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渡辺美里『My Revolution』を改めて聴いて考えたことについて

 先日たまたま渡辺美里『My Revolution』をYoutubeで聴いたときに改めて素晴らしい曲であることを痛感し、これはnoteで語るだけの内容のある曲だ、ということを実感したので、今回は『My Revolution』とそこから連想したことについて少し語ってみたい。40年近く前のJ-popを今更語るのは私ぐらいであろうが、時代の流れとは関係なく、「いいものはいのだ」という精神で文章にしてみたい。なお、音楽についてはド素人であるため、専門的な解説は一切ないのでそこについてはご容赦いただきたい。

 私の記憶にある限りでいえば、おそらくこの曲を初めて聴いたのは中学生のころである。当時の私はニコニコ動画に毎日のように入り浸っており、そこは「歌い手」と呼ばれる人たちが歌ってみた動画を投稿する、という今となってはYoutubeで当たり前に見られる現象の先駆けとなった場所でもあった。ちなみに、こうしたネット文化に少しでも精通している方ならば今更いうまでもないことかもしれないが、今や国民的にシンガーとなった米津玄師さんもかつてニコニコ動画で歌ってみたを投稿していたことは有名な話である。また、その当時(2007年~2012年ごろ)はアニソンや懐メロ(特に90年代)がニコニコ動画で人気があったため、私も例に漏れずこの2つのJ-popを好んで聴いていた記憶がある。それに加えて、小室ファミリーの曲が好きだった私は間違いなくこの曲を中学生時代に聞いているはずである。なぜなら『My Revolution』の作曲はあの小室哲哉だからだ。これほどのヒット曲であり、オタク気質の強かった私ならば間違いなくニコニコ動画の小室メドレーのような動画で『My Revolution』を聴いているはず(大事なことなので2回)、それにも関わらず、中学の頃にはこの曲は特段心に響くものではなかったのだろう。積極的にこの曲を聴いていた記憶は全くない。なんとなく曲調は明るいし、元気が出るような曲だな、渡辺美里は歌がうまい、という程度の印象はもっていたかもしれないが・・・。
 そんな私がこの曲をしっかり聴くようになったのは大学生の頃である。それもモラトリアムの終了後である(私の恥ずかしいモラトリアムの話は『マネーボール』感想で書いたのでここでは繰り返さない)。この歌を聴いた人ならば、まず同意していただけると思うが、自らの足で踏みだし始めた(踏み出そうとする)人にとってはとても胸に響く歌詞となっており、とても元気づけられる曲である。開始数秒のイントロと歌いだしで名曲であることを感じさせるくらいのエネルギーがある、と感じるのは私だけだろうか。今となっては中学時代の私の胸に刺さらなかったのも納得できる話なのだが、大学生の頃に自らの人生を生きることを始めて決意した私は、その時初めて、この曲の歌詞が意味していることを理解し、心の底から同意したのだろう。したがって、世界を呪い続けていた中学時代の私の心に残らないのは当然の話である。そんなわけで、大学時代の私の胸にささった歌詞を以下に引用しておく。

