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『葬送のフリーレン』の感想(上)

 久しぶりに森から街に出てきたせいか、「そうか、私は年始からずっと南国にいるんだったな」、と今更になって痛感しています。今まさにリゾート地にいることが大きな原因でしょうが、夏には夏の歌が聴きたくなります。      

 そんなわけで先日2024年GW摂心告知動画とセットでされた、仏教徒ちゃんこと堀部遊民和尚、仏教のアレ編集部のお二人、Vupasamaさんによる『葬送のフリーレン』の動画が大変すばらしく、さらに先日視聴したアニメ28話が余りにも個人的に刺さるものがあったので、思わず私も感想を文章にしてみたくなりました。『葬送のフリーレン』についてはまだ完結もしていない作品なのですが(何より、黄金郷のマハト編はまだアニメ化されていない)、今回は皆さんの雑談と、『葬送のフリーレン』から私が考えたことについて、少し語ってみたいと思います。



『葬送のフリーレン』という作品の特徴、再解釈と体験


 動画でも皆さんから再三指摘されていますが、『葬送のフリーレン』という作品は、音楽も含めて押しつけがましさがなく、それでいて視聴者にもキャラクターと同じような心情を共有させる(体験させる)こと、そして何よりも、視聴者自身の固有の体験を想起させることに成功した作品と言っていいでしょう。
 この点について、近年を代表する大ヒット作品である『鬼滅の刃』とは、明らかに違う方向性の作品になります。特に映画版(無限列車編)に顕著だったと思いますが、『鬼滅の刃』ではキャラクターに"直接"登場人物の心理状況を説明させています。
 これは単にスタンスの違いとも言えますが、『鬼滅の刃』には、こうした手法をせざるを得ない事情があったと思います。今や幼稚園児まで観るような国民的アニメ(私の姪っ子も園児時代から観ていた)となった『鬼滅の刃』において、そうした層に対して内容を伝えるには、どうしても詳細な説明が必要となるからです。また、大人である私たちにとっても、タイパ・コスパという言葉からも見えるような「失敗したくない・常に正解を求める」傾向が強い現代人の性質に加え、作品が公開されるとすぐに「この作品はどう解釈するのが正解だったか」SNSで共有されるような時代において、わかりやすい正解(勧善懲悪)を掲示してくれる作品は、本当に安心して鑑賞できるものです。現代人は皆「やすらぎ」・「安心」といったものを強く求めていることがわかります。こうした背景から、現代人のニーズに答えてくれる素晴らしい作品と評価することもできるでしょう。
 加えて多くの方が指摘するように、「登場人物たちが記号的にロールプレイしている(少なくともそのように解釈できる描写が多い)」のも、わかりやすさの一助となっているように思います。その点、逆に言えば『葬送のフリーレン』は特にタイパが悪い作品と言えるでしょう。セリフが少なく、セリフだけに注目して読んでしまえば、いとも簡単に消費できる作品です。だからこそ、原作などは自分のペースで物語を消費できるために、その「よさ」に気づけない人も多いのではないでしょうか。何よりも、私自身がこの作品のよさについて、「直接語らないのがいいですよね」くらしか、原作を読んだ時点ではなかったのですが・・・。


 『葬送のフリーレン』の特徴ですが、上述したように、それは「視聴者"自身"によって体験、納得させることにフォーカスを当てている」ことであり、そして、これを可能にさせているのが、「大事なことを直接言葉で語らない」(動画内で語られている「間」もまさに視聴者へ体験させるトリガーとなっています)手法です。一例を見てみましょう。

序盤のフェルンが魔法使いになることを選んだ理由の場面です。


『葬送のフリーレン』1巻P107より


『葬送のフリーレン』1巻P108より

 

