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【ミステリ】小野田桔平、おのれの迷宮に死す(1/全3回)

不倫相手の女性を殺した小野田桔平が死体を隠すことで隠ぺいを図るものの、周囲の人間や自分自身の罪の意識に追い詰められていく物語です。
時代背景をぼかし(描写からうっすらわかるけど)、寓話的な雰囲気を意識して書いた記憶があります。
中編でさらりと読めますので、クソ男の末路を楽しんでもらえると嬉しいです。

 暗い室内をうつす窓に、オフィスで机にむかう自分の姿がうつりこんでいる。
 机の書類に視線をもどしても、もう集中できなかった。これからすることを考えてしまうと、頭のなかで妄想がふとってきた。やはりやめたほうがよい。ひきかえせるうちに、やめておくべきだ。そうおもうとまた、別な考えがたちがってくる。
 小野田桔平が書類を閉じたときだった。廊下からなにか聞こえてきたようで手をとめた。耳をすますと、ちかづいてくる足音だとわかった。書類をかたづけて手元の明かりを消したら、ドアが開いて、部屋をうつす窓越しに、シャツにスカート姿の桐子が見えた。
 桔平は迷ったまま椅子からたちあがり、桐子に向きなおった。香水の甘い香りがして、彼女がなにかいったがよく聞こえない。曖昧な返事をかえして、笑顔をみたら、もうわからなくなった。ちかづいて桐子の頭を殴りつけた。桐子はあおむけに倒れて、ぬげた靴がちらかった。
 自分で殴っておきながら小野田桔平はあわてた。起き上がろうとする桐子をさらに殴って馬乗りになると、桐子が叫ぼうとしたので首を絞めた。同時にするどい痛みが走った。桐子が桔平の手をかきむしり、うめきをあげて表情をゆがめた。桐子の顔面は茹であがったように赤みがさしてきた。
 小野田桔平の身体の奥から、なにかがせりあがってきた。呼吸が浅く速くなるのをとめられなかった。全身に力がみなぎるのを感じて腰をあげ、桐子の喉を床に押しつけるように体重をかけた。桐子の身体が虫のように上下して、痙攣がはじまった。馬乗りにまたがったヒザに、じわりと、あたたかいものがふれた。桐子の両足のあいだから、小便が床にひろがっていった。

 三月のあたたかい日だった。
 社内食堂に客はまばらで、ガラス張りのむこうには目のくらむような青空が広がっていた。
 同僚に紹介された桐子は、けっして美人とはいえなかった。妻とくらべて歳が離れているようにはみえなかったから、特別若くもない。目元に隆起した小さな黒子と、たっぷりとした唇が目立っていた。体型はどちらかというと肉感的で、老いが透けてみえる身体つきであった。
 小野田桔平は彼女が気にいった。話すほどに柔和な女性だと感じた。しぐさに媚びるような印象はなく、自然な会話で、なごやかな雰囲気をつくれる女性だった。彼女と一緒にいたら、自制できる自信はなかった。
 そしてそれは正しかった。
 過去の男は気にならなかった。彼女ほど魅力的な女性ならば、男の一人や二人いてもしかたがない。どうせ私もその一人なのだろう。
 寝た後に既婚者であることを告げると、桐子はすでに知っていて、それきり話題にださなかった。関係はつづいた。桐子は嫌がる様子もなかったけれど、みずから誘おうともしなくなった。
 桔平は人並みに期待させるような言葉を幾度か発した。女房と別れるとか、二人で暮らそうとかいったたぐいの話だ。彼女は死ぬまでとりあわなかった。

 小野田桔平は桐子のスカートを剥ぎとり、床にひろがっている尿を拭った。ゴミ箱のビニール袋に桐子のスカートと靴を押しこむと、袋の口をむすんで自分のベルトに結わえた。
 桔平は死体の両足を右肩に背負うと廊下にでた。
 そこで、自分の鞄をわすれたことに気づいた。
 死体をかついで部屋にもどった。鞄をとろうとして机にむかうと、グラスにはいった酒に気づいた。毒物を溶かした酒で、わざわざメッキ工場から失敬してきたものだった。
 死体を床に寝かせてグラスと酒瓶の中身を便所に捨てにいった。洗面所に酒をながして手を洗った。視線をあげると、やつれた顔が鏡に映った。短髪で面長の顔に、肉がないものだから頬がこけてみえた。いやに暗い顔に、眼だけぎらぎらしている。
 人を殺してきたみたいだとおもっておかしくなった。深夜の便所で声を殺して笑っているなんて怪談である。そうおもってまたにやついた。
 八月の土曜日で、いかに巨大なオフィスビルであろうとも人影はなかった。都心に建つこのビルは、平日は人でひしめいていて、雑踏や嬌声をコンクリートの壁にしみこませ、夜になって静けさが深まると、あちこちから人の気配がしだすような場所だった。
 グラスと酒瓶を鞄に押しこみ、死体をもう一度かついで廊下にでた。
 脱力した人間は重いし、桔平は体力に自信がなかった。階段では無理だろう。エレベータをつかうにしても、警備員との鉢あわせをさけなければならない。
 小野田桔平はどこまでも伸びるリノリウムの床を見すえて、気力がなえてくるのを押さえられなかった。ひとつこなすとまたひとつ問題が覆いかぶさり、それを解決していくのが面倒で、一歩も動きたくなかった。
 死体と倦怠をかついでまだ数歩というところで、妙な音がした。ふりむいたが何の音かはわからない。
 歩きだすとまた聞こえた。
 桔平の肩からつりさがって、逆だちするような格好の桐子の指が、床にすれていた。
 人の声がした。
 驚いてふりむくと誰もいない。床が延々と伸びているだけだ。
 誰何する男の声が、今度ははっきりときこえた。
 すぐ近くだ。
 声が反響して相手の位置がつかめない。
