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【ミステリ】小野田桔平、おのれの迷宮に死す(2/全3回)

 せっかくの旅行でなんでこんな騒がしい宿に泊まりあわせたかとおもって、縁台に尻をすえていた。
 まだ夜も早いから、広間では宴会であるという。
 桔平は到着が遅れたから、すぐ夕飯にしてしまった。女将がきて、寝るには早いし、お客さんもどうですかといわれたからお願いすると、七輪にのった朴葉味噌と地酒がでてきた。
 庭園にしげった木々をぬけて、飛騨の風が吹いてくる。曇り空で風はつめたいが、温泉でほてった身体にちょうどよかった。
いざとおもって猪口をなめると、驚くほど旨い。飛山濃水とは本当である。なんだかうれしくなって、宴会の騒ぎも打ち沈んだ気持ちをしりぞけるには役にたつと考えをあらためた。
 野菜をたいらげて、味噌ばかりつついていた。
 人の気配がして、座敷をふりかえると誰もいない。また桐子をおもいだしてきた。風呂の帰りにすれ違った浴衣の女性がちらついた。
 桐子の身体ばかりが懐かしくおもいだされた。
 なにか音がしたように聞こえて、桐子の魂魄でもつれてきているのだろうかと考えた。もう一度ふりかえったが、座敷にはなにも見えない。その夜は桐子と交わっている夢をみた。

 翌日は朝からよく晴れた。
 朝食をすませてバスにのった。三、四十分ほどたってから、窓の外に木漏れ日のなかを歩いている人だかりがみえだした。バスが次第次第に混んできて、窓をあけていても人いきれで蒸してきた。凪いでいるけれど、桔平は窓側にすわっていたからバスが走っているかぎり涼しかった。
 ひらけた盆地にフォークジャンボリーの竹で編んだ看板が見えてきた。バスをおりると演奏がはじまっていた。なにか面倒があってはいけないと危惧していたヒッピー風の男たちは少数だった。
 人は多かった。今年は前年の三倍近い、二万人以上が集まるという。椛ノ湖にはいりきらない人数である。通行手形を買うと直径五センチの銅製のネックレスであった。
 ルンペン帽と共に、はっぴいえんど、六文銭、岡林信康らの演奏を聞いて過ごした。
 一時、桐子のことを忘れられた。しかし疲れてくると、また頭に桐子が浮かんできた。まさか殺人が露見する心配もないだろうが、桐子が蒸発したことに家族や同僚は気づいただろうか。
 これからも桐子のいるあのビルに出勤するのだ。
 何か起こればすぐにわかる。死体の発見に目を光らせるとして、これ以上の場所は望めまい。
 自分の周囲に点々と寝袋や焚き火がふえていった。小野田桔平は場所をあけようと芝生からたちあがって、そのままバスで旅館にひきかえした。

 フォークジャンボリーの会場に、ゲバ棒をもったヘルメット姿の男たちが乱入して、参加者の興奮も眠気も、すべてを台無しにしてしまったと聞いたのは翌朝のことであった。
 切れるような山水で顔を洗い、だされた朝食に箸をつけた。
膳をさげにきた仲居を相手に温泉はどのぐらいあるんですと問うと、ありすぎるといった。
 岐阜は阿寺、跡津川という二つの断層にのっていた。明治の終わりに濃尾地震がおこって、これらに根尾谷断層がくわわった。事情に通じていなくとも、火山帯があることは明白である。そこかしこに沸きだした温泉は下呂だけで五十カ所にもおよぶらしい。
 結局、近くには温泉以外に観光地もないし、あてもなくでかけていく元気もない。川辺を歩くには日射しは暑いし風は寒いしで、どうにもくさくさしてきたから、ちゃぶ台をかたづけると座布団をまるめて横になった。
 昨日の騒ぎがまだ耳に残っていて、ぼそぼそと人の声がきこえたかとおもうと、耳元で叫ばれたような気がしてとび起きたりした。わけもなく重苦しくて、いやな気分になってきた。
 障子のむこうは日射しが強く、座敷の隅は薄闇がこごっているくせに、透けてはいってくる光のせいでそこいらがしらけている。
 そのうちにうとうとしてきた。
 蝉の鳴き声が低くきこえてくる。まどろんでいるとなにか音がした。はっきりと畳をふむ気配がする。
 目をあけると誰もいない。
 天井の木目が気になりだしたので目をとじた。また気配がして目をひらくと、白いものが浮かんでいた。
 それは足の裏だった。
 はね起きると驚いた千鶴子が尻餅をついた。千鶴子の悲鳴がきこえて、起きてから聞いたのか、聞いてから起きたのかわからない。ちょうど天井からさがっているような位置に足の裏がみえたものだから、誰か首吊りでもしているのかと、もう見えない脚を目の前におもいだした。おもいだしたその脚に触れんばかりの位置に立って、桔平をのぞきこんだ千鶴子が怒ってなにかいっている。桔平はぶらさがっている脚の持ち主を見てやろうとおもった。生白い脚から視線をあげていくと、髪をふり乱した桐子の顔があった。充血した眼球と半開きの口元から鮮血があふれていた。
 小野田桔平は頭の上でゆれる桐子にしがみついた。
 桐子は目の前にどさりと落ちてきたとおもったら、庭にたっている。閉まっている障子で見えないのに、それがわかった。
 いつのまにでたのか。
 後を追って縁側の障子をひらくと、蝉の鳴き声がとだえた。昼だとおもったあたりは、もうすっかり暮れている。桐子の姿がたち消えて、どこにいるのか見えない。
 座敷から桐子の声がきこえた。今度はそっちにいったかとおもってふりかえると、部屋の隅に壁の方を向いてすわっていた。
 ばり、ばりり、と歯ぎしりがきこえた。
「桐子」
 桔平が呼ぶと、桐子はふりむいて会釈した。香水の香りがして、桐子に近づいたら、あとはもう知らなかった。
 誰か後ろからひっぱるものがある。ふりはらおうとして腕をふると、うしろの力が強くて、尻をついて畳にひっくりかえった。
「なにをするんですか」
 知らない女の声がした。
 とたんに視界がまっ白になった。
 蛍光灯がついたのだ。
 目の前には千鶴子が伏していて、着物の裾を直していた。背後の声は誰だろう。ふりむくと今朝がた温泉の話をした仲居である。
 桔平が放心していると、もういいんですと千鶴子がいった。仲居が桔平を怪訝そうに見つめながら去っていった。千鶴子もたちあがって、部屋をでていった。
 しばらく待っていると、濡れたハンカチをもって千鶴子がもどってきた。恐れと困惑の、ないまぜになった顔つきでいる。
「びっくりしたわよ。裸足で庭におりたとおもったら、いきなり迫ってくるんだもの」
 千鶴子は桔平にすわるようにうながした。桔平がまんじりともせずにいると、寝ぼけているんでしょう、と腰を落とすように両肩を押された。桔平が崩れるようにヒザをおると、千鶴子もかがんだ。桔平の足の裏を千鶴子がハンカチでぬぐった。千鶴子はなにかいいながら、畳の汚れもふきとって、部屋からでていった。
 千鶴子は、いつからいたのか。
 桐子がいるのにどこまで口にしていたのだろうか。いや、おかしい。桐子ではなくて、千鶴子がいたのだ。
 桐子は死んでいる。
 自分で殺したんじゃないか。
 ひどい夢であった。夢と現実がごっちゃになっていた。
 こわれた玩具よりもひどい動きで、桔平は視線を縁側におよがせた。座敷から夜の庭にむかって、誰かの足跡のように、畳が点々と間隔をあけて光っている。千鶴子がぬぐっていった場所が湿り気をおびて、明かりに反射しているのだった。そこを冷たい風が吹きぬけていった。まだ夢のなかにいるような気がした。
 化けてでるときは、きまって出た場所がしとどになっているときく。濡れた畳は、桐子が去っていった足跡のようであった。

 桔平が風呂からでてくると千鶴子は膳についていた。ちょうど白米を茶碗に盛っているところだった。桔平の分も座布団の前に用意されていた。
