声で岸部に車のトランクを開けるよう指示した
「嘘をついて、すみません」
「それがどういう意味だかわかるか。共犯になれということだぞ」
 岸部はしかし、ここに来てしまった時点でもう遅いことを知っていた。千鶴子は哀願するような口調だったが、眼はそういっていなかった。
 タクシーがいったことを確認したんじゃない。おれがどのタクシー会社できたのかを確認したのだ。
 腕時計をみると午前二時に近かった。夏の夜明けは早い。雲がでているけれど、六時前には周囲を視認できるほどに明るくなるだろう。
 桔平の死体を見ないようにと意識しても、どうしても視線は動いた。
 桔平の顔は弛緩していて、別人のようである。普段はわからない顔のあまった肉が、眼の下や口元の皺に集まっていて、顔中がふやけたようになっていた。まだ腐敗するわけはないけれど、臭う気がした。
 桔平を殺してやりたかったのはおれも同じだ。同じだけれど、できなかったのだ。罪を償うことが恐ろしかった。刑罰が恐ろしかった。罪をあばかれることが恐ろしかったのだ。
 桐子を愛していたはずなのに。
 おれが怖くてできなかったことを、千鶴子はやった。
 子供のためにだ。
 岸部は自分のふがいなさに怒りをおぼえた。
 桐子の復讐を、できたのにしなかったのだ。
 いまからでも遅くないだろうか。
 けれども、桐子のために人生を棒にふる覚悟があるのか。失敗すれば後はない。それに、桐子はもう、死んでいるのに。
「岸部さん。お願いします」
 おれは死人に、桐子にとりつかれているのかも知れない。
 岸部は水をかぶったように震えながら、死体をかついでトランクにいれた。

 千鶴子は運転席にのった。岸部は助手席にのって運転を交代しようかといいかけたが、千鶴子が先に口を開いた。
「すみません」
 薄暗さになれて、千鶴子の姿がはっきりしてきた。動作は不思議なぐらいおちついているとわかったが、表情が異様だった。唇をきつく結んで、血走った眼でまばたきをくりかえしている。
 おちついて見えるだけだ。人を殺してすぐ、正常な精神をたもっていられるわけがない。
 岸部が自分の震える両手を見つめて黙っていると、千鶴子が車を発進させた。千鶴子の横顔には覚悟があった。岸部が共犯関係を承諾するまでに手にいれなければならなかった覚悟が、千鶴子にも備わっていた。
 子供はそんなにも大事なのか。
 夫を犠牲にするほどに。
 赤の他人であるおれでさえ、桔平の子供が頭をかすめたのだ。むろん桐子の死と、桔平への憎悪が、心の大半を占めてはいるが、千鶴子が子供を気にかけることは理解できた。
 大きな通りにでて左折した。千鶴子に当てはあるのかと聞くとあるという。
「ここから一時間ぐらいのところに、うまい具合の林があります」
「そんなんじゃ時間が足りない。明日は平日だ。あんただって、朝に帰っていなければマズイだろう」
「この辺には捨てられるような場所はありませんから」
なんだってこんな日に。
「おれに考えがある」
 岸部は死体の投棄場所を考えてあった。
 大通りでも深夜の交通量はまばらである。千鶴子にもどるよう指示すると、方向指示器さえ出しはしたけれど右端の車線に一気に突っこみ、中央分離帯の裂け目をぬけて元来た方向に走りだした。
 会社に着いたときには午前三時をまわっていた。もう猶予はない。死体を穽に捨てるのだ。
 桐子の入った穽に。
 岸部は千鶴子に道々説明していた通り、桔平の死体をトランクから運びだして、ビル裏手の植えこみに隠すよう命じた。自分は車を降りるとビルの通用口にむかった。足がまだ震えていて、歩みが空転しているようだった。
 千鶴子は会社にむかっていることを知ると車を歩道に寄せて停車した。時間がないというと、渋々走りだして、理由を聞いてきた。桐子は会社に捨てられているといった。千鶴子の顔が引きつってくるのがわかった。なんですってと聞きかえすから、そういうことなんだというと、黙って車を走らせた。
「桐子さんを追って蒸発したということにすればいい。あなただって、そうするつもりだったんでしょう」
 千鶴子の表情を頭から追いだした。岸部は引きつった笑いを消しながら、さびついて頑丈そうな鉄の扉に近づいた。いまは死体を捨てることに全力をかたむけねばならない。夜間の入り口は通用口しかない。警備員と対面することを考えると、怖気づいてきた。
 早朝というにもまだ早い、深夜だ。
 扉の上部にある針金のはいった分厚いガラスから、非常灯に照らされる館内をのぞいた。警備室を見ると、ちょうど見まわりから帰ってきた警備員が廊下を近づいてくるところだった。チャイムを鳴らすまでもなく、警備員が岸部に気づいた。警備員は外から現れた人影にのけぞるようにして驚いた。まだ若く、青年といってもいい年齢に見えた。
 岸部がもうしわけないというと、ガラス越しにも聞こえたようで、姿勢を正した。
「ああ驚いた。どなたですか」
 誰だ、と別な声がした。視線を警備室にむけた。椅子にふんぞりかえった高齢の警備員が煙草を吸っていた。
 岸部は苦笑して、どうもすみませんと挨拶した。
「会議で使う書類をもたずに帰っちゃったんですよ」
 青年が大変ですねといって鍵を開けた。岸部は片側の扉に力をこめて押し開き、なかにはいった。高齢の警備員が吸っていた紫煙が充満していた。
「すみませんね。すぐもどりますから」
「家は近いんですか」
「近いんですけどね。車できましたよ」
 岸部は礼をいうと小走りでエレベータにむかった。
 墓穴の入口は何階にあるといっていたかな。
 記憶をたぐり寄せながら五階でおりた。
 ビルの中央に位置する巨大な柱に近寄ると、穽の入口はなかった。周囲をぐるりまわってみても、社内報の書かれた掲示板だけだった。十階だったかとおもってエレベータにもどり、階をかえてもう一度十字路にむかうと、はたして入口があった。
 配電盤のような小さな扉である。
 岸部は少々不安になった。
 桐子の小さな身体ならともかく、桔平は男だし、痩せているとはいいがたい。
 不安なまま踵をかえした。エレベータの手前で左に折れると非常口である。外で待っている千鶴子と共に、ここから桔平の死体をいれればいいのだ。