 誰かいますか、ともう一度声がして、靴音が響いた。
 エレベータ横の階段の踊り場に、ひきのばされた巨大な影がうごめいていた。警備員だ。死体を運ぶ余裕はなかった。エレベータにかけより、下降ボタンを押して桐子の元にもどった。死体をひきずって、階段から死角になる十字路の壁にへばりついた。足音はどんどん近づいてきて静かになった。そっと顔をだすと、警備員が到着した空のエレベータをのぞきこみ、辺りを懐中電灯で照らしていた。桔平が頭をひっこめると、無線で話す声が聞こえてきた。
「いま南棟の端っこのエレベータが動いていた。誰かが呼んだようなんだが」
 なにかやりとりがあって、すぐいく待ってろ、と警備員が言った。声からして篠崎某という顔なじみだ。篠崎はベテランで、無線で会話しながらも周囲に注意をはらっていた。
 足音が近づいてきた。
 篠崎の咳ばらいがした。
 おそろしいのは相手も同じなのだ。
 桔平が死体をふりかえると、暑さでダレたように両手をなげだしていた。あわてて腕を壁際にひきよせた。長髪の隙間から、口元に鮮血をこびりつかせ、すさまじい形相がのぞいた。
 目をつぶって、背中を壁に押しつけた。すぐそばで咳がきこえた。おもわず眼をひらくと、眼前をよこぎって十字路を越え、篠崎が暗い廊下のさきに消えていくところだった。
 桔平は大きく息をついた。
 緊張がほどけて足をなげだした。こわばっていた身体に、血液のめぐるのがわかるようだった。助かったとおもって何気なく桐子に視線をおとした。安堵する姿を軽蔑するかのように、焦点のさだまらぬ瞳が桔平を見つめていた。
 このビルには本社を除き四つの子会社がはいっており、鳥瞰図に示すならば連絡通路を円周として、東西南北にのびる十文字のオフィスビルが中にはいった格好で、ある地点からどこかにいくにも無数の経路があり、どの会社の誰が、いつなんのためにどこへむかっているのか。判断するのはむずかしい。
 不確定であるがゆえに、警備員のわずかな疑いも深くなるだろう。もし仕事場を知っていたら、間違いなく部屋をのぞきにきたに違いない。そうなれば終わりだった。部屋の電気も消えて、姿がみえない社員に、不審な物音と無人のエレベータ。なにかあったと勘ぐられるに違いない。
 小野田桔平はたちあがって死体をかついだ。一度弛緩したために、太腿がいうことをきかなくなっていた。恐ろしくて、もうエレベータは使えなかった。
 階段で桐子を運べるだろうか。
 投棄場所は十階だった。毒物を使って屋上で殺し、すみやかに捨てて、去るという単純な計画だった。殺してからうまくいかないではすまされない。
申請した退社予定時間から三十分は経っていた。
 わざわざ毒物入りの酒を用意したのに、殴って出血させたうえ、くびり殺すなんて馬鹿だ。
 小野田桔平は息をあらげて階段をのぼりはじめた。とにかく死体を投棄することが先だ。エレベータを呼んだのはまずかったと考えてすぐ、いや、あれはどうしようもなかったのだとおもいなおした。呼んでいなかったら警備員はフロア中を巡回していたに違いない。
 小野田桔平は死体をかついで二つ上の階にたどりついた。時間がない。体力も限界だった。床に死体をおろして、ドアノブをかたっぱしからひねり、鍵のあいていた会議室に死体をひきずっていった。一度、警備員に会っておこう。鞄を放って、腰のビニール袋をはずした。腰からはみだしているシャツのすそをなおして、汗でみだれた髪をととのえた。
 エレベータで一階までおりた。扉がひらくと、二人の警備員が挑むように腰に手をあてて立っていた。
 桔平がちかづくと、とたんに篠崎の顔が弛緩した。横にたっているもう一人の若い警備員は、篠崎の表情を確認してから破顔した。
「おつかれさまです」若い警備員がいった。
「いやあすみませんね。さっき物音がしたものだからさ」
 篠崎の言葉をさえぎって、ああそれならと、小野田桔平は口をひらいた。
「もうちょっとで終わりそうなんで、明日から連休だから、今日のうちにすませておきたかったものだから、一度、もうちょっと長引くと報告しにこようとおもったんだけれども、エレベータをよんで、一階のボタンを押しておきながら、タバコをおもいだして急いでもどったもんでね。なんか声がきこえたんだけども、あれ、きみらのどちらかだろうとおもって、おかしな心配させるともうしわけないからさ。ちょっとでてきたんだよ」
 篠崎はうなづきつづけている。小野田桔平よりひとまわりはふけているが、ひろい肩とずんぐりした身体つきで、体力には自信がありそうだ。桑年をこえた男とはおもえない腕をしている。実際、スキーやキャンプの話を何度かきかされた記憶があった。
 かんづかれていないだろうかと考えたが、篠崎はどうみても知的にはみえない。大学生ぐらいの青年がきづかないならば、と若い警備員にふりむくと彼が何かいっていた。
「怪我してますよ。そこ、ほら、手」
 桐子にひっかかれた傷から出血していた。
「ああ、ちょっと引っかけてしまって」
 嫌な汗が耳のうしろをつたった。小野田桔平は頭をかきながら笑顔を保った。ハンカチをだして、首筋をぬぐった。
「とにかくこちらにどうぞ。救急箱ありますから」
 若い警備員が小野田桔平を手まねきした。桔平はあとについて警備室にはいった。篠崎もにやにやしながらついてくる。
 室内は無人の廊下を映す監視カメラの映像がならんでいた。
 篠崎は桔平をすわらせると、若い警備員を義春くんとよんで、自分はガニ股で椅子に腰かけ、救急箱のありかをさした。義春は救急箱から手早く中身をとりだした。ガーゼをピンセットでつまみ、消毒液をふきつけて傷口をふいてもらった。