「温泉でゆであがってしまったのかとおもいましたよ」
「すまん」
 桔平も膳についた。鮎と茄子の煮びたしだった。
 箸をつけると、千鶴子が庭を見ていった。
「綺麗ですね。風流ですよ。あの石灯籠なんて」
「石灯籠があったかな」
 千鶴子は口元を押さえて笑った。
「あなた、二泊もしていて気づかなかったんですか」
「どうも疲れていたようだね」
「あきれた」
 石灯籠はおぼろげな光を放って、夜の庭に美しい影をそえていた。その影が夜のひだに沁みこんで、そこいら一面が群青の水に沈んだように見えてきた。
 音楽祭はどうだったんですと千鶴子がいった。よかったというと、そりゃあ庭の景色に気がつかないほどお疲れなんですからと笑った。
「きみ、くるのが遅かったね」
「でがけに俊平が駄々をこねて。よっぽどあなたにおことわりの電話をいれようかとおもったぐらいですけれど。せっかくだからと、お母さんもいってくれましたので」
 自分が寝ぼけて、どこまで話したのか気になった。
「なんだか、ひどい夢を見ていたようでね」
 千鶴子は箸をとめた。
「そういえば、あなたが出発してから、家のほうに岸部さんからお電話がありました」
 今度は桔平が動きをとめた。千鶴子は入れ替わりに味噌汁を一口すすって、箸を進めた。
「別にこれといって用件はないから、またかけるとおっしゃってました。あら、せごし、おいしい」
「きみはよく食べるね」
 千鶴子がよく動く口元を開いた手で隠した。
 桔平はなにか勘づかれたかとおもったが、やはり、わかるまい。
 桐子の死体に気づいているのは、腐敗過程で寄りあつまってくる虫ばかりだろう。最初はハエだ。桐子に外傷はないから、彼らは口や鼻の開口部から進入し、腐肉を食って蛋白を摂取する。皮膚に卵を産みつけ、それらが孵ってウジになり、また死体が食われる。
 げんなりしてきたが腹は減っている。めんどうくさいけれど箸を動かした。
「そういえば、京都の母からも電話がありまして、大文字、くるのかって」
「お盆か」
 はじめていったときには五山の送り火を大文字焼きといって、生粋の京都人である千鶴子の母に、饅頭みたい、と笑われたことをおもいだした。そのあとすぐに千鶴子の父にひっぱられて晩酌がはじまり、あとはもうわからなくなるまでつきあった。
 千鶴子は箸をおいて、桔平の酌をとった。
「去年もいきませんでしたから、今年は俊平の顔を見せてやりたいとおもいますけれど」
「いいんじゃないか。僕もいこう」
「東京からじゃあ遠いですよ」
「だからいくんじゃないか」
 千鶴子はうれしそうに口を動かしていた。
「そうだ。わすれていました。俊平が泣くものだから、わたしは明日の昼にでも帰りますから」
「そうか。じゃあ僕も帰るよ」
「もう一日あるじゃありませんか。ゆっくりしていらして」
 僕も俊平の顔がみたくなったというと、千鶴子はなぜか悲しそうにして、それをごまかすようにほほえんだ。
「僕も帰るから。いいかい」
 桔平が探るようにもう一度いうと、千鶴子はわかりましたと返事をした。
 仲居が膳を下げにきて、千鶴子がさきほどの醜態を詫びた。桔平はばつが悪くて、謝罪するだけで目をあわせることができなかった。
 蒲団を敷いて、そのうえで千鶴子にも寝酒をすすめ、一盞をかたむけると、床についた。
 一時間は過ぎただろうか。
 桔平は寝つけなかった。
 今日は馬鹿に静かだ。
 そのうち、桐子の夢を思い出していた。
 このまま放っておけば、とり殺されるんじゃないだろうか。不自然なぐらい頭にちらつく桐子の面影に、喰いつくされていくのじゃないだろうか。
蒲団のなかで背筋が冷たくなった。けれども端々が熱くていけない。かけ蒲団をはいで、息をついた。
 部屋の隅が気になってしかたがない。寝たまま首をひねってみても、闇が凝っているだけでいない。我慢して目をつぶると、身の置き場がない焦燥感におそわれて泣きだしそうになった。
「どうしたんです」
 千鶴子が身体のむきをかえて桔平に触れた。桔平は歪んだ顔を千鶴子にみせまいとして、背をむけた。
「なにか、あるんですか」
 桔平は寝たふりをつづけた。
「あの女性のことですか」
 小野田桔平は驚いて千鶴子をふりかえった。しまったとおもったが遅かった。
 千鶴子は人形のように目を開いたままでいた。
「知っていました。わたし、ずっと前から」
 桔平は言葉がでなかった。
 蒲団から身体を起こして、縁側にでた。月がでていた。石灯籠のうつろな光源よりも、庭を明るく照らしている。
 逃げたつもりはなかった。ただ、なんと言っていいのかわからず、身体が勝手に動いていた。
 縁台にすわっていると千鶴子がきた。桔平はおちついてきたから、すまないといった。
 千鶴子が隣にすわった。
「本当のことをいえば、あなたや相手の女性をやっつけてやろうとおもったこともあったけれど、でももう、いいんです」
「もう別れたんだ」
「そう」
「すまない」
「どうやって知りあったの。桐子さんと」
 やっぱり寝言をきかれていたのかとおもって、観念した。千鶴子を見たら、まっすぐ庭をみている。
「同僚の、岸部の紹介だった」
「岸部さんの」
「彼と食事をしているときに、むこうはむこうで、あつまって昼食をとっていたんだ。岸部はそのなかの女性の一人に眼をかけていたものだから、僕も一緒になって混ざったのが最初だ」
 岸部の焦がれていた相手をうばったとはいえなかった。そこまで話してしまえば千鶴子に軽蔑されるだろうと、小野田桔平は考えた。
 桐子と偶然社内で出会って夕飯に誘った。桐子が承知したものだから、つきあいがはじまったのだ。
 もうわかったわ、と千鶴子が言葉をさえぎった。
「寝ましょう」
 千鶴子が立ちあがった。すぐいく、と千鶴子の背中に声をかけたが、桔平はうわの空だった。背後でぴしゃりと障子戸がしまった。
 桐子は結局、桔平が既婚者であることを知っていたから、半分は遊びのつもりだったのかも知れない。だが、残りの半分は、けっしてうわついた気持ちではなく、真剣なつきあいをしてくれていたものと、桔平はいまでも信じていた。
 桔平の気持ちはというと、遊びなれていないから、余裕をもって交際するようなことはできなかった。だが本気だったのかといわれると、自分でもわからなくなっていた。ただ自分が軽薄であることを認めたくなかっただけかもしれない。
 身体だけが目当てだったのかも知れない。
 そうおもうと楽になってきた。
 この気持ちを千鶴子に話せば、僕はもっと楽になるだろう。
 小野田桔平はつぐないの気持ちよりも開放感を感じた。胸のつかえが消えていくのがわかった。秘密を知られてはいけない人間に、秘密が漏れてしまうことの、恥ずかしさと開放感。桔平の気持ちは仕事を成し遂げたあとのように晴れてきた。
 眠気に誘われ、座敷にもどろうと腰を上げた。声が聞こえたようで足をとめた。金縛りにあったように体がこわばった。千鶴子だろう。鼻をすする音がした。障子戸をひらくと、白くふくれた蒲団がかすかに震えていて、声はそこからもれていた。なにをいっているのか聞きとれない。小野田桔平は別な恐怖がわいてきて、座敷に入れず立ちつくしていた。桔平はため息をついて、顔を両手で覆い隠した。

 わたしは沖田桐子。
 桐子はまっすぐに岸部を見て名乗った。
 彼女と出会った当時のことを、岸部貞夫はなにも記憶していない。前を忘れて後を失い、曖昧にゆがんだ景色の中心で、桐子の姿だけが鮮明に浮かびあがっておもいだされるだけである。
 岸部は沖田桐子を独占しようとした。