 このように本作では、徹底して大事なことは本人が、自ら直接納得する/体験するように演出されており(そしてそこにセリフはなく、回想シーンだけが表れてくることがほとんど)、このシーンでは魔法を選んだ理由そのものは、フェルン"自ら"が納得しています。
 この場面において事実としては、魔法でなくとも、一人で生きていくことができるものであれば何でもよかった。それにもかかわらず、この場面では、魔法を選んだ過去の体験を、「今、これから」を生きるために、ハイターという他者の存在と結び付けて再解釈(再定義)しています。そして、ここがミソですが、この再解釈は他者から与えられるものでは不可能です。これは"自ら"が「主体的に」行なうことによって、始めて腑に落ちることが可能なものであり、私たちが「私の人生を生きる」という時、この「主体的な」行為が絶対に必要です。それは、何かの教えに従う場合であっても同様のことです。その教えを徹底的に自らの身体に落とし込む作業がなければ、人は何かあった時、簡単に外側にその責任を押し付けることになります。
 さらに、アニメではこういった登場人物たちが過去の出来事を自ら解釈する場面において、Evan call さんによるどこか懐かしさを感じさせる音楽が流れます(動画でも言及されていました)。この時、アニメならではの「間」が視聴者固有の記憶を想起させるトリガーになります。こうした「間」(私の言葉で言えば、余白)は視聴者の記憶を想起させる余白を生み出すからです。そして、これは以前noteにした映画『マネー・ボール』の最後のシーンで意図的にとられていた手法でもあります。



 フリーレンだけでなく、私たちというのは、決定的に大事な何かを失うことによって(後悔)、始めて「切実に」何かを知りたい(したい)と願います(他にも例をあげれば、ザインの冒険への一歩もそうでしょう。あの時「勇者ゴリラ」の手をとっていれば・・・という後悔と、兄に背中を押されたことによって、彼は踏み出すことができた)。これは人間という生物の構造上、どうしようのないものだと私は認識しています。私たちは何かを失うことでしか、その重要性に気づくことはできない。しかしこれを裏側から見れば、失うことによって、始めて知ることができる、とも言えます。私としては、後者にスポットライトを当てたい。むしろ後者にスポットライトを当てなければ、私たちが生まれた瞬間から現在まで積み上げてきた「私」という存在を、一人の人間として肯定することは難しいでしょう。そして『葬送のフリーレン』においても、まさにこの"後者に"スポットライトを当てています。より正確に言えば、徹底して後者の立場であることがわかります(詳細は後述します)。
 そして、これこそが再解釈、つまり、出来事そのものを変えるのではなく、その出来事はそのままに解釈しなおす(捉えなおす)ということです。正確には”しなおす”という意識が働くと、これは意味を失くしてしまいます。なぜなら、この「再解釈」は過去と今の出来事をつなぐ物語を作る役割を果たしているからです。あくまで、過去の事実はそれ自体として存在したままで、「まっさらな状態」で再び、自らの物語を一から紡ぐ。それが私の定義する「再解釈」になります。
 前者(何かを失うことでしか、その重要性に気づくことはできない)についてまさにそうですが、私たちには能力的な限界があります。現代ではテクノロジーの発達を中心とした影響で、私たちは”あらゆることができる気になって”いますが、それでも、やはり人間としての限界は依然として存在します。むしろ、こうした全能感が高まったがゆえに、翻って、私たちの限界というものが嫌というほど反射されるものです。


 これは現代において、人の限界を示す発言・事柄を指摘した際の人々の反応からも、よくわかることだと思います。こういった一見するとネガティブな発言について、何か「そもそも考えてはいけないこと」であるかのような反応をする人が多い印象です。また、私たちは「ポリティカル・コレクトネス」に代表されるような「正しい」ことを一貫して行える、という全能感を持つ人もいる一方で、AIに対して極端に恐れを懐いている人も多いですが、これは「(人間の予想を超えるレベルで進化しているという意味で)わからない存在」に対する恐怖の反応であり、コインの表裏の反応の違いにすぎないでしょう。そしてこれは、どれだけ関わろうとも決して掴むことのできない「他者」という存在に対する恐怖とも近いものがあるかもしれません。
 現在がこのような社会であるならば、自らの限界を知った時にこそ、むしろその可能性は広がることを、推していくことが本当に大事だと思います。これは個人間によるどうしようもない能力差が、厳然として存在することも大きな理由です。以前、松坂大輔選手の引退前の姿こそが、可能性の「価値」である、とnoteにしましたが、彼の晩年の輝きは、無限の可能性に満ちていた若い頃のピッチングからは絶対に出せないものでした。私たちには、その時々の状態からでしか表現できないものがある、このことは生きる上にあたって「福音」になるのではないでしょうか。少なくとも、私はそのようにとらえております。だからこそ、いつも口酸っぱく「その人には、その人にしかできないことがありますよ」と言うようにしています。
 なぜ上記のような話をしたかと言えば、『葬送のフリーレン』においても、年をとってからでも人は変われること、さらには時間をかけて何かをすること(それが想定した通りの実を結ぶことがなくとも)を徹底して肯定しているからです。本作は、これからを生きることを強調する(=これからの生き方は変えられる)一方、人間の持つ限界も同時に認めています(主人公のフリーレンには、できないことがたくさんある。その代表例が、本人も口にするように「人の感情を人間と同じように理解できない」、ということでしょう)。