「手慣れたものだね」
「ボーイスカウトやってたもので基本はひととおり。傷がどんな具合かぐらいはわかりますよ」
 小野田桔平は口をゆがめた。なんでもない青年の口調が、どこかさぐるようにひびいた。
「社内にまだいるんですか」
「もうちょっと仕事したら帰るよ」
 青年に礼を言って切りあげ、エレベータでオフィスのある階に降りた。さらに階段で桐子の待つ会議室にもどった。
 ドアをあけると、せまい室内に濡れた花のような香水のにおいがこもっていた。頭がぼうっとした。桐子は床に両手を万歳するようにのばして、脚をなげだしている。繁華街の電飾が窓ガラスを通して、部屋中にみなぎっていた。
 桔平は腰をおとして桐子の顔をのぞきこんだ。桐子の長い黒髪が、蜘蛛の巣のように顔中をはっている。電飾の光をうけた瞳がぎらぎらと輝いていた。桔平はそっと、桐子の頬に触れた。
 もうおそろしくはなかった。
 小野田桔平ははっきりと理解した。
 ぼくは沖田桐子を独占したかったのだ。

 肌寒い晩だった。助手席に沖田桐子をのせてホンダをとばしていた。夕方からふりつづく雨がフロントガラスをたたき、くだけちった水滴が常夜灯の光をうけて桐子の身体にまだらな影をおとしていた。桔平が前方をみつめていると、隣でふくみ笑いがした。桐子が笑っていた。
 ラジオの声でわれにかえり、正面にむきなおると音楽が流れだした。聞いたこともない男性歌手が、高い声で雨音をかき消していく。
 桐子がまた笑った。
 ひどく深い霧のなかへと突き進んでいる心地がした。ラジオの歌がやみ、それをきっかけにして音楽の話をはじめた。桐子は夜景をみつめて上機嫌だった。小野田桔平はいうべきことを頭のなかで反芻していた。このとき桐子にはまだ、妻子がいることを伝えていなかった。
 東名高速道路を南下し、どこかで宿泊をしようと考えていた。五月の末で、妻は子供たちをつれて近所の主婦と一泊二日で遊びにいっている。
 桐子とは何度か密会をくりかえして、はじめての夜だった。
「どうしたの」
 桔平はむずかしく考えるのをやめた。左の頬に桐子の視線を感じながらハンドルをきっていた。
 沖田桐子は人並みに小説を読む。音楽も映画も好きだった。だが、そのどれもが趣味とはよべなかった。自発的になにかに熱中するような感情に欠けていた。大学では文学を選考していたようだが、くわしい分野もない。流行の作家を知っている程度だ。卒業論文の内容は初期の川端康成作品をえらんだようだが、桔平からみると論文のデキは稚拙であって、卒業できたのが不思議なくらいである。
 小野田桔平は沖田桐子をどちらかというとつまらない人間だとおもっている。桐子が普段していることは、社会人としてあたえられている人並みの享楽と責任をまっとうしようとしているだけであった。
 反対に桔平はあらゆる学問に興味があった。音楽と映画に造詣が深い。大学のサークルで出会った映画仲間とはつきあいがつづいているし、後輩の一人は会社の同僚になった。将来の夢とよべるものも豊富にある。映画監督に脚本家、小説家。書店をひらいてもいい。レコードを売ってもいいだろう。俗な夢であったが実際に成就させている人間はごくわずかだし、人と違うことに価値や優越感をみいだすほど子供でもなかった。桔平にとっては確かに価値のある夢だった。
 そんな趣向であるから、車内でも小野田桔平が話題の主導権をにぎっていた。小野田桔平は時々一緒に店をひらこうとか、大学時代に仲間で映画を撮ったときの苦労話をした。桐子は桔平の話を楽しそうにききながら、わたしも映画を趣味にしようとか、薦められた音楽を聴こうというのだが、そのくせ、いつまでたっても自主的になにかを桔平に問うてくる様子はない。それがもどかしかった。だがそれ以外にも、何かを共有したいというようなエゴを抑えられず、喧嘩ごしになることもある。桐子は意味もなくあやまってしまうし、桔平は桔平でなにが原因で怒りだしたのかさえ曖昧になってしまう。おたがいにあやまって円満に終わるものの、こういった些細な行き違いがあるたびに、小野田桔平は桐子の卑屈さに嫌気がさすのだった。
 厚木をすぎて富士のインターチェンジでおりると、ペンションにむかった。二人でシャワーを浴び、食事をした。セックスのことを考えながら過ごす時間は楽しかった。小野田桔平はいうべきことを忘れず、成熟した雰囲気をやぶって妻子の話をした。
「わたしがびっくりするとおもったの?」
 濡れた砂のように、桔平と桐子はひとつに重なりあって眠った。
 愛情というよりも愛玩に近い感覚だった。コレクションをひとつひとつ棚にならべていくようなぐあいに、独占し、所有するとおもえるからこそ満たされた。やめるのはいつでもできた。もうちょっと、もうすこしと収集していって、そうやって小野田桔平は、もう引きかえせないところまできてしまったと気づいたのだった。
 この小旅行を契機に、小野田桔平と沖田桐子は肉体的に惹かれあった。桔平は仕事中も桐子の肉体をおもいだして身体が熱くなるようであったし、桐子もたびたび逢おうとする彼をこばむことはなかった。
「合図をつくるっていうのはどうかしら」
 散歩するだけの何度目かの逢瀬は、場所と時間の行き違いから生じた失敗だった。もう遅い時間で、公園のなかはベンチにすわる若いカップルか、そのあいだをいきかうスーツ姿の男たちだけだった。けやきの梢をざわめかせながら、夜でも快晴とわかる空に気持ちのよい風が吹いていた。
「合図といっても、昼食のときにおくるのだから、なにか確実な合図がいいね」