 大学時代の岸部貞夫は名の知れた短距離走者であった。練習にうちこんでいたせいで女性とは一向に縁がなく、大会で結果を残して新聞で小さな記事にでもなれば、女性といわず周囲がもてはやすのだが、時間が経つとすぐに退いていって、いまでは男友達を残すだけになった。
 そのなかに小野田桔平がいた。桔平とは陸上部の先輩を介しての友人であった。桔平は当時二十台後半であったから、六、七歳も歳が離れている計算になる。
 岸部は山形訛りが抜けきっていなかったから笑われた。桔平はすでに卒業して働いていた。桔平が陸上部にいたことはなかったけれど、共通の趣味があったものだから話ができた。映画である。桔平と出会ったことで、岸部は映画サークル『反撥』をたちあげた。陸上部とのかけもちである。
 活動の場は放課後の居酒屋が主だった。桔平は頻繁に顔をだして、まだ日本にはいってきていない作品にいたるまで、少ない部員で話しあった。岸部は海外の、ジョン・フランケンハイマーやウィリアム・フリードキンなどを好んでいたが、ときおりエルンスト・ルビッチについて言及して、あまりの隔たりに周囲を驚かせた。
 ようするに、成績はあまりよくなかったものだから、映画の知識ぐらいは幅広いものだと主張したかったに過ぎない。
 桔平はというと、日活アクションにいれこんでいた。小津よりも成瀬。とりわけ鈴木清順や中平康を激賞すると、部員のなかには反対意見もあって話がはずんだ。
 小野田桔平とはそのまま会社の同僚になった。巨大なオフィスビルでも食堂が共通であるから、桔平と食事をとることが多くなっていった。
 そこに、沖田桐子があらわれた。
 桐子は中途採用で入ったのだという。岸部よりも後輩であった桐子は、同僚と食堂にきていた。
 岸部は当時の状況をおもいだそうにも、桐子の姿以外おぼえていなかった。どうやって声をかけて、なにを話したのか記憶にない。
 最初は前職の話だったか。
 桐子は書店員をしていたらしい。一日中本に触っているから手が乾燥するといって、あでやかな両手を顔の横でひらいてみせた。カサカサになっちゃうのよと笑っていた。桔平を紹介したときにゆっくり話ができたが、それ以降は好機がなかった。
 岸部は身体が大きいけれど小心者で、対女性となると親しくした経験も高校以来ないものだから、声をかけるのも桐子が一人のときを狙わねばならず、なかなかむずかしい。手をふったり笑いかけたりする積極的な行動は、岸部には照れ隠しであるし、恥ずかしさの裏がえしであった。
 それでいて決定的な行動はとれないのだから、我ながら世話が焼ける。
桐子には変化がないのに、岸部はもじもじと、気持ちがあっちにいったりこっちにいったり、おちつかない。余計に桐子のことを考える時間がふえて、岸部の気持ちは桐子に傾いていった。
 小野田桔平は応援してくれた。数少ない機会をとらえてはデートの約束をとりつけようとしたが、一向に良い返事をもらうことができなかった。臆病な岸部にあきれたものか、そのうち桔平はなにもいわなくなった。
 桐子の態度が変化したのは七月に入ってからだった。仕事上の大きなプロジェクトが一段落した。その開放感でデートに誘ったところ、桐子からおもわぬ良い返事がかえってきた。
 一瞬、言葉につまった。
 岸部は平素から考えていたデートプランに沿って会う場所と時間を早口でまくしたてた。桐子は驚いて笑っていた。
 何度も妄想していた桐子とのデートは現実のものになった。映画にいき、買い物を楽しんだ。桐子はよく笑ったが、喜んだのもつかの間で、夜が問題であった。桐子は夕方になると帰ってしまった。実家暮らしであることは承知していたけれども、気があるならばどうにでもなることである。
 桐子は立派な女性であるとおもいこんでいた岸部は、すぐに寝食を共にできるとは考えていなかった。だが、つきあいが一月近くも続けばどうかしてくる。社内食堂で何度か会っているわけだから、唐突に声をかけて出会ったような、知らない仲でもないのだ。
 岸部は考えた末に会う時間を遅くしたり、遠方に誘ったりと手をつくした。桐子はそういう予定に限って誘いを断った。
 もうしわけなさそうな表情からは、なにか別の理由を察することができた。小野田桔平の言動から、まさか、と考えてからは、そればかり気になった。
 二人の関係を疑ったのは早い。桔平に桐子とのデートを話した後である。桔平は桐子の話題にそっけなくなった。一度など憤りをあらわにしたこともあった。
 あれは嫉妬じゃないだろうか?
 桐子はデートをしていても時々表情を曇らせている。そして夜がふけてくると、頭をさげて帰っていくのだ。
 最初、二人にかつがれているのかと考えたが違うようだった。
 岸部はいよいよ、じっとしていられなくなった。真相を問いつめよう。毎日が桐子にどう切りだすかという、そればかりで頭が占められていった。
 桐子に連絡をとって、高田馬場の洋食屋で待ち合わせた。桐子の自宅に近い場所を選ぶべきだけれど、もうしわけないからというので、双方が出むくことになった。
 桐子の遠慮や気遣いも、岸部にはひっかかった。誰だって自分に甘えて欲しい欲求がある。エゴであることはわかっていても、画に描いたような恋人同士を演じたいというおもいは女に限らない。
 だから恋愛小説が売れる。恋愛映画が興行収入をのばすのだ。 学生の時分は、そんな映画くだらないと一蹴していた。けれどもよい映画はなにを描いていようとよい。
 結局、演出をする人間にかかっているのだ。
 観葉植物が多く、店内は薄暗かった。ボックス席でわけられていて、姿は見えないけれど話し声だけはきこえてくる。桐子にどういおうかと考えると、とてもじっとしていられない。
「先輩と、なにか、関係があるんでしょうか」
 口にだしてみた。後ろのボックス席の男が植えこみのむこうでふりむいたようだった。後頭部に視線を感じた。
 岸部はため息をついた。
 きかれていようと、かまわなかった。
 夕飯にするには遅い時間だ。左手は嵌め殺しのガラス張りであるから、学生がたむろしているのや、カップルが行き交う姿が見えた。桐子の姿はない。腕時計をみると、いつもなら桐子が帰る時間である。
 なんとしても会うために、先約の友人を断ってまで桐子に連絡したのだ。
色彩のおかしなテレビで自衛隊機と旅客機の衝突事故がたてつづけに流れた。
 桐子はなにをやっているのだろう。
 なにも注文せずにはいられなくなって珈琲を頼んだ。ウエイターとすれ違いに桐子がはいってきて、むかいにすわった。
「すいません。おそくなって」
「突然よびだしたんだからしかたないよ」
 もっと厳しい口調で答えようとしたのにうまくいかない。岸部は言葉につまって、桐子を見た。シャツにスカート姿で、化粧はほとんどしていない。その顔を見たら、これから重苦しい話題をもちかけるというのに、なんだか勢いがついてきた。
 いうなら早いほうがいい。
 結局、食事を終えてから桐子が岸部に切りだした。
「今日は、どうしたの」
 岸部はできるだけ無造作に答えた。
「桐子さんは、桔平さんと、なにかあるの。小野田桔平さんと」
 桐子は驚いたようだった。直接の根拠はないが、と前置きして、いままで納得のいかなかった部分をあげた。
 桐子はうなづいた。
「それは、つきあいがあったという意味でいいのかな」
 桐子がうなづいた。言葉をつづけようとする岸部を、桐子がさえぎった。
「つきあいというのは何度か会社の外で会ったというだけで、特別な関係ではないんです。小野田さんはどうおもっていたかわかりませんが、少なくともわたしに、彼とつきあう気はなかったんです」
 信じがたかった。