 再度確認しますが、私たちの(失うことで始めて大事なものに気がつく)どうしようもない「愚かな」性質と、その過去の出来事を、現在から再解釈し、私という存在にとってその出来事の意味を「再定義」する。これがフリーレンという作品において、徹底されている点です。
 そして、この作品が一貫しているところは、絶対に「今ここへ」返ってくることです。これは決定的な特徴と言っていいでしょう。私の記憶の限り、すべての話数において、過去の回想シーンで物語が終わることはありません。必ず、今ここに立ち返ってエピソードが終わります。これが私たちに前向きにさせる再解釈を可能にさせていることは、言うまでもありません。だからこそ、私たちはこの作品を見て温かい気持ちになります。そして、私たちもまた、フリーレンたちの冒険をみながら、過去を想起、再解釈し「今」へかえってくる体験をすることになるのです。
 

 『葬送のフリーレン』は、直接物事を語らない俯瞰的視点と、そうでありながらも、視聴者に登場人物たちの心情を体感させる仕掛け(音楽・間合い)が絶妙なバランスで構成されている作品、それこそが私にとって『葬送のフリーレン』という作品の魅力です。このような本作の映像手法に魅力を感じている私のような人間からすると、OPの評価については(動画でも指摘されていましたが)残念ながら厳しいものにならざるを得ません。大事なことを全て言葉(歌詞)で語っているからです。
 それと比較して対象的なのは、miletさんの『anytime anywhere』の方でしょう。製作記事にもあるとおり、彼女は原作からの製作意図をくみ取った上で曲も製作されています。それは以下のインタビュー記事からも明確に読み取れますし、その歌詞からも伝わります。


「勉強になるな」と思うのは、提示しすぎない、語り過ぎないこと。メッセージの忍ばせ方もそうなんですが、サラッと見ているとなかなか気づけないものも含まれているし、アニメもマンガも見返すたびに発見があるんです。いろんな捉え方ができる作品なんだけど、「受け取り方はみなさん次第」という優しさや自由度がある。これだけ作り込まれているのに、「そこは託してくれるんだ」と思えるのも『葬送のフリーレン』の素晴らしさだと思います。

https://www.billboard-japan.com/special/detail/4245より引用  ※太字は筆者

一番変化を感じたのは、私が作ったデモではマイナーコードを多用していたんです。なので、もう少し沈んだところから上を見るような印象だったんですけど、エバンさんのアレンジした音はすごくキラキラしていて、上空から色んなものを見る視点に変わったように感じて。それは私が「Anytime Anywhere」で表現したかった、風になってフリーレンを包み込む感じや、俯瞰的な視点から人や自然や時の流れを見たいという気持ちにぴったりで、「私が見たかったのはこの音の視点だったんだ!」と感じて鳥肌が立ちました。エバンさんがこの楽曲をあるべき姿にしてくれたなと思いましたね。

https://www.lisani.jp/0000243249/?show_more=1より引用 ※太字は筆者

 二つ目の引用をみても思いますが、恐るべき才能の持ち主、Evan callさん、という他ないです。


 

『葬送のフリーレン』のテーマは現代社会の問題とも共鳴する 


 登場人物たちはフリーレン以外にも、それぞれ後悔した過去を抱えています(私たちの多くもそうでしょう)。そして、その過去を「今を、これからを生きるために」、過去を否定するのでも、過去そのものを書き換えるのでもなく、自らの生を一本の物語りとして再解釈(語り直し)し、前に進んでいく。それは既に述べた通りです。
 さらに本作が徹底していることは、過去自体を決して変えないことです。この点が徹底的に重要でしょう。ヒンメルが蘇るわけでも、ハイターが蘇るわけでも、シュタルクの故郷が蘇るわけでも、デンケンの妻(ここで妻と呼称するのは、彼の意志を尊重したうえでの判断です)が蘇るわけでもない。世の中にはそうした作品もたくさんありますが、本作では決してそのような「奇跡」は起こりません。なぜでしょうか。
 それは、本作において、過去のどうしようもない後悔する他ないような経験、その体験、これらがあったからこそ「今、これからを大切にできる」という(再解釈の)立場を徹底しているからです。
 