 こういうときの桐子は楽しそうである。桔平の前を歩き、ふりかえりながら夜空をあおいでいる。桐子との交際で、馬鹿馬鹿しいほどプラトニックな雰囲気を感じたのは、これ一度きりだった。
「社食のメニューってのはどう」
「毎日おなじものを食べる気なの?」
 桔平は笑って、そうかとだけいった。
「ネクタイかシャツとか」
「どうだかね」
「いいとおもうけど」
「うちのにどう説明する。ネクタイやシャツなんて自分できめたことがない。気にしちゃいないからな」
「多い柄は」
「ストライプ」
「ネクタイがどんな色でもストライプなら会う。別ならあわない。ネクタイぐらいなら自分でとってもばれたりしないでしょ」
「かなりの確率で会うことになるな。なにか仕事の問題で、もっともこれが多い理由だろうが、会うのが無理だった場合は、社食で一度ネクタイをゆるめる。もちろん、ストライプになってしまった場合もふくめる」
「きまりね」
 食堂で視線をかわすだけで、社内で会うことは数えるほどしかなかった。デートもたがいの同僚の行動範囲からはできるかぎりはなれた。電話もしたが、ネクタイのおかげでほとんどその必要はなかった。おちあう場所はローテーションを組んで、つぎはあそこ、そのつぎはここというぐあいに、あらかじめきめておいた。
 それからの桐子は表むきなにも変わらなかった。小野田桔平はいつか一緒になるような趣旨の話をもちだすことがあったが、桐子はうれしいという感情をしめすだけで会話がひろがることはなかった。
 六月も末になって、同僚の岸部と社内食堂にいって桐子を見た。新宿を一望できる高層階で気持ちがよく、利用社員は多かったが、蒼穹の明るさに負けて室内は薄暗かった。窓辺の人影は黒く塗りつぶされて、遠方にいる社員の表情は判別できない。岸部は小野田桔平に桐子を紹介した張本人であるから、悪条件のなかでも桐子の姿をみつけて、桔平の背中をたたいて合図した。
「桐子さんがいましたよ」
「そうかい」
「美人だなあ」
 岸部はスプーンをもったまま固まっている。
「前は桔平さんを紹介するっていう建前もあったからよかったものの、あれだけ女子社員がまわりにいると腰がひけますね」
 そういいながらも岸部は満面の笑みをうかべている。
「あれから話す機会はあったのか」
「桔平さんがいないときにも、社食や、あとは会社の廊下であったこともあるなあ」
「いきたいならいけよ」
「でもなあ」
 岸部がカレーをかきこみはじめた横で、小野田桔平は優越感にひたっていた。ネクタイをいじり、桐子をみた。桐子が笑ったようにみえたから桔平は笑いかえした。桐子の反応はなかった。きちんと確認したのだろうか。
カレーの香りで食欲がわいた。ニュースを見ながら食事をたいらげると、午後の仕事や休日のこと、映画のこと、桐子のことを岸部と話しあった。
 岸部は大学の後輩である。山形の出で、学生のころは田舎臭さが顔中にでていてぱっとしなかったが、成績は悪くなかったし、陸上と映画のサークルを両立する強者だった。桔平とは後者を通じてつきあいがはじまり、いまでは同僚になった。部署も会社も別だが、ビルは同じであるため、時々こうして昼食を共にするのである。
 岸部は短髪をがりがりかいてテーブルに突っ伏した。
「僕も桔平さんみたいに結婚したいですよ」
「声がでかいよ」
 距離があって桐子に聞こえるはずもないが、おもわず探るような視線で桐子を見ていた。
「もうおちつきたいんですよねえ」
「紹介してやろうか。結婚したって、いいことなんてないとはおもうがね」
 岸部は笑いながら上体をおこした。
「うれしいですけど。ちゃんとした人にしてくださいよ。友人の友人とかよくわからない人じゃあ嫌だし。町中で声をかけても、いやかけませんけどね。そういうのにくっついてくる女性じゃあ、ちょっと不安ですからね」
「同僚からさがせばいいじゃないか」
「だったら断然桐子さんですよ」
「そうじゃないよ。真面目にだよ」
「真面目ですよ。不真面目にこんなこといいませんよ」
 岸部が声をはりすぎたのか桐子が顔をあげた。
 岸部がたちあがって会釈した。
「岸部、よせ」
 桐子は岸部に、それから桔平に視線を走らせてから、同僚との話にもどった。
「桔平さん。やっぱり男がいるとおもいますか」
 小野田桔平は椅子の背もたれをもって、岸部にすわるようにうながした。岸部は笑いながら従った。
「どうだろうね」
「僕も真面目なんですから」
 その日の午後、桐子は約束の時間にこなかった。後日、ネクタイを見間違えたと聞いたが、嘘だとわかった。
 小野田桔平の仕事がいそがしくなり、桐子と会う機会が減っていった。大手コンピュータ会社から請けおった仕事は大詰めだった。ビルにはいっている関連会社は例外なくプロジェクトの一端を担っていた。一応完成を見たものの、あとには膨大な残務処理が待っていた。
 七月にはいって、ふたたび岸部と昼食をともにした。ひさしぶりに食堂であった岸部は、仕事に忙殺されているといった。しかし表情は明るかった。愛人とのすれ違いで満たされない桔平とは違っていた。椅子におちつき、とろろ蕎麦に口をつけて、桐子に目をやるとみつめかえしている。ネクタイはストライプだった。桔平はほほえんだが、桐子は表情を崩さなかった。どこかで歯車が狂ってきていた。なにかが起こっているのだった。
 午後の仕事を終えて妻に飲みにいくと連絡をいれた。大きなプロジェクトに携わっていることは伝えてあったから話ははやい。宴会だというと、千鶴子は気をつけてねといったきり無言になった。
 おこなわれるべき大々的な祝賀会はとうに終了していた。桔平はいつわりの残業と飲み会を理由に、桐子との時間をつくっていた。