 しかし、疑うに足る理由もなかった。いや、あるにはあったが、あまりにも客観性を欠いた、おもいこみといえるぐらいの違和感であった。嫉妬とおもわれる桔平の怒気や、同時期に頻発した桐子の憂鬱な表情である。食堂で会っても、桔平と桐子の会話は言葉少なになっていた。
 偶然だったのか。
「信じられませんか」
 岸部の額にびっしりと汗がふきだした。脇の下が気持ち悪い。 このまま桐子と別れたくなかった。自分の意志をつたえる必要はあったが、心証の悪い言動はさけねばならない。
 考えたあげく、正直いって、信じられませんと答えた。
 桐子は目にみえて落胆した。
「わたしが、うかつでした」
 岸部は言葉につまった。
 どういう意味だろうとおもったが口がひらかない。なんと答えればいいのだろう。視線を足下におとして、数日前に新調したスラックスを見たら、気が重いのに着飾ることを忘れなかった自分が愚かしくおもえた。
「幻滅したでしょうか」
 岸部は顔をあげた。沈黙にたえきれず、珈琲を飲んだ。桐子はじっと岸部を見ていた。
 岸部は正直にいうしかなかった。
「嫌ではありません」
 桐子はうつむいた。口元がほほえんでいた。
「岸部さん。これから、飲みにいきませんか」
 岸部は珈琲カップをもってかたまった。
「これからですか」
「嫌ですか」
 岸部は興奮した気持ちをさとられないよう、いいですけど、と答えて、慎重にカップをおくと席を立った。

 朝から雨がふった。仕事の気勢はそがれたが、昨夜の桐子をおもいだすと口元がゆるんだ。結局、少し飲んだだけでなにもなかったけれど、胸のつかえはとれた。
 昼休みに食堂にいくと小野田桔平はいなかった。話しかけるのに妙な緊張があった。桔平と話さなければ、それはそれでおかしなことになる。いっそ姿が見えなくてほっとした。桐子を探すがこちらもいない。桐子の同僚があつまって昼食をとっているから、挨拶を交わしてそれとなく聞くと、桐子は出社していないという。
 具合でも悪いのだろうか。
 岸部は定食を頼んで窓際にすわった。席が埋まってきて、騒がしくなった。隣や向かいにも人がすわったが、気にならなかった。岸部は箸を動かしながら、新宿の街に視線をおよがせた。
 窓の外は雨がやんではいるものの、けぶっていて薄暗かった。ガラス窓があるのに吹きこんでくるようで、おちつかない。桐子が食堂にはいってきたような気がして、ふりむくけれど別人だった。

 よりどころのない不安は、少しづつ時間をかけて結実していった。
 その日も桐子は欠勤で、岸部はしかたなく桔平との仲を修復しようと考えた。
 実際には仲がこじれているわけではない。顔を見ることに躊躇があるだけだ。嫉妬をむけてしまうかもしれない自分が嫌になった。子供じみているとおもってはみても、桐子と桔平が会社の外で会っただけのことに、胸が騒ぐのだった。
 昼休みには早かったけれど、桔平に会おうとオフィスにむかった。ノックしてドアをひらくと、書類にむかっていた社員がいちどきにふりむいた。あわてて名を名のり、小野田課長の所在を問うと出社していないという。
 嫉妬が頭をもたげた。桔平と桐子がつれだって、どこかにいったのだろうか。誰かが音楽祭ですといったから、思考が停止した。
「なんですって」
 どこにむいたらいいかわからずにそのまま質問した。書類が散乱する自分のフロアとは違い、皆が机にむかって一心に仕事をしていて静かである。その部屋の端で、女性社員がたちあがった。
「小野田課長は連休をとっております。数日は出社しませんよ」
 ああ、そうなんですか、というと、彼女がほほえんだ。
「奥さんと旅行なんですよ」
 礼をいってその場を去った。なんだか裏切られたような気分であった。
 昼休みに桐子に会おうと食堂にいくも、姿が見えない。
 まだ休暇中なのか?
 桔平は細君と旅行にでたらしい。本当だろうか。二人の不義に凝りかたまった頭は、邪推しか生まなかった。桐子と旅行にいってやしないだろうか。下種な考えだが、そうおもうと確かめずにいられない。
 終業のチャイムで帰りはじめた同僚の背を見送った。人目を盗んで昨夜聞いた桐子の自宅に電話をすれば、どうやら土曜日の夜にでていってから帰っていないらしいとわかった。
 岸部はますます疑いが深くなった。
 電話口の桐子の父は、会社に問いあわせたところ休暇願いが出ていたのを知ったが、それ以前から家にも連絡がないのは腑におちないという。部屋には衣類や雑誌のたぐいがそのまま残され、部屋にいるといまにもドアをあけてはいってくるような気さえしてくるそうだ。
 放任主義の父親もやむをえず心あたりをまわってみようとおもったが、親類近所以外は皆目見当がつかず、さしあたってやることをなくして、桐子からの連絡を待っているのだという。
「あなたは、桐子の同僚ですか」
 電話口の淀みのない物言いには威圧感さえあった。唐突に聞かれて岸部はまよったけれど、親しくおつきあいをさせていただいておりますと答えた。
「そうですか。桐子と」
「ご報告が遅くなってしまって」
「もうしばらく様子を見て、それから、会社に伺うかもしれません」
「私もおもいあたる場所にいってみようとおもいます。なにかあれば、すぐにご連絡いたしますから」
「桐子も子供ではないのです。まだ数日のことですから、自分でどこかにいったのかもしれません」
 岸部は、それはお父さんがそうおもいたいだけですと、はっきりいった。不躾だとおもった。いってしまってから後悔したのだから、しかたがない。
それに嫌な予感もしていた。幼い頃、山形の実家で蒲団にはいっていると、静まりかえった山々と大雪原に包囲されて、ときおりたくさんの囁き合う声を聞く。しんしんと、とめどなく降り続く雪が、うずたかく積もってていくであろう前触れである。それは美しいけれど恐ろしい予感だった。
「最初が肝心です。おかしいなら手をうつべきです」
「もちろんだ。だからこうしてきみと話している」
 桐子が小野田桔平と旅行にいっているかもしれないとはいえなかった。いまやそんな気もしなくなっている。考えて、話せば話すほど不安になった。
「なにかわかれば、また電話をいただけますか?」
 岸部は切れた受話器をもったまま途方に暮れた。
 俺だって心当たりがあるわけではない。桔平もいない。それが支えを失ったようで寂しかった。わずかでも憎んでいたはずなのに、取り残されたような気がして、むやみに孤独を感じた。
 まさか本当に、先輩と桐子が一緒じゃあるまいな。
 さっきから堂々巡りをしている。そうおもったらまた気になりだした。持ったままの受話器を耳にあてて、桔平の自宅に電話をかけた。妻の千鶴子がでた。岸部が名のるとなにやら電話口があわただしい。そういうと、いまからでかけるところだといわれた。
「桔平さんはいますか」
「岐阜にいきました。岸部さんには話していなかったんですか」
 はあ、と曖昧な返事をかえした。
「温泉なんです。私もいまでるところで」
「そうですか、ではまた、あらためて」
「伝言はいいのですか」
「いえ、とくに用事はないのです。では」
 岸部は電話を切ってから空しくなった。
 俺は桐子のことをこれっぽっちも信じちゃいない。あの夜にも、桐子に対して信じていないと答えた。こんなことになると知っていたら、もっとやさしい言葉をかけてやればよかった。
 どこかにいっちまうとわかっていたら。
「私用は禁止だぞ」
 誰かがいって、オフィスからでていった。
「わかってますよ」
 岸部は受話器をおいた。
「荒れてますね」
 ふりむくと、背向かいの席から椅子をすべらせて、同僚が顔をだした。
「あの娘にふられましたか」
「そんなんじゃない」
「おれが口説いてもいいですかね」
「好きにしろよ」
 帰りがけに公園や喫茶店や飲み屋をまわることが習慣になった。