 ビルの裏手にまわると、植えこみの陰で千鶴子が死体にかぶさり泣いていた。岸部は足をとめた。名を呼ぶと、千鶴子が泣きはらした顔をあげた。
 岸部は近づいていった。
 千鶴子は憮然として芝生にすわりこんだ。
「いまからじゃもう」
 千鶴子が消えいりそうな声でいった。
「まだ間に合いますよ」
「自首しましょう」
 あまりにも無造作であったから岸部にはわけがわからなかった。やっと飲みこんで、ふざけるなと叫んだ。うつむいた千鶴子は、弁当がどうの、洗濯物がどうのとつぶやいている。
 岸部が頬を張った。
 千鶴子はうなって暴れた。
 もう一度平手で殴った。
 千鶴子は桔平の死体に顔をうずめた。
「おれを巻きこんでおいて、ふざけるなよ」
 聞いていようといまいと関係なかった。千鶴子が顔をあげた。悲愴な表情だが眼に生気があった。
 千鶴子を車に残して、岸部は一人、死体を担いで階段をのぼった。昔とった杵柄だとおもっていたけれど、数階あがって、そのあとが駄目だった。
 死体の重さを何倍にも感じた。足が動かなかった。一歩を踏みだすことができない。死体を転がして踊り場に寝転がった。息を整えて時計を見ると、午前五時になるところだった。
 太陽が顔をだしてきた。遠くの空が赤黒く焼けていた。
 桔平も同じように死体を運んだのだろうか。
 岸部は無言でたちあがった。死体をおぶって、一段一段階段をのぼった。
あれほど嫉妬した桔平は死体となり、死体はただの荷物となった。足下がふらつく。壁に手をついて身体を支え、しばらく休むとまたのぼった。岸部は疲労と睡眠不足で朦朧としてきた。
 緊張の糸はすでに切れていた。いつ気づかれるかも知れないとわかっていたが、どうしようもない。身体がおもうように動かなかった。そのうち力をいれているのが腕なのか足なのかわからなくなって、食いしばった歯茎ばかりが意識されだした。立ちどまって手鼻をかもうとすると顔中が冷たい。全身が汗で水をかぶったように濡れていた。
 そうして十階である。非常口を背中で押し開けて、死体をひきずりこんだ。岸部は痙攣する太股を鼓舞したが膝から崩れおち、背中に覆いかぶさってきた桔平の死体を邪険にはねのけた。
 岸部は大の字に倒れこんで激しい呼吸を整えた。唾液を飲みこむと喉に痛みが走った。反射的に横をむくと、小野田桔平が岸部を見ていた。廊下の先に小さく見える窓から、朝日がのぼっていた。雲間に赤光が射している。小野田桔平の表情は後光をうけて黒くぬりつぶされた。
 五時を過ぎた。時間切れだ。陥廊の入口まで、岸部は死体の足首をもって引きずっていった。
 墓穴への扉をひらいた。
 死体を押しこもうとするがはいらない。スラックスを脱がせて、足首をもち、何度も出し入れすると頭が奥にすべっていった。異様に重たくなった手を放すと、桔平の死体は真っ直ぐに、ときおり金属音をひびかせながら落下していって、見えなくなった。
 岸部はよろめきながらトイレにはいって、トイレットペーパーで顔をぬぐった。喉の渇きをがまんできなかった。洗面台の蛇口で水を飲み、蛇口の水をすくいとって鏡のよごれをぬぐった。ひどい顔が鏡に映っていた。酒と疲労と睡眠不足で顔色は悪いのに、眼だけがぎらぎらしている。
 桔平も、桐子を殺した後、こうして鏡とむかいあったのだろうか? 
 そのとき、どうおもったのだろう。
 おれのようにただ疲労だけを感じていたのだろうか。
 トイレをでて、エレベータのボタンを押した。ポケットから適当にもってきたくしゃくしゃの書類をだしてシワを伸ばす。深呼吸した。エレベータにのりこんで一階でおりると、警備室の前で青年が背伸びをしていた。わざと足音をひびかせていくと、青年が気づいてふりむいた。
 筋肉の疲労で、全身が小刻みに震えていた。岸部は必至で笑顔をつくった。
 岸部は青年があけた扉から朝日の射す駐車場にでた。すっかり夜が明けていた。暗い場所を歩きつづけたせいか、まぶしくて目をほそめた。空気は澄んでいて涼しいけれど、今日も雲が少ないから暑くなりそうだった。
 あちこちでスズメが鳴いている。
 どっと、安堵がおそってきた。ヒザから崩れおちそうになるのをこらえた。酒こそぬけているが、ろくに眠っていないのだ。
 車にもどると千鶴子が運転席で待っていた。岸部がのりこむと、千鶴子は汗みずくのシャツを見て視線をそらした。白いシャツに岸辺の肌がすけていたのだった。
 エンジンがかかった。
「どうなりましたか」
「うまくやれたとおもいますよ」
 千鶴子は車を走らせた。一言も口をきかなかった。時間もない。家族が起きだす前に帰りたいのだろう。
 会社から車が離れていった。大通りにでた。みじかいけれど、赤信号に車列ができていた。
 信号が変わり、車はふたたび発進した。助手席でふりかえった岸辺は、オフィスビルが巨大な墓石に見えていた。それも一つではない。無数の巨大な墓石が、車が走るにつれてぐんぐん目の前にあらわれて、遠くそびえたっている。
 岸部は気分が悪くなった。家まで距離があるけれど下ろしてくれと頼んだ。千鶴子はふりむきもせず、車を減速させた。
 岸部はドアをひらいてから、千鶴子の肩にふれた。
「だいじょうぶですよ」
 千鶴子がふりむくのを待った。ほつれた前髪の陰で、千鶴子の目は疲労と不安ににごっていた。
 だいじょうぶ、と岸部はもう一度いった。
「あそこは桔平さんがつくった墓なんだから」