 ワンピース姿の桐子は喫茶店の隅の、ボックス席にいた。小野田桔平が珈琲を頼んで向かいにすわると同時に、桐子が困っていると告げた。暗い表情である。うわついた気持ちは霧散してしまった。
「つきあってほしいと迫られているのよ」
「断ればいいじゃないか」
 煙草に火をつけると、突き放すようにいった。
 桔平は笑った。
 桐子は笑わなかった。
 嫌な予感がした。
 店員が珈琲をおいて去るのを待って、桐子が口をひらいた。
「相手は岸部さんなの」
 桔平はまた笑った。はきだした紫煙が目にしみた。桐子の言葉を待っていたが何もいわない。桔平は煙草と珈琲を代わる代わる口に運んだ。そのうち、じっとしていられなくなった。桐子の表情をみつめながら、灰皿に煙草の灰をたたきおとした。
「どうするつもりなんだ」
「時間がほしいといっておいたわ」
「考えるってことか」
 桐子はうつむいた。
「考えるってことか」
「つきあっている方がいるといえば、誰だと問い詰められるし、いないといえばことわる理由がないじゃない」
「冗談だろう」
 桔平は煙草をもみ消して、つぎに火をつけた。
 小野田桔平の不満は告白された相手が岸部であるということではなかった。そんなことは想像がついていた。もっとまずいことに、桐子の気持ちが離れていっていることに気づいたのだ。
「まんざらでもないんだろう」
 桐子は動かなかった。
「岸部さんとつきあうかはともかく、そういう普通の恋愛ができるんだとおもっただけで。深い意味はないわ」
「あいつとの関係をこじらせたくない」
「あなたとおつきあいしているともいえないし」
「相手が誰かなんていう必要がない」
 桐子はそうねといって黙った。桔平はいらいらしてきた。桐子が顔をあげて桔平を見るとまたうつむいた。
「ごめんなさい」
「なんであやまるんだ」
「もういいの」
 小野田桔平は煙をはいて苦々しく笑った。
「いいから、で、どうなの」
 桐子はもういいよ、といってまた黙った。
 桔平はため息をついた。
「よくないだろう」
「怒っているからもういいの」
「怒ってないよ」
「だって」
「適当にあしらえばいい」
「彼に悪気はないし」
「女に声をかけるのに、悪気のあるやつがいるのか」
「いるとおもうけど」
 話がずれてきて桔平はいらだった。
 この女は故意にやっているのか。
 桐子がまたあやまった。
 うん、と桔平は返事をした。自分でも意味がわからない。曖昧な返事だった。怒りがおさまらない。桐子も表情をとかなかった。
 その夜は珈琲を飲んで帰った。
 週明けに、小野田桔平は岸部をさそって社内食堂にはいった。どういえばいいのか思案していなかったが、なにか話さずにはいられなかった。岸部は煮物と焼き魚をトレイにのせて小野田桔平の隣にすわった。いつもとかわらない様子だ。岸部は桔平のカレーを横目にみてから、暑いですねといった。
岸部は桔平より五歳は若い。下腹もすっきりしている。短髪で見た目もいい方だろう。元陸上選手だけあって身体も大きい。清潔感もある。だが、体育会系の暑苦しさも感じる。長年、岸部に対して感じるつきあいづらさの一端は、そこにあった。
 だから桐子だって、この暑苦しさを嫌がるはずだと、桔平はおもった。
「桔平さん。おれ、誘ってみたんですよ」
 桔平は言葉につまった。
「桐子さんですよ」
「それでどうだって」
「何度か会いました」
 桔平は桐子がいつもすわっている方向をみた。
 誰もいない。
 岸部は話しつづけた。
「つきあっている男はいるみたいなんですが、おれにもチャンスがあるんじゃないかとおもって、結構がんばったんですよ」
「彼氏がいるなら、彼女は嫌がってるんじゃないか」
「そんなことありませんよ」
「しつこくすると嫌われるぞ」
「紳士的に誘いましたよ」
「すこし、自重したほうがいいかもしれないな」
「彼女、ああいう感じだから、親しく話しかけていないとまた離れていっちゃいそうなんですよ」
「しかし限度があるのじゃないか」
 奇妙な間があった。しばらくは小野田桔平の最後の言葉が漂っていた。
「いや、すまない。余計なことだった」
 桐子たちが食堂にはいってきた。
「僕は消えよう」
 桔平はむやみに腹がたって、食事を残して席をたった。ふりかえると桐子が見ていた。
 岸部はトレイをもって彼女たちのテーブルに移っていった。
 小野田桔平はオフィスにもどった。机にむかって、右の書類を左に動かし、ボールペンを引きだしにしまってみる。なにも手につかない。椅子にすわって十分もしないうちに壁の時計を見た。昼休みはまだ三十分近くも残っている。
 休みをきりあげるのは早すぎたな。そうおもって桐子のことを考えた。まだ彼女と別れたわけではないのだ。
 桐子の肉体は、小野田桔平の欲望に深くくさびを埋めこんでいた。そのくさびは釣り針のように先が反っていて、抜こうとすればするほど、傷口を痛めつけて記憶をよびおこした。
会うか。
 まだ食堂にいるだろう。
 ネクタイを見せればいい。
 素直にあやまればうまくいくとおもったら、じっとしていられなくなった。
 人はまばらだった。桐子は小野田桔平に気づいていないようだ。食堂のカウンターにむかって、冷えたオレンジジュースを買った。ふりむくと桐子と岸部が桔平を見ていた。腹がたって、桔平は無言でオフィスにひきかえした。
 定時に仕事が終わった。部屋をでると桐子がいた。なにやら話しかけてきたが無視して、エレベータの方にむかうと桐子もついてきた。途中の十字路を折れて、非常階段につづくドアをひらいた。ビルのあいだをふきぬける風が社内にはいりこんだ。扉がひとりでにしまると、すぐ後から桐子がでてきた。
 ごめんなさい、と桐子がいった。