 桐子の足取りは途絶えたままだった。岸部は仕事の合間を見て、同僚から桐子がいきそうな心当たりを聞いては、足をむけていた。一度、中途採用で馴染めず苦労していたようだと話してくれた桐子の同僚もいたが、入社して随分経つのだから、それが原因ならばもっと早くに蒸発していただろう。
 毎日酒を買っては、くさくさする気持ちをまぎらわせるようになった。自分でもどうしようもないとわかっていたが、抑えられなかった。
 やっと恋人になれたばかりだというのに。
 田舎から送ってきた梅干しを肴に、六畳一間で酒を飲んでいると、そのうち、なにもいわず姿を消した桐子を恨むようになった。
 それから桐子の足取りをたどることをやめた。元々、失踪当日の痕跡などなにもない。桐子は仕事を終え、家に帰って、それから姿を消した。どの方向に、どうやって、なんのために外出したのかもわからない。

 進展のないまま数日が過ぎた。あるとき、仕事で上司に呼ばれていくと来客だという。
 応接室にはいると初老の男がたっていた。男は帽子を手にもち、茶のスーツを着て禿頭をさげている。顔はしわだらけで、もう定年間近であろうとおもえた。
 男は沖田孝史と名のった。
 電話で話した、沖田桐子の父だった。
 岸部は早口で名乗って、沖田孝史にすわるようにうながした。岸部は向かいに腰かけた。
「仕事中に押しかけてしまってもうしわけない」
 沖田孝史のたたずまいは不自然なほどおちついていた。恐縮している様子もない。肩幅もあるから、余計に堂々として見えた。
「いいんです。それで、どうですか」
 沖田孝史がほほえんだように見えたから、朗報だとおもって岸部はテーブルに身をのりだした。
「わかったんですか」
「いや、いまのところは、お伝えするようなことはなにも。心当たりはもちろん、すべて当たりましたが、一向に手がかりさえないのです」
 沖田孝史の表情はほほえみからみるみる苦痛の表情に変化した。最初からほほえんでなどいなかったのだ。不安に表情がこわばっていただけかもしれない。
 二人ともなにもいわなくなった。
 岸部は背もたれに身体をあずけて、天井をあおいだまま、独り言のように話した。
「私が会社以外で、最後に会ったのは、遅い夕飯に誘って」
 沖田孝史は知っていますと答えた。
「高田馬場でしたね」
 岸部は上半身を起こして、すわりなおした。
「そうです。ご存じでしたか」
「桐子からききましたよ」
「どうも、すみません」
「いいんです。わたしもそれほど堅物じゃない。古くもないと自分ではおもっていますが、どうも、桐子にはそうおもわれていない」
 二人は同時に破顔した。
 岸部はつづけた。
「その日は、夜の十一時ぐらいに別れまして、近くまで送りました」
「あの日、桐子は遅くに帰ってきましたよ」
「実際、姿を消した日はいつなのですか」
 二人の表情はまた険をおびてきた。
 沖田孝史はジャケットの内ポケットから手帳をとりだし、指に唾をつけて繰った。
「八月五日の退勤後から、六日のうちだとおもいます。わたしがみたのは五日の夜です。午後七時ぐらいでしたか。一度帰ってきたとおもったら、すぐにでていったのです」
「そうですか。そのまま週明けまでは休暇の届けが出ていたわけですね」
「そのようですね」
 沖田孝史は岸部を見ている。厳しい目つきで、おちつかない。桐子をつれさった犯人をみるようだ。
「沖田さんは、いまどういうお仕事をなさってるんですか」
 口にしてから不謹慎かとおもいなおしたが、叱責されることもなく、沖田孝史は答えた。
「いまはなにもしておりません。二年前に定年をむかえましてね。以前は消防士をしておりました」
「どうりで」といってしまってから、あわてて口をつぐんだ。
 沖田孝史は岸部の言葉を待っていた。
「なにか、気になることがおありですか」
「いや、貫禄があるなとおもいまして」
「きびしかったですから。どうしても抜けないんでしょうなア」
 それからは沈黙が場を埋めた。
 岸部はうつむいてしまった。
 桐子の情報をもっていないから、岸部から話すことはない。なにかないかと苦心したが、つなぐ言葉はでてこない。今日はこの辺でといいかけると、沖田孝史が口をひらいた。
「本当は、どういう関係なんです」
 岸部は一瞬ほうけて、ええとか、ああとか、相づちをうってから答えた。
「桐子さんとは会社で知りあいました。親しいですが、とくに深い仲じゃないのです」
 恋人とはいえないかも知れませんとつけくわえた。沖田孝史は何度かうなづいて、帽子を手にとった。
「また、様子を見にきますので」
「あの」
 岸部はたちあがろうとする沖田孝史に声をかけた。
「桐子さんは、休暇申請をだして、なにをするつもりだったんでしょうか」
 沖田孝史はたちあがって帽子をかぶり、手帳をしまった。わたしはなにも聞いていませんと答えた。
「上司にも同僚にもお願いして、いろんな方に聞いてまわってもらいましたが、なにも話していないそうです。休みを楽しみにはしていたようですけれどね」
 岸部もたちあがって、お役に立てずというと、沖田孝史がいいのですと手で制した。
 岸部は聞くべきことをおもいだして下げかけた頭をとめた。
「捜索願は」
「明日まで待って、音沙汰がなければと考えています」
 それでは、と沖田孝史は深々と頭を下げた。

 小野田桔平は日暮れに旅行から帰ると書斎にとじこもった。椅子の背もたれに身体をあずけて、これといってやることはない。
書棚と仕事用の机に、一対のソファとテーブルがおかれた部屋はせまいくらいで丁度良い。けれども今日にかぎって妙にかたづいていて、寂しいような気がした。
 気晴らしに音楽でも聴こうとレコードを見ていくが、興がのらない。結局読書にして、ソファにすわった。喉が渇いたり、部屋のなかが暑かったりして、飲み物をとりにいったり扇風機をつけたりしながら、たったりすわったりをくりかえし、おちついたとおもったら小説が頭にはいってこない。とうとう本を投げだして、椅子にもたれた。
 じっとしていると涼しくなってきた。薄い膜に包まれているような気がして、頭がぼうっとする。騒いでいる俊平の声や、それをいさめる千鶴子の声を遠く聞いて、うとうとしはじめた。
 ドアのひらく音がした。
「とうちゃん御飯だって」
 小野田桔平はまどろみからひきもどされた。椅子にすわったまま唸り声のようなあくびをして背すじをのばした。
 息子の俊平ははいってはいけないといわれている書斎が目新しいらしい。水ぶくれのような顔をほころばせている。しばらくは様子をうかがうようにノブにもたれていたが、桔平がなにもいわないから書斎にはいってきた。つったって壁にならんでいる書棚を見上げている。桔平がたちあがるのをおっくうがっていると、俊平はソファに寝転がって跳ねはじめた。
 このまま騒がれてこまる。桔平はいくぞと声をかけて、たちあがってドアをひらいた。俊平が後から走ってきて、口のなかでもごもごいいながら座敷に走り去った。身体がだるくて、何をいったか気にする余裕がなかった。
 食事の用意は千鶴子と母によってととのえられていた。千鶴子が俊平を気にかけながら白米とみそ汁を茶碗に盛って、それぞれの前にならべた。箸をつけて食卓が片付いてくると、俊平が汚れた口元を母にぬぐわれながら口を聞いた。
「もう家で遊ぶの飽きたから、どこかいこうよ」
 夏休みはたっぷりある。宿題もせず、日記も書かず、遊びには飽いているらしい。
「ばあちゃんとどっかいこうか」
 母が食卓に身をのりだして俊平の視界をふさいだ。
「動物園かなあ」
「動物園いこうか」
「明日? ねえ明日?」
「明日いこうか」
「かあちゃんもいく。とうちゃんも」