 私たちはこの社会で生きていく上で、事実の羅列だけで生きているわけではありません。実際にはあらゆることに、社会(国家)だけでなく、各々がそれぞれに「意味」・「価値」といったものを"自ら"見出して生きています。音楽が好きな人ならば、その人にとっての音楽の意味が、スポーツが好きな人であれば、学問が、お金がetc・・・。そうした自分が好きなものと、事象としての出来事、(過去から現在までの)時間という存在としての「私」、これらを積み重ね、それぞれについて自らで何らかの「意味」を見出し、最終的にそれを一つに束ねて「私」という存在として認識し、この社会で生きています。
 難しい話ではありません。例えば20歳の人間ならば、0歳~20歳まで生きた人間として見られ、そうした人間であることを突き付けられるのが「社会」でしょう。就活時における履歴書(○○年に○○をした)などはその典型です。また、常住する実体我が存在しないという仏教的思想を信仰する者であっても、この「社会」で生きていく限り、こうした存在であることを突き付けられる/求められることには、変わりありません。
 首尾一貫性を強く求められる時代(≒ポリティカル・コレクトネス)において、こうした「パッケージされた生としての存在」を肯定することがとても難しくなってしまったのが、現代しょう。だからこそ、私はここまで一貫して「再解釈」に拘っています。
 過去、善い/良いとされていたことが、未来において「過ち」であるとされる例は枚挙にいとまがありません。濁して言及しますが、過去の残虐な出来事をネタにしてしまった二〇年以上前のコントについて、現代という時代の価値観から遡行して過去のその漫才者だけを非難し、このようにして二〇年以上前の他者の行為"だけ"を見て、現在の他者の存在そのものを否定するような行為(≒他者の存在を下げることによって、みずからのプレゼンスを上げる行為)によって悦に浸っている、私の目から見れば余りにも虚しい道徳観の持ち主も、SNSで散見されました。

 あまりいい例ではありませんでしたが、このように「今の」私たちから見れば、過去の私たちがいかに「愚か」であったか、という話は(実際、当時はその漫才によって観客からも笑いが起こったようです。むしろその当時は誰からも咎められなかった)、私たちが不完全な存在である以上、構造的にどうしようもないことでしょう。このような道徳観も、インターネットや科学技術の発達を中心とした、物質的豊かさがもたらす私たちの「全能感」が影響しているのかもしれません。私たちは科学やテクノロジーの急速な発達を通して世界で生じる事象について、以前よりも理解できるようになってきた。そして、これは間違いなく人類の英知でしょう。ただし、その英知を生み出してきたという自負が、同時に現在の「ポリティカル・コレクトネス」の根底にある「正しい」行為しか許されない、という傲慢さを生み出しているように思います。そして、そのことに疑義を呈する力を持っていた知識人たちも、この概念については疑うことが許されない前提として、オピニオンを発しています。
 しかし、コロナウイルス(とそれをめぐる動き)によってこの「傲慢さ」は打ち砕かれたように思います。疫病に対抗する手段として、私たちが実際にできたことは「内にこもること」(自粛要請がその典型でしょう)であり、それ自体は昔から人類がやってきた対策です。そして、ワクチンを作ることはできましたが(これ自体はとても素晴らしいこと)、その安全性については様々な疑念があったこと(少なくともプラス効果だけではなかったことは、現在進行形で多くの人に指摘されている)も確かです。
 このように人類の技術もまだまだ全能ではなく、ましてや私たち自身は限界だらけです。それでも社会で生きていく以上、パッケージされた生としての存在である「私」として、生きていかなければなりません。であるならば、自らを肯定する為にも、現在から見れば「過ち」にしか見えない過去の行為があるからこそ、成長することができる、こういった「再解釈」をしなければ、パッケージされた「私」という存在を肯定することは永遠にできないでしょう。
 実際は流動的に変化していく存在である私たちを、固定した状態の存在としてだけ見ることは、どうやったって無理があります。まさにそのことを痛感するのが、坐禅、瞑想などの実践なのですが、そんなことをしなくとも、ある程度の期間生ききていれば、生老病死の生老病を体感している人は多いでしょう。
未来から見れば「現在」している行為が「過ち」であること等、余りにもありふれています。過去の過ちからその事実を、そうした私たちの過去の汚点を、何事もなかったかのように、現代から一方的に裁くのは、私から見れば、醜悪な行為そのものです。「正しさ」に取りつかれてしまったかわいそうな存在のように見えてしまいます。これは既に述べた通りです。
 こうした現代という時代に強い問題意識をもっておられるのが、東浩紀さんでしょう。