 小野田桔平はこれですべてうまくいくとおもった。
「なんだか悪かったね。仕事でつかれていたのかもしれん。本当に悪かった」
 桐子は顔をあげて小野田桔平を見た。桔平にくらべると身長が低いものだから、上目遣いの桐子は弱弱しくみえた。
「悪かった。このとおり」
 桔平は冗談のように頭をさげた。桐子の長い黒髪が風に吹き乱さされて視界をよぎった。
 桔平が顔をあげた。
 桐子はうつむいていた。
ひときわ風が強くなった気がした。
「今日は会えるかい」
「そうですね」
 小野田桔平は安堵したが、いいことなんて何もなかった。
 いつかは桐子と別れる日がくるだろう。いつまでも続くわけはない。僕か桐子が、裁かれる日がくるだろう。いつになるのかはわからない。考えたくもない。けれどもその日は、小野田桔平のおもうよりもずっとはやく、その日の晩にやってきた。
 新宿の喫茶店だった。会ってすぐに別れをきりだされた。桐子はわたしの幸せをおもうなら別れてくれといった。桔平の妻子のため、自分本位になりきれないというのだった。
 桔平には既婚者であるという解決しがたい問題がつきつけられた。
 いまさらなにを、という言葉が口をついてでそうになった。幾度となく桐子に対して妻と別れるといってきた過去がおもいだされて、説得力がないことはあきらかだった。矛盾している。別れるという言葉を撤回するのは格好が悪い。それでもなんとかしようとして似たような言葉をならべた。桐子の表情がみるみる険しくなった。離婚の話はでまかせだったの、とつめ寄られてひるんだ。そうじゃないと正反対の言葉で抗弁して、墓穴を掘った。
 都合のいい台詞が口をついてでた。桐子と交際しはじめてから、このときほど口先だけの言葉をはいたことはなかった。
 そのうちに言葉をなくした。
 桐子とのすべては舞台のうえでの出来事だった。小野田桔平の言い訳はすべて台詞になり果てていた。
 桐子が小さくため息をつくのがわかった。
 自分よりも下にみていた女性から丸めこまれそうで、桐子にかける言葉がきつくなった。小野田桔平の台詞はうまくぼかした叱責に変わっていった。桐子は桔平に攻められて泣きだした。
 おのれの言葉に哀願も整合性ももちあわせなくなった桔平がどういっても、壁をうち破ることは難しかった。桔平はただ怒りを垂れながすだけになっていった。
 小野田桔平は冷静になってなぐさめようとしたが遅かった。桐子は桔平が必至に弁解する声を手で制して、一言あやまると店をでていった。彼女と話したのはそれが最後だった。
 桐子は僕が嫌いになったわけではなかったろう。ただ人生の別な幸せがあったのだ。より魅力的だったのだ。より社会的だったのだ。
 いつか桐子を忘れられる。そうおもっても小野田桔平の欲望はおさまらなかった。発作のように桐子がほしくなった。そしてそれは桐子が死んでからも続いた。

 会議室に横たわった桐子の死体を前にして、桔平はたちすくんでいる。よみがえった過去の情景は、目の前に横たわる蒼白い死体から香っていた。その汚らしいほどの美しさに、小野田桔平はあてられていた。桐子との確執を追体験したような気持ちになっていた。
 夜のオフィスに呼び出したとき、桐子は笑っていたけれど、あれは幻だったのだろう。笑うはずがないのだ。快く会いにくるはずがない。
ビニール袋を腰にさげて、桐子をかついだ。
 会議室からはいだして、階段をのぼった。すぐに限界がきた。ヒザが馬鹿になっていた。
 廊下はひろく感じた。敷地も構成も他階とおなじはずである。疲労や不安や対称性や罪の意識が、小野田桔平の心をかき乱しているようだった。
 十階の中央までたどりつくと目的の穽はあった。全階をつらぬくコンクリートの柱に小さな扉があり、なかは空洞で屋上への排気のために風が吹き上げていた。落ちるさきは地下のどんづまりで、この穽は屋上と十階にだけ入り口をもった、煙突状の空間であり、桐子のための深い深い墓穴なのである。
 小野田桔平は桐子を頭から穽にさしこんだ。うまくおちなかったが、慎重に、目一杯上半身をのりだして、桐子の足首をもったまま、腕を陥穽の闇のなかにのばした。桔平が手を離すと、桐子の姿は一瞬で暗闇に沈んでいった。甲高い金属音が響いてきた。そのまま闇の底をのぞいていると、桐子が叩きつけられる凄まじい音がした。
 桔平は遺品の入ったビニール袋を穽に投げ入れると便所にむかった。洗面所で顔を洗い、ハンカチで顔中をぬぐって気持ちをおちつけた。鏡の前で身支度をととのえて、一階にもどった。
 警備員の篠崎は小野田桔平に気づいた。陽気に驚きの声をあげた。
「ずいぶん遅くなりましたね」
 おつかれさまと声をかけて、愛想笑いをかえした。
 外に歩きだすと背後に篠崎の視線を感じた。足早に車にのりこむと、座席に身体をあずけた。桔平は目をとじて、気分が落ち着くのを待ち、ゆっくりと車を発進させた。

 小野田千鶴子は玄関にたって、車のエンジンを切る桔平を見ていた。
 結髪がほつれているところをみると、いそがしかったようである。まだ六つになろうかという子供の世話で疲れているのは間違いなかった。
 夕食がまだだと知ると、千鶴子は台所にたった。桔平は運転中に気分が悪くなり、電柱の下でしこたま吐いたから食欲がない。千鶴子の心配そうな表情をみて、普段通りの行動につとめなくてはならないとおもった。
 テレビをつけると、故徳川夢声の告別式の映像が映り、つぎに数日前の自衛隊機と旅客機の空中衝突事故が大写しとなった。
 数時間で、日付が変わろうとしていた。
 小野田桔平はネクタイをゆるめた。
 気が滅入っていた。