 けだものと顔をつきあわせて一日過ごすのはごめんだが、表情にはださなかった。千鶴子が承諾をあおぐように視線をあわせてきた。
 しかしまあ、家にいても息がつまるのは確かだから、でかけるのもいいかもしれない。良い分別も浮かばないが、動物園よりは散歩でもするほうがマシである。
「動物園より、昆虫採集はどうだ」
 俊平はまんざらでもないようだ。
「たまには二人でいってきたら」
 千鶴子が食べ残したものを盆にのせてたちあがった。
「とうちゃんといくのかい?」
母が不必要な気づかいをして哄笑した。つられて俊平が笑った。
やはり、もう一泊してきたほうがよかった。
 子供は苦手だが嫌いではない。本来ならば自分にも子供があるのだから、もっとずっと、子供とのつきあいに慣れていてもいいのだが、子供とのつきあい方を知らないから子供に慣れることができず、ますます子供が近づきがたくなっていって、腫れ物にさわるようなあしらいはなおらない。
 我が子とはいえ子供には違いない。二人きりは不案内だが、この場合、断ることができそうもないので渋々承諾した。
 俊平はやけによろこんで千鶴子のたつ台所に走っていった。母は俊平の後ろ姿をながめてから、こちらをむいて、がっはっはと笑った。
「いつまでも子供だねえ、あんた」
 いい大人だよと返してたちあがった。自分にしかきこえない声でごちそうさまというと、書斎に帰った。
寂しかった書斎が、なんだか物が多くて、賑々しい気がした。それでもやはり、ちっともおちつかない。
 ソファで酒を飲み、明後日の出社を考えると心配になってきた。
 桐子は実家住まいで、母親を冗談のような震死で亡くしているから、父親が一人のはずである。旅行の話をしていたとしても、前日から急に姿が見えなくなれば、怪しまれるだろう。父親が過剰に反応していれば、警察に届けていることも考えられる。
 警察はどう動くだろうか。
 桐子は特異家出人に該当するだろうか。子供や老人ではないから、自らの意志で失踪したと判断される場合もある。事件に結びつくような交友関係も知るかぎりない。警察は住民票を確認するだろう。次にもっていればクレジットカード。それから借金の明細。手帳。メモ。手紙。領収書。友人。知人。痴情のもつれ。交友関係の聞き込み。
 桔平との関係が誰にも露見していない以上、沖田桐子はごく平凡な会社員である。事件性はないと判断するだろう。やりかけたものすべてを残して唐突に失踪することは異常であるに違いないが、そこに事件の影がみえなければ警察は動かないものだ。
 灰色の失踪は存在しない。
 事件になるかならないかのいずれかだ。
 年間数万人が失踪する大蒸発時代である。そのうちの一人を、事件性がうすいのに追いかける警官はいない。
 都合のいいように考えていくと、安心してきた。万が一、死体が見つかっても、僕につながる証拠はない。十分に腐敗してしまえば、死んだ日時も厳密に特定することができなくなるだろう。今後、数十年先ならばともかく、いま現在の科学捜査で、布の衣類から指紋が採取されることは想像しがたい。
 なにも心配はないのだ。
 風呂にはいって寝室にいった。敷かれた蒲団で横になるとすぐに眠気が襲ってきた。眠ってすぐ、ごく小さな音ではっとすると、部屋の明かりは消えていた。
 寝ている頭の上の方で、鏡台の明かりが点いている。身を起こすと、浴衣の千鶴子がすわっていた。
「俊平は動物園じゃなくても、あなたとでかけるのが楽しみなんですよ」
 千鶴子が髪をくしけずっている後ろ姿に、桐子をかさねた。桐子は浴衣でなくネグリジェであったし、もっと肉づきがよかった。髪は千鶴子ほどは長くなかった。桐子と妻は似ても似つかないのに、桐子は死んだいまも小野田桔平をとらえていて放さない。
「うまくやるよ」
 上の空で返事をすると、後はなにも考えなかった。千鶴子が蒲団にはいる前に寝入った。

 無理矢理起こされてまだ眠い。渋々着替えると俊平はすでに起きていて、茶の間で騒いでいた。休みの日ばかり早く起きる。顔を洗っていると俊平がそろいの麦わら帽子をもってきた。最後の休日に山登りはさけたい。先だって大量の昆虫をみつけたものだから味をしめたのだろうか。高尾山にいこうという俊平をなだめて、逆のホームにたった。
 蝉が絶え間なく鳴き、風もなく、日射しを浴びると痛いぐらいである。
車内の俊平はリュックサックからとりだした宿題をしていた。千鶴子がもたせたのだろう。隣からのぞくと原稿用紙になにか書いている。なんだい、というと夢だという。
 きたない字だが楽器を演奏すると読めた。
 自分が小さいころはなにかのヒーローだった気がする。我が子ながら、なかなか現実的な夢である。いまから練習すれば名人になれるだろう。俊平が原稿用紙の隅に絵を描いた。縦笛を吹く姿である。それもそうだ。俊平に楽器らしい楽器を見せていない。
 にやついていると俊平が原稿用紙を見えないように抱えこんだ。すでに全部見た後だった。俊平が口のなかでもごもごいっている。
 電車をのりつぎ、駅を降りてしばらく歩くと、途中で子供たちの声がきこえた。駆けだした俊平を追って藪をぬけると、高麗川である。
 流れは穏やかで、子供たちが走りまわっていた。腰ぐらいはつかれる場所もあるらしく、騒いでいる大人もみえる。あたり一帯が遊び場になっていた。
 周囲はちょっとした林になっている。カブトムシやクワガタもいるだろうに、靴を脱いで虫カゴをおき、俊平は川にはいっていった。背が小さいものだから、麦藁帽子が動いているようだった。
 日射しは強い。林をぬけて川面を吹く涼風は気持ちがいいけれど、帽子は外せない。しばらく川原にすわりこんで、俊平が見知らぬ子供と遊んでいるのをみていた。俊平が一番小さいものだから、すぐに仲間にはいれたようだ。
 やたらと暑くて日陰にひっこんだ。腕時計をみるともう昼である。
 俊平を呼んだ。いかにも不服そうだが靴を履かせる。桔平にしてみれば昆虫採集にきたのであるから、俊平の移り気に辟易した。しかし子供とはこんなものだ。
 近くの定食屋にはいった。バラックづくりの掘っ建て小屋で、場所が浜辺であれば海の家で通るだろう。
 テーブルにつくとすぐ、俊平が学校のことを話しだした。興味がなかった。なにを聞いていいのかわからなかった。定食屋の女将さんが俊平に話しかけたものだから話がはずみ、桔平が話さなくてもまわりの客がもりあがった。身支度からして遊興客が多いらしい。独特の開放感が、見知らぬ人間に話しかけるためらいを払拭しているのだろう。
 俊平の喋るにまかせて時間をつぶし、川岸にもどった。
 三十分で虫カゴに二匹のカブトムシがはいった。どんな虫でも早く見つかればいい。俊平はまだ探すつもりでいる。
 俊平が足下の手頃な石を、ふざけて叫びながら押し転がした。 むっとする腐葉土の香りがした。草むらに逃げていく醜態きわまる虫が見えたとたんに、辺り一面が虫だらけのような気がしてじっとしていられなくなった。いもしない虫をはらいながら、川原にむかって歩きだした。
 桐子はもう腐っているだろうか。ガスでふくれあがってくると臭気も相当だろう。美しかった顔も溶解してくる。喉の内壁に産みつけられた蠅の卵が孵るだろう。口からでていく蠅に、古代の人間は悪魔をかさねあわせた。
 川原にぬけて林をふりかえると、木漏れ日に照らされた俊平が不思議そうに立っていた。もういいだろう。帰ろうといいかけると、俊平があらぬ方向を見ていることがわかった。とたんに背後で悲鳴がした。河原にむくと誰かが溺れている。水面から葦のような手足が突出していて、水しぶきが右手の上流から下流の方に移動していた。桔平はおもわず走りだしていた。大人にとっては浅い川である。ヒザを飲みこむ深さのなかで必死に水をかいた。近くにいた少年たちが川に向かって走り出したものだから、桔平は来るなと叫んだ。そのうちにしぶきは静止した。走り寄って水から女の子を抱えあげた。女の子は水流でえぐられた穴にはまっていたのだった。女の子を引き抜くと水が渦を巻いて流れ込み、穴はたちまち水流のなかに没した。