きっと本当の 悲しみなんて
自分ひとりで癒すものさ


わかり始めた my revolution
明日を乱すことさ
誰かに伝えたいよ
My tears, my dreams 今すぐ

夢を追いかけるなら
たやすく泣いちゃダメさ

君が教えてくれた
My fears, my dreams 走り出せる

渡辺美里『My  Revolution』より引用
※太字は筆者強調

 これは私が昔から感じており、今でも全く意見は変わっていないが、多くの人にとって一人になる時間は絶対的に必要ではないだろうか。そのことを伝えているのが「きっと本当の悲しみなんて 自分ひとりで癒すものさ」という部分である。以前noteに書いた映画『マネーボール』におけるビリー・ビーンもそうであるが、一人で車を運転しているシーンにおいて自らと向き合っている時に「大きな転換点」を迎えている(その内容については私の記事を読んでいただきたい)。自らと向きあうためにも私たちには一人でいる時間が必要である。さらに厳密にいえば、(これも私が昔から常々感じていることであるが)私たちは「自意識が他者と(完全に)つながることはない」という意味では基本的には常に一人である(もちろん、アニメ『ガンダム』の世界のようにニュータイプ(≒エスパー)のような存在であれば事情は少し異なってくるかもしれないが、基本的には私たちの世界にそうした人はほとんど存在しないだろう)。
 これに関して、ボッチという言葉がネガティブな意味を持って久しいが、私たちにとってはボッチである時間はとても貴重であり、自らにとって絶対的に必要である、というのが現在の私の素直な気持ちである。もちろん、ボッチという意味がネガティブな意味をもつことになった背景には、(現代の)少なくない数の日本国民が社会との関係が以前に比べて希薄になりつつあるこの状況に対して、多くの同胞たちが危機感を抱いている、ということは百も承知である(こうした現状は、他者と関わるネガティブな側面を徹底的に排除するために他者とのコミュニケーションのハードルを必死になって上げ続けたわれわれの涙ぐましい努力の結晶であろう)し、その懸念は実際その通りなのだろうと思う。    
 ただし、よく言われることであるが、現代のように過剰に「つながり」を求めること(もしくは「つながり」そのものを無条件に肯定する態度)についても、私個人の意見としては積極的に評価することはできない。現代のように「孤独」に耐えられない反動として「つながり」を評価する、という形では、結局はわれわれが「孤独」と向き合う耐性を低下させることにつながってしまう、と考えるからだ。わたしとしては「孤独(alone)」を前提(基本)としたうえで、その次にくるものが「つながり」という方が自らの感覚とも違和感はないし、多くの人にとっても「孤独」を味わうことではじめて「つながり」の意義がわかるものではないだろうか。少なくとも私は自らの「孤独」を積極的に認め、求めるようになってから始めて皆の言う「つながり」の意義というものが実感できたタイプの人間である。孤独であることの社会的意義の話がしたいわけではないので、ここで社会的意義の話はやめにするが、「孤独」そのものについては、昔から私の関心が深い問題であるので、もう少し掘り下げてみたい。
 その際にヒントになるのが、『自由への旅』におけるウ・ジョーティカ師の以下の発言である。実際は私の上述した見解はほとんどこのウ・ジョーティカ師の発言と同じものである(ウ・ジョーティカ氏の本が私の中にある孤独についての見解をとても明晰に代弁してくれている、といった方が正確かもしれない)。

そんな わけで、瞑想してこうした諸徳性を育むと、あなたは独り( alone)になりますが、さみしく( lonely)はないのです。 この違いを理解しようと努めてください。そこには大きな相違があるのです。

ウ・ジョーティカ『自由への旅』より引用
※太字は筆者による強調

 上記は瞑想の境地についての話題の中で出てきた話ではあるが、一般論として十分に通用する話ではないだろうか。ちなみに、前段の話でウ・ジョーティカ師は、「孤独ではあるが、さみしくはない状態」を育む必要性を述べている。これは私が先ほど述べた「孤独であることが先にあって、その次に「つながり」がある」ということとリンクする話である。
 上の引用でウ・ジョーティカ師が述べていることは、要は「独り(alone)」 とは感情に飲み込まれずにただ独りであることを堪能すること(マインドフルであること)であり、「さみしい(lonely)」はこれとは異なり、独りであることに積極的に感傷的になることによってもたらされるネガティブな感情である、ということだろう。そして、「独り(alone)」を正しく理解することこそが大事である、と語るウ・ジョーティカ師の立場に私は全面的に賛成である(これは瞑想に関係なく、われわれが生きていく上でも同様に大事なことであろう)。実際、『My Revolution』に引きつけてこのことを考えてみても、二番の歌詞で「たった一人を感じる強さ、逃したくない、街の中で」という部分があるのだが、これが意図することは上のウジョーティカ師の意見とかなり近いところにある。独りであることの味わい深さは、一度でも堪能したことがある人にとってはその価値が手放せないほどのものである、と私などは思うのだが、皆さんはどうだろうか。、
 