また、先日『訂正する力』を読んでびっくりしたのですが、東さんも私とほぼ同じような意味で「再解釈する」という言葉を、訂正する力のひとつの要
素として語っていたことです。

訂正する力は現実から目を逸らすために使ってはいけません。現実を「再解釈」するために使うべきなのです

『訂正する力』より引用 ※太字は引用者


また恐れ多いのですが、本著で語られる彼の世界観が余りにも私に近く、驚いたものです。少し長いですが引用しておきます。

ぼくは、人間と人間は最終的にわかりあえないものだと思っています。親 は子を理解できないし、子も親を理解できないし、夫婦もわかりあえない し、友人もわかりあえない。人間は結局のところだれのことも理解 できず、だれにも理解されずに孤独に死ぬしかないできるのは「理解の 訂正」だけ。「じつはこういうひとだったのか」という気づきを連鎖させることだけ。それがぼくの世界観 です。(中略)大事なのは、ひとが理解しあう空間をつくることではなく、むしろ「おまえはおれを理解していない」と 永遠に言いあう空間をつくることなのです。

東 浩紀. 訂正する力 (朝日新書) (p.117). 朝日新聞出版. Kindle 版.


ただし、私としては「訂正」という言葉については、語感的にどうしても「ネガティブ」なイメージが浮かんでしまうので、やはり再解釈という言葉で押していきたいところです(笑)。もちろん、『訂正する力』においても、この訂正する行為そのものを好意的にとらえられています。ただ私としては厳密には訂正ではなく、一から紡ぎなおすことを強調したいところですが。


理解し合えないもの同士の共存、その価値


そして、上述した東さんのような世界観は『葬送のフリーレン』にも通底する価値観でしょう。その究極が黄金郷のマハト編(ここでは深く言及しません)だと思いますが、実はそれ以外の場面でも、分かり合えない者同士が、それでもお互いの存在を肯定することができること(そして、これこそが、私たちの美点でしょう)、作中で何度も確認することができます。フェルンとの以下のやり取りもその典型でしょう。


 知ろうとしてくれたことが嬉しい
『葬送のフリーレン』1巻より


続きのシーン。フェルンより、人の感情がわかっていないと指摘されるフリーレン
『葬送のフリーレン』1巻より


ハイターからもらった古い杖が壊れ、それを捨てるように言われて怒るフェルン
『葬送のフリーレン』6巻より
フリーレンの言葉にショックを受けるフェルン
『葬送のフリーレン』6巻より


シュタルクより慰められるフェルン
『葬送のフリーレン』6巻より


フリーレンが杖を修理に出し、ハイターとの思い出をフリーレンを通して思い出すフェルン
『葬送のフリーレン』6巻より


フェルンが1巻で、フリーレンがフェルンを「知ろうとしてくれただけでうれしい」とその喜びを嚙みしています。しかし、私たちは実際は、誰かにわかってもらいたいという欲求をもつものです。それが6巻の上のシーンに出ており、そうしたフェルンの気持ちに対する答えが、理由はわからないが、大切にしている杖だから修理した(フリーレンはフェルンがなぜ杖を大切にしていたか、最後まで理解していなかった)というのは、やはりこの作品は一貫していると感じるところです。フリーレンはフェルンの気持ちを理解したわけではありません。けれども、それでも私たちは共に過ごすことができます。そして、それは「かけがえのない」思い出になる。”ここ”に積極的な「価値」を見出し、卓越した描写で私たちの心を響かせる原作の山田鐘人先生を中心とする製作サイドの手腕には、唸るばかりです。もちろん、このあたりの描写が最も優れているのは、原作の黄金郷のマハト編に他なりませんが、まだアニメ化もされていませんし、アニメ化になることで再発見することもあると思いますので、今回は言及しません。



 さて、既に1万字近くなり、かなり長くなってしまったので、前半で面白いと思ってくださった方は、続きの後編も読んでくださるとうれしいです。
後編ではアニメ最終話の28話を中心として、本作を視聴して個人的に想起した思い出、その再解釈について語っています。





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