 川原に女の子を寝かせると、咳をして水を吐いた。だいじょうぶかと声をかけると泣き出した。女の子の苦しみでゆがんだ表情に、日光が乱反射して、ぎらぎらしていた。
 女の子は足をつっていた。水から揚がって駆け寄ってきた男の子に、いつから泳いでいるんだと聞くと朝からだという。昼も食わずにかというと、神妙な表情でうなづいた。
「帰ったほうがいい。川で遊ぶと自分で平気だと感じていても、ずっとつかれているものだよ」
 男の子は先ほど俊平と遊んでくれた子である。さっき走りだしたのもこの子だろう。ものわかりがよくて勇敢だ。男の子はわかりましたと返事をした。友人を集めて、女の子をおぶって帰っていった。
 桔平が小学生の時分は長いこといじめられていたから、あんな子が友達にいたら、学校生活も随分変わっていただろうとおもった。
 川原につったって腹から下は濡れ鼠でいた。日陰にはいって風をうけるとやたらと寒い。自分で自分の肩を抱いていると、俊平が両手を首に巻きつけて背後から覆いかぶさってきた。首と背中だけが体温で温かくなった。濡れてしまうぞというかわりに、帰ろうといった。聞きわけた俊平は虫カゴをふりまわして先を歩きだした。小野田桔平は元気よくふりまわされている虫カゴのカブトムシを心配した。あれでは家につくまえに死ぬかもしれないな。
 家に帰ると俊平が玄関を駆けあがった。電車で寝ていたものだから元気である。桔平は早い風呂にはいると蒲団をだして横になった。体が温まって気持ちが良く、起きていられない。夢うつつで、俊平や千鶴子の声を聞いた気がした。

 旅行帰りで土産も買ってこなかったから、部下にひとしきり文句をいわれて午前中を終えた。桔平は平静をよそおっていたが、どうにも周囲の態度がよそよそしい気がした。桐子のことがあるからだろう。同僚がおかしいのではなく、自分がおかしいのだ。まだなにも聞かないうちから、身体中がむやみにうずくような気がして、おちつかなかった。同僚の女性に僕が休んでいる間になにかあったかいと聞くと、ないと答えた。
 廊下の角をまがると、食堂の入口のベンチにもたれかかった岸部が見えた。岸部が走り寄ってきた。けわしい目つきだが、口元は笑っていた。結局、岸部に聞かないとわからないだろう。岸部は飯食いますかといって、なにも答えないうちからペンで場所を押さえてある席に桔平を案内した。二人ともカレーを頼んで席に戻った。桔平はかたい表情になっていた。岸部もなにかを察しているようで、桐子についてなにも知らないという立場を通すには遅すぎた。
「聞いたんですか」と岸部がいった。
 テーブルにすわっても、食事に箸をつける気配はない。桔平は仕方なく、聞いたと答えた。
「連絡もつかないらしいな。千鶴子がうけた電話もそのことかい」
「ええ。桐子さんの家族が来たんです。会社に」
 岸部はただごとでない表情でいる。
「きみはよく知ってるな」
「彼女の同僚に聞いたんですよ。彼女たちも心配していて、なにかわかったら教えてくれるそうです」
「借金取りに追われて逐電したなんて話も聞いたぞ」
 様子を見るつもりで嘘をふってみた。岸部は表情を変えない。
「それが、そんな気配はなかったそうです。借金の話を聞いた人間もいないし、困っているふうでもなかったようです」
「蒸発か」
「ええ」
「家族はなんていってたんだ」
 水を飲んだり、カレーを食べたりして動揺をごまかした。
いよいよ確信である。
「彼女の父親がきて、知人に聞いていたそうですが、それらしいところをまわってみても足取りがつかめないそうです」
「彼女の部屋は、どうなんだ」
 岸部はじっと、桔平を見た。それから岸部は慎重な様子で答えた。
「もぬけの殻です」
 岸部はやっとカレーを食べはじめた。
「捜索届けは、もちろんだしたんだろうな」
「そうみたいですね。読みかけの本や買ったまま封もあけていないレコードがあったようですからね」
「そうか」
「桔平さんも、よく知ってますね」
 岸部が探るような口調でいった。
気にくわなかった。
「なにがだ」
「彼女が親と同居していることです」
 彼女の家、ではなく、部屋といったことが引っかかったのだろう。
 岸部は詰問したものの、半信半疑でいるようだ。しかし部屋だろうと家だろうと、単純な表現の違いだろうに。
 それでも変にごまかすよりはいいとおもって、嘘をついた。
「同居しているのか」
「知らなかったんですか」
 桔平はうなづいた。
「彼女が姿を消したのは八月の初めで、ちょうど桔平さんが休みに入る頃です。会社で彼女に変わった様子はなかったですか」
 岸部は口調をゆるめない。桔平の苛立ちは焦りに変わってきた。
「食堂で会ったかな。いや、憶えていない。きみこそ、彼女とデートしている仲だろう。なにか聞いてないのか」
 岸部は探るような口調をやめて、深くため息をついた。
「聞いていません。なにも。一度は家に帰ったそうですが、夜にまたでていってそれきりだそうです」
「妻と遊んでいる場合じゃなかったな」
「奥さんも一緒だったんですよね」
「わたしが先にいってフォークジャンボリーに参加したんだ。良かったよ。千鶴子は後から着いてね。二人で温泉に泊まった」
 桔平は旅館の雰囲気やイベントに参加した歌手の話を聞かせた。聞かせれば聞かせるほどいい。本当に岐阜にいっていた証拠になる。愛妻家という印象も植えつけられる。しかしすっかり話してしまってから、自然にふるまおうとおもっていたことをおもいだした。岸部に家族の話をしたことなど、ほとんどないのだった。
 千鶴子と結婚した当初は、桔平にとって岸部は大学の後輩というだけで、さほど仲も良くなかったから余計である。現在に至っても、何度か会う機会があって紹介こそすれ、岸部を家に呼んだことなど数えるほどしかないのだ。
 岸部の反応が気になった。
「それで、お土産なしですか」
 岸部が破顔した。
桔平は安堵した。
「手元にあるのはジャンボリーの通行証ぐらいだ。話でよければたくさんあるがね」
 小野田桔平は安心から饒舌になってしまうのをおさえられなかった。息子とでかけた話までした。
 岸部はカレーを食べ終わった。桐子さんの友人に会ってくるといって席をたった。
 岸部から追求めいた言葉をうけた以上、白々しくとも、いうべきことはいっておいた方が無用な疑いを逃れることができる。
 家族の話をしたことは間違っていまい。これでよかったのだ。
 桔平は食事を終えると煙草を吸うふりをして屋上にあがった。風が強く、積乱雲が身を崩して空一杯に根を張っていた。
 ひと雨きそうだ。
 ライターで煙草に火をつけた。吐きだした煙は風にすぐ吹き散らされた。屋上に張られた金網を支えている都合のよいコンクリートのでっぱりに腰をすえ、しばらく煙草を吸った。
 人はまばらで、知人はいない。気にかけるほどでもなかった。
 人目を盗んで貯水槽の裏にむかった。陰から誰もみていなかったことを確認して、桐子を捨てた墓穴の出口に向かった。換気口に近づくことを想定していないから、貯水棟を支える鉄柱や鉄柵が邪魔をしてまっすぐ歩けない。迂回しつつ換気扇に近づいていくと、熱気に混じって押しかえすような臭気がした。
 桐子が腐っているのである。