10

 岸部は約束どおり沖田孝史に連絡をとった。
 桔平の死体を捨ててからひと月は経っていた。岸部はその間も何度か会社にきた沖田孝史と会う機会があったけれど、桔平のことはもちろん、桐子のことも、なにもかもがわからずじまいだということを話しあって別れていた。
「おひさしぶりですね」
 沖田孝史はいつもと同じスーツと山高帽であらわれた。夕飯に会社の近くにある洋食屋にはいって、通された奥のテーブルにすわった。店内は薄暗く、年代ものに見えるよう加工したレンガの壁で、テーブルの周囲をぐるりとかこってあった。会社員が出たり入ったりしているけれど、見知らぬ男女ばかりで気にならなかった。
 岸部はべったりと背もたれに身体をあずけた。その姿を見ていた沖田孝史が、どうしましたといった。
 死体を捨てた日から連日深酒をくりかえし、意識を失うように就寝する日がつづいていた。昨日も遅くまで飲んでいたし、なにより、丸一日仕事をした後である。
「最近は、酒と仕事でまいっていまして」
「昨日も、ですか」
「あまり嬉しくないことがわかってしまったもので」
 店員がやってきてメニューと水をおいていった。
「眼の下にくまができてますよ」
「めんぼくない」
「若い若いとおもっていても、なかなか身体はいけないものです。これは経験談ですけどね。人生は自分がおもうよりもずっと、忌々しいほど長いんですよ」
 岸部はやってきた店員にビフテキを注文した。沖田孝史はパスタである。どうにも決めかねていたところを見ると、店を間違った気がした。
「さっそくですが、見せていただけますか」
「そうですね」
 岸部はもってきた社名入りの封筒から手紙をだして、テーブルに広げた。
「小野田桔平が、桐子さんと蒸発したという証拠です」
 沖田孝史は手紙を手にとってしけじけと見た。
 岸部が、小野田桔平の名前で書いた手紙である。
 桔平を殺して、桐子と共に失踪したように見せかけるための唯一の証拠であった。千鶴子は自分で桔平を殺したのだから、夫が犯罪者として刑罰をうけるよりも、女と蒸発する方がマシだと腹を決めたのだろう。沖田孝史に手紙を見せたのは独断であるけれど、問題はないはずだ。千鶴子には後で知らせればいい。
 岸部が沖田孝史の視線が動くのを追っていると、急に目をあげて、これをどこでと聞かれた。
「桔平さんの奥さんが家で見つけて、私に知らせてくれました」
 沖田孝史はまた手紙に視線をもどした。
 食事が運ばれてきた。
 沖田孝史は手紙を桔平にかえした。
 岸部はなにも答えずに食事に箸をつけた。あらかた平らげると、沖田孝史が飲みませんかというものだからつきあうことにした。店員に聞くと洋酒しかないという。しかたなく店をかえることにした。
 会社ばかりのビジネス街をぬけていくと、商店街が軒をつらねる駅前にでた。スーツに混じって、派手な浴衣姿を見かけた。人混みをぬけて近くの居酒屋にはいった。花火大会か夏祭りでもあるらしく、家族づれで混雑している。
 カウンターでつまみを頼んだ。日本酒をちびちびと猪口でかたむけて、それが際限なくつづいた。客がひきはじめた店内で、沖田孝史は、桐子がどこかで生きているならそれでいいといった。
「手紙が本当ならそれでいい」
 すこし酔っているようだ。