 千鶴子が盆に白米とみそ汁、さめた焼き魚をもってきた。ちゃぶ台に夕飯をならべると、盆を畳においてすわった。
 桔平はテレビをみながら箸をつけた。
「悲惨な事故ね。ニュースで、乗客は亡くなったって」
「一人残らずか」と桔平がいった。
 千鶴子は顔をしかめて、ええ、と答えた。
「消してくれ」
 千鶴子はテレビを消しに立って、その足で縁側にいくと雨戸をあけた。夜風が吹きこんで風鈴が鳴った。雨に濡れた土の香りがした。
桔平は気持ちのよさに縁側をふりかえった。座敷からの明かりと、真夏の夜のあいだに、千鶴子は凛として立っていた。
 清冽な女性であるというのが第一印象であった。
 桔平と千鶴子の馴れ初めはお見合いであった。たがいに気にいり、半年の交際を経て祝言となった。お見合いの後に交際をするのは異例であると桔平の母が笑ったが、千鶴子は桔平より八つ下であるものの、荷風に“かくのごとき昔風の女が残存せるは意想外なり”といわせるような性格であったし、学生の時分は啄木詩集を手に鴨川土手を逍遥するような女性だったそうだから、相手の男をよく見定めてから決めようとしたのだった。
 小野田桔平もこれに異論はなく、二人は双方家族同士の笑いぐさになりながら円満に祝言をむかえ、その年に俊平という男児にも恵まれた。
 縁側の千鶴子がふりむいた。
「俊平が帰りをまっていましたよ」
「明日の準備はすんでいるか」
 千鶴子の表情が明るくなった。
「本当なの。旅行に連れていってくださるというのは」
「休暇願をだしてきた。俊平も母さんが面倒をみてくれる」
「でも、いまどきの学生みたいにフォーク音楽を聴きにいくのでしょう」
「嫌なら温泉でゆっくりしていなさい。なあに、僕もつかれてしまうからそんなに長い時間じゃない。ちょっと目あての歌手だけでいいんだ」
「あなた今日は、なんだかおかしい」
「まあな」
「暗い顔で帰ってきたとおもったら、急にわたしのことをほめてみたり」
 千鶴子は桔平の前にまわって、顔をのぞきこんだ。
「具合でも悪いの」
「すこしな」
「いやなひと」
「疲れているんだ、きっと」
「旅行はおやめになって、家で休んでいたら」
「いいや。いくよ。いかないとよけいに滅入ってくる」
「でも、あたしやっぱり、俊平が心配なんですけれど」
「母さんがみていてくれるさ」
「甘えん坊だから、泣いたら手におえないんじゃないかとおもって」
「母さんだって僕を育てたんだ。心得ているさ。なんなら後からくるといいよ。どうせ会場は温泉よりもずっと手前だから」
「もう一度よくお母様と相談します」
「お茶をいれてくれないか、きみもつきあえよ」
 千鶴子は返事をして席をはずした。
 小野田桔平はため息をつくと、食べ残しの前でぼうっとした。なにを考えるでもなくすわっていると、頭に桐子との様々な映像があらわれては消えていった。殺したからだろう。僕は桐子がほしかったが、やはり、生きている桐子であって、死んでいる桐子ではないのだ。死体では言葉を交わすこともできず、燃やすか埋めるか捨てるかすれば、触れることもできない。
 身体がふるえてきた。
 桐子を縊り殺した手で妻のつくった飯を食い、俊平の頭をなでるのか。
どうも頭にもやがかかったようでいけない。手に付着したケガレを、米や味噌汁と一緒に腹のなかにいれているような気がして、胸がむかむかしてきた。
 風にあたりながら、ゆっくりと呼吸した。すわっているのがつらくなってきた。
 蒲団を敷いてくれと千鶴子に呼びかけたが、畳に横になると、そのまま寝入ってしまった。

 ぐっしょりと汗をかいて起きた。天井の電球からして、いつもの寝室である。
 寝てから運ばれたのか、自分で歩いたのか、記憶がない。
 寝返りをうつと、隣に千鶴子はいなかった。
 洗面台で顔を洗って、茶の間をのぞくと誰もいない。開け放った縁側から風がはいった。雨に湿っているせいか涼しくて心地よい。朝餉の香りが強くなったが、ちゃぶ台に食事はなかった。
 人の気配がして縁側をみた。からりと晴れた晴天の下を、前掛け姿の母が歩いていた。声をかけようとしたら、母がさきに気づいて声をあげた。
「なにやってるんだよ真っ昼間からそんなところにつったって。びっくりするじゃないか」
 笑ってごまかそうとしたところで、桔平の背後からカゴいっぱいの洗濯物をもった千鶴子がでてきて縁台から庭におりた。今朝は髪をまとめて、腕をまくり、シャツとスカートの洋装だった。
「もうすぐ昼ですよ。ご飯は台所にありますから」
 桔平はみそ汁をあたためて食卓についた。
 テレビをつけると、昨日からつづく航空機衝突事故の続報をながしていた。画面がうつり変わって殺人というテロップに心臓が痛んだが、桐子のわけもなかった。
 とたんに人殺しの実感がわいた。昨夜は調子が悪いと感じていた漠然とした身体の変調が、殺人者の動揺とすり変わった。殺人を犯したのは初めてだが、そうだとわかった。恐怖というよりも武者震いのようだった。
 慎重に行動するんだ。
 ばれるはずはない。
 いや、慎重ではなく自然に行動するんだ。
 自分をなだめすかして、身体にはいった力をぬいていった。
 テレビを消して食卓にすわりなおしても、今度は沈黙がまとわりついて落ち着かない。ふとしたときにおもいだす桐子のことで、身体が硬直する。箸をもつ手がふるえた。押さえようとして左手をそえると、桐子がにぎっている心地がする。
 驚いて箸をとりおとした。
 桔平は自分の両手を凝視した。
 こうやって人は狂っていくんだなとおもうと、なんだかおかしくなってきた。自分がいま自然にふるまっているとわかるなんて、なんて不自然なんだろう。