 顔を排気口の正面に出すと眼が痛むほどの激臭だった。湿気と熱で腐敗も早いのだろう。陥穽の至るところに設置されている換気扇が、墓穴内の空気を吸いあげていた。腐敗臭はここから外に排出されて、内部に蓄積していく心配はなさそうだった。
 その場を離れて貯水槽の裏までもどった。昼休み終了の音楽が低く鳴っていた。
 なにもかもがうまくいっている。そんな気がした。同時に違和感もあった。それを不安と呼んでいいものか、期待と呼んでいいものか、桔平にはわかりかねた。
 屋上には誰もいなかった。暗雲とコンクリートの直中に、灰皿がぽつねんと取り残されてたっている。桔平は灰皿で煙草をもみ消すと仕事にもどった。

 車庫に車をいれると、傘をもった俊平が運転席のそばまでやってきた。運転席のドアを開くと、俊平がおかえりといって傘を差しだした。二人で一つの傘にはいった。玄関では和装の千鶴子が出迎えた。俊平が靴を脱ぎ散らかして家のなかに走っていった。千鶴子が背中を追って叱責したけれど、俊平は戻ってこない。桔平に振り返った千鶴子の表情は明るかった。
「あの子、ずっと待ってたんですよ」
「そうか」
「あなたが溺れている女の子を助けた武勇伝を、友達に話したんですって」
 小野田桔平はしかめ面になった。
「どうしてそんなこと」
 千鶴子は理由をいわず、ただ微笑んだ。
「なんだか、おつかれのようね」
 つかれているのか、いらついているのか、わからない。子供にかまっている余裕はなかった。食事をして風呂にはいり、歯をみがいて、さっさと横になると目をつぶった。
 微睡みのなか、千鶴子が風呂からもどってきて、鏡台にすわっているのがわかった。
 小野田桔平は目が覚めた。一度眠りにおちたらしい。
 いま何時だと問うと、十二時前ですと返事がきた。
 桔平は寝返りをうった。
「まいっているのね」
 千鶴子は笑った。一度、肩ごしに振り返ったが、また鏡に向かったようだった。
「心配なだけですよ」
 無言でいると、千鶴子が髪をいじる手をとめたのがわかった。
「どうしたの」
 桔平は答えない。
「もう、いいのよ。あのことは」
「ちっともよくないさ」
 桔平は上半身を起こして、千鶴子にむきなおった。千鶴子は鏡の中から見つめかえしていた。
「今日も、会ってらしたの」
「会わない。会おうにもいないんだから会えない」
「どういうこと」
「いないから会えない」
「いないって」
「いないんだ」
「どうして」
「きみは僕を、まったく、俊平もそうだ。やっていられないよ」
「声が大きいわ」
 千鶴子が俊平の部屋の方をむいて、桔平に向きなおったら、困惑が顔中にひろがっている。
「どうしたの。本当は、なにを怒っているの」
「どうしたって、どうもしないさ」
「だって」
 自分でもなぜ怒っているのかわからない。小野田桔平は声量をおとして、桐子はもういないんだよと、もう一度いった。
 千鶴子は桔平から視線を外して、鏡と向かいあった。
「いないのはわかったわ」
「僕なんだ」
「え」
「僕だ」
「どういうこと」
 三面鏡に、千鶴子のすさまじい表情が映っている。まばたきもしない。小野田桔平は怖くなってうつむいた。なにかいわずにいられない。しかしなにもいえなかった。千鶴子は私の前にすわった。
 ゆっくり顔を上げると、平手で頬を打たれた。
 黙っていると、もう一度打たれた。
 やってしまった、というと、わかったわと千鶴子が答えて、顔を押さえて泣きだした。
 嗚咽混じりに、千鶴子は顔をあげた。ふるえているのかと考えたがそうではなかった。千鶴子は怒りで引き歪んだ形相でいた。
「あなた、まだ、桐子さんを」
 千鶴子はうめくようにいった。
 どういうことだといい終わらないうちに、千鶴子が椅子から転がり落ちるように覆いかぶさってきた。驚いたのと恐ろしいので滅茶苦茶に打ってくる千鶴子を押さえることもできない。千鶴子はうずくまる桔平の頭といわず腕といわず叩きつづけて、そのまま蒲団につっぷして泣きくずれた。
 小野田桔平は息をはずませて、千鶴子の押し殺した声を聞いていた。なにかいっているが聞きとれない。
 おい、と声をかけると、千鶴子の震えがとまった。
「あなたは、わたしと寝ようとしたんじゃない。あの日、あの旅館で、わたしを襲ったあなたは」
 千鶴子は肩をふるわせた。顔をあげて、桔平をにらみつけた。
「あなたは死人と寝ようとしたのよ」
 小野田桔平は否定しようとしたが声にならなかった。
 千鶴子は顔をくしゃくしゃにしていた。涙があふれてながれ、鼻水が光っていた。
「異常よ」
 小野田桔平は自覚した。僕は桐子を、いや、いまだって、桐子が恋しいのだ。死んでからも愛おしいのだ。愛おしいからこそ、僕は桐子を殺したのだ。いや、違う。
 殺したからこそ、愛おしいのだ。
 小野田桔平は乱れた蒲団のうえで頭をかかえた。
 千鶴子は黙って、しゃくりあげている。
 しばらくして何かの動く気配がした。部屋の戸口に立つ俊平であった。
 桔平は蒲団に逃げ込んだ。
「けんかしてるの?」俊平が寝ぼけた声でいった。
 俊平は目元をこすって部屋にはいってきた。あわてて身を起こした千鶴子は俊平を抱き寄せた。だいじょうぶ、違うのよ、と千鶴子がいった。電気が消えた。千鶴子が鼻をかんでいる。俊平は千鶴子の蒲団にはいったようだった。
 千鶴子は聡明な女性である。その印象は結婚前から現在まで変わらない。物静かな千鶴子が、こんなにも動揺して取り乱すのを初めて眼にした。さっきの暴れようをおもいだすと動悸がしてくる。手がまだふるえていた。
 桔平は後悔していた。いままでの恐れや不安や桐子への愛情までもが、後悔に凝り固まった。どういうわけか、恥知らずにも、いまだに千鶴子を愛おしくおもっているようだった。愛情といっていいのかわからない。
 高揚した感情のせいで眠れそうになかった。しかし目を閉じた。俊平がきたのだ。話は終わりだと感じて力をぬくと、背中になにか触れた。
 驚いて眼をひらいた。温かい感触は千鶴子の手に違いない。
「わたし以外に、誰かに話したの」
 俊平の寝息が聞こえている。千鶴子の声はふるえていなかった。いつもと同じおちついた声である。桔平も俊平を気にして、小声で話した。
「岸部に、話そうかとおもう」
「駄目よ」
 誰も桔平と桐子の関係に気づいていない。ひとまず安心だと考えたのに、正反対の言葉が喉にせりあがってきた。
「いつかはばれるかもしれない」
「ばれないわ」
「岸辺は、桐子と近かった、だから」
「だめよ」
「警察に訴えないのか」
 千鶴子の手が背中を離れた。
 俊平を抱いているのだ。
「いわないわ。絶対に」
「いってもいいんだ」
 桔平は自分が憔悴していることに気づいていた。疲れきっているのだ。ぼろぼろに。それでいて、浮気を告白したときのように気持ちが軽いのだ。千鶴子と桐子に対する罪の意識と同時に、いいしれぬ開放感を感じているのだった。
 一度下ろした荷物を、もう一度背負う気にはなれなかった。すべてを放棄したい。楽になりたいという感情が、桔平の口を動かしていた。
「岸部は彼女のことを執拗に聞いてくるし、僕と彼女のことを疑っているようだし」
 千鶴子が唾を飲みこむ音が聞こえた。
「そんなこと」
「関係はあるよ。あいつは、桐子に惚れていたんだから」
 千鶴子は後をつづけなかった。
 自分が話さない以上、なにもかも片づかなくなる。片づけるのは自分なのだとおもって、また眼をつぶった。

1:https://note.com/zamza994/n/nd9ab48ee69ec
2:この記事
3:https://note.com/zamza994/n/n824ed6dca37b


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