 ばらばらと、天井になにかをばらまくような音がした。店員が店からでていって戸をあけると、頭上を眺める人の流れのなかにはいっていった。もう一度聞こえて、それが花火だと気づいた。
「そういうものでしょうか」
 沖田孝史は猪口を干して、異物を飲んだように表情をゆがめた。
「もどってきてくれるかもしれん」
 生きてさえいれば、といって、沖田孝史はしわくちゃの両手で顔を覆った。

 夜半に沖田孝史と別れた。岸部は家でまた飲んでいた。蒲団にあぐらをかき、ちゃぶ台にもたれてコップの酒を胃に流しこんだ。
 桐子をおもいだしていた。今日は朝からずっとだ。酒を飲み、死をおもい、手紙を書いてまた飲んだ。
 桐子を、おれが殺したような気さえしてくる。
 助けてやれたはずだった。
 それもいま一歩のところで。
 桔平に腹がたった。まさか本当にかけおちしたわけでもないのに、いらいらしてしかたがなかった。
 なぜ殺したのだろうか。愛人をうばわれたくないという、ただそれだけの理由で、桔平は桐子を殺すだろうか。どのみち桔平も死んだのだし、桐子もいない。真実はわからないままだ。
 決定的な理由はないのかもしれない。あっても知りようがない。確実なのは、桔平が桐子を奪ったということだ。今頃は彼岸にむかって、二人で舟をこぎだしているだろう。
 あの世で婚約でもするがいいさ。
 岸部の田舎に、故人の追善供養のために描かれるムサカリ絵馬という風習があった。立石寺で膨大な数の絵馬を見たことがある。数人の故人が、雅な衣装をして盆栽をかこんでいる姿だった。しかし表情は、なんだか哀しそうである。
 桔平と桐子が美しく着飾って描かれている姿を想像した。二人のそばにつき従うのは、おれや千鶴子さんだろう。
 死人に嫉妬するとはおもわなかった。
 これから悶々と、桐子と桔平の死を反芻して暮らすことに耐えられるのだろうか。いずれ忘れられるだろうと考えるのは、楽天的にすぎる。おれは二人の墓に毎日出勤するのだ。あのどこまでも左右対称で、血と鉄と反復がつくる迷宮のような墓に。
 岸部は手酌でコップを満たした。
 酒を飲んで、もう味がしない。
 どこかで花火があがっている。
 何度も何度もあがっている。
「こんな形の無理心中ってありかよ」
 今日でなければ明日、同僚に告白しそうな自分に気づいた。桔平の殺害ならば、相手が大学時代の友人だっていい。
 告白することによって、死は再発見される。
 桔平と桐子は二度死ぬのだ。
 そうすればもうきりがない。
 なんどでも死につづける。
 もう全部、面倒くさくなってきた。
 岸部はほとんど正体をなくして、ちゃぶ台に突っ伏した。
 千鶴子は、どう考えているのだろう。
 夫の裏切りと死を。
 彼女には子供がある。
 あの子が大きくなり、分別のつく年齢になって父親のことを聞かれたら、いったい、どう答えるつもりなのだろうか。

(了)

1:https://note.com/zamza994/n/nd9ab48ee69ec
2:https://note.com/zamza994/n/nae0d4a3ff9f8
3:この記事

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