 母の声がして庭をみると、風にゆれている白いシーツのむこうで、母が千鶴子に話しかけていた。
「昨夜はお風呂には入らず、茶の間で寝入ってしまったんですよ」
「鬱じゃないかね。近頃は多いときくから」
「そのわりには旅行にいくつもりなんですよ」
「俊平はどこにいったの」
「どこでしょう。さっきまでいましたのに」
「まったく。みんなしっかりしとくれよ」
 母はがっはっはと豪快に笑う。ひさしぶりに母の元気な声を聞いた気がする。
 父は大腸がんにおかされていて、気づいたときにはおそかった。名古屋のがんセンターに入院した。母と言葉を交わし、僕に視線をおくって、千鶴子の手をにぎり、二回目の手術をうけるために運ばれていってそれきりになった。
 葬儀も済んで半月がすぎようとするころ、母は千鶴子に会うたび、葬儀のせいで結婚式がのびてしまってもうしわけない、ご両親によろしくねとテープが再生されるように口にしていた。
 たくましかった母はふさぎこんでいった。
 まいっていたのだろう。
 母は友人こそ多いけれど、親戚とはそりがあわない。たった一人で名古屋の田舎に住むといっていたが、数年後に東京によんだ。母はまよっていたが、孫である俊平と暮らすことを考えて決断したらしい。
 間違っていなかったとおもう。
 僕と千鶴子の杞憂はなんだったのか。母は友人もできて東京の空気にすっかりなじんでいるようだ。
 母の影を見送って、シーツにうつる千鶴子の影をみていた。ふくらんだ胸の曲線にそって、腰から下に視線をうつした。個性がはぶかれた女体が桐子の身体とかさなってきた。いけないとおもって食事に集中するも、脳裏にじりじりと桐子の姿がちらついた。
 庭では千鶴子の影のほかに、小さな影があらわれて叫んでいた。
 とうちゃんと呼ばれて驚いた。いつのまに部屋にはいったのか、目の前に野球帽をかぶった俊平がたっていた。母に似ている俊平の表情は、小野田桔平を現実に引きもどした。
「なんだ。どうした」
「かあちゃん。とうちゃん聞いてないよ」
 俊平が千鶴子をふりかえった。シーツのむこうから千鶴子の声がする。
「土手に遊びにいっていいかって」
 なんです大声で、と母の声がきこえた。千鶴子は照れてわびている。どっちがはしたないのか。母の遺伝子の強いわけがわかった気がした。それでこの子の顔は六歳でこんなにも似てしまってと、しばらく見入っていたら、俊平が桔平の肩をはげしくゆさぶってきた。
「ばあちゃんといくからさア」
 俊平が地団駄をふんだ。
「ねえねえねえ、とうちゃん。土手だよ。どーて」
 俊平を両手でひきはがした。
「うん。ああ。いいんじゃないか」
 千鶴子が空のカゴをもってもどってきた。
「ちょっと、あなた、駄目ですよ。さっきまで雨だったんですから、水かさが増えているんです」
 ああそうかといって、俊平の肩をつかんでむかいあった。
「土手はあぶないからな。ばあちゃんと山にでもいってきなさい」
 いい終わる前に俊平は唇をとんがらせている。
「山はやだよ」
「雨があがったから、いろんな虫がでてくるわよ」
 千鶴子の言葉に反応して、俊平が目をかがやかせた。それからしばらく考えて、くるりと方向をかえると、自分の部屋に駆けていった。
「ばあちゃんといってくる」
 俊平は玄関で虫カゴやら網やらを準備すると飛びだしていった。かすかに母の声がきこえた。同行したのだろう。安心だ。母なら危険な場所には近づくまい。
 桔平はすっかり気勢がそがれて食事にもどった。
 千鶴子は縁台から茶の間をぬけて、台所にはいっていった。食事を終えた桔平は、正体がぬけたようにじっとしていた。そこに二人分の茶を用意して千鶴子がもどってきた。汗ばんだ表情で、首に手ぬぐいをかけていている。
「俊平は宿題をしてないんですよ」
 口調と反対に怒気は感じない。縁側からの陽射しで頬の汗が光っている。
「今日は、午後にでるのでしょう」
「そうだな」
「もう午後ですけどね」
 音楽イベントは明日である。四泊五日の旅行にいく手筈は、ひと月ほど前からたてていた。桐子といくはずだったのだ。中津川でひらかれるフォークジャンボリーは、桔平がよく話してきかせていたイベントであったし、桐子も乗り気だった。いまとなっては騒ぎをさけるための冷却期間になる。
彼女がいなくなって、周囲はどう動くのだろうか。
 岸部や同僚。
 彼女の家族は。
 桔平が黙っていると、千鶴子が口をひらいた。
「旅館はどのくらい離れているのかしらね」
 桔平は頭をきりかえた。茶を飲んで口の中をしめらせた。
どのぐらいだったかな。
 千鶴子が怪訝そうにみていた。
「イベント会場は坂下町で、温泉まではバスで一時間ぐらいだそうだ。まだ蒸気機関車も走っているようだけれど、方向が違うからな」
「のってみたいわね」
「母さんは旅行のことをどういっていたんだ」
「たまには二人でいってらっしゃいって。あなたもこんな暇はもうないかもしれないから」
「いつ以来だろうかね」
「ひさしぶりだからってなにも望まないわよ。温泉で十分」
「僕はさきにいっているから。あさっての昼に旅館であおう。きみ、フォークはきかないだろうから」
「俊平が遊びにいってしまったから。帰ってきたらもう一度いってきかせないと」
 小野田桔平は湯飲みを干して旅行の支度をはじめた。

1:この記事
2:https://note.com/zamza994/n/nae0d4a3ff9f8
3:https://note.com/zamza994/n/n824ed6dca37b

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