 続くサビの歌詞に「わかり始めた my revolution」とあるが、ここで大事なのは「わかり始めた」という部分だろう。私なりの表現で言い換えると、「わかり始めた my revolution」とは、スタートラインに立った瞬間であり、それはあくまで始まりにすぎないということだ。そして、スタートラインに立てた時の感動とは、思わず誰かに伝えたくなるほど感動的なものである、ということを示すのが「誰かに伝えたいよ My tears, my dreams 今すぐ」という歌詞であろう(このことについても以前の『マネーボール』の感想noteにかいたので興味のある方は是非)。
 この調子で曲の解説を続けると、長文になりそうなのでここまでにするが、今回久しぶりに聴いたうえで一番心に響いた部分は、冒頭の「さよなら sweet pain」の部分である。今回、改めてこの曲を聴く中で、自らの人生の中で生じた苦労(≒苦)について私にとって本当に必要なものであったな、と感じさせられた。この「苦労」は外部要因や内部要因を問わない「苦労」全般の話である。そんなわけで、先日こんなツイートをしたのである。

 先ほど、「孤独(alone)」の重要性について少し述べたが、それは「苦(dukkha)」を語るうえで「孤独(alone)」に言及することは必要不可欠である(と私にとっては感じられる)からである。人は「孤独(alone)」を噛みしめることができるようになった時、初めて「苦(dukkha)」が自らに対してもたらしているもの(とその意味)に気がつくことができるのではないだろうか。というのも、普段の私たちのシンキング・マインド(瞑想界隈で使われる用語。考えるモードの状態のこと)の状態では「苦(dukkha)」という現象そのものを冷静に観察することはできないからだ。普段の私たちのモード(シンキング・マインド)で「苦(dukkha)」というものを考える際、どうしてもネガティブな感情とセットになり「苦(dukkha)」と一体化して「苦(dukkha)」を考えてしまう。しかし「孤独(alone)」というものを本当の意味(プラスイメージやマイナスイメージといったものを持つことなく)で味わうことができるようになれば、「苦(dukkha)」という概念に飲み込まれることなく、一定の距離を保ちながら「苦(dukkha)」そのものが観察できるようになる(もちろん、この観察のレベルにも程度(グラデーション)が存在する)。このように一定の距離を保ったまま「苦(dukkha)」を観ることができるようになれば、それまでの一体化した状態とは違ったものを観照することができる。
 この手の話は瞑想に興味のある方ならば、多くの瞑想本/瞑想指導者から耳に胼胝ができるほど読んだり(/聞いたり)、したことだとは思うが、私の実感としても、これについては完全に同意である。ある程度の年をとった人間ならば(大人であれば特に)、自らの気質を理解したつもりになっているが、それが実際にはどれほど粗い(gross)理解であることか、私自身も最近は瞑想を通じて痛感させられているところだ。そして、だからこそ瞑想は、私にとって(自らを知ることができるという意味で)楽しいものでもあるし、今では私の生活に不可欠なものである、と心から思えるようになってきた理由でもある。瞑想は自らが無意識につくりあげてしまうような「シコリ」のようなものをときほぐす作用をもっている。このことが如何に意義のあることであるかは、社会人であればその身をもって理解していただけるだろう。

 実はこんなことを考えたのは、ウ・ジョーティカ『スノー・イン・ザ・サマー』の第4章を読んだからに他ならないのだが、そのことについてはまた別の機会で文章にしたい(そして、この話は瞑想の話にも深く関係している)。また、ウ・ジョーティカ師の『スノー・イン・ザ・サマー』は仏教・瞑想への興味に関係(専門知識も全く必要なく読むことができる)なく「自由」や「孤独」を求める人にとっては、これ以上ない素晴らしい本であり、学ぶべきところが大いにある本である。もし興味のある方がいれば、以下のサイトから無料でPDFをDLできるので、是非とも読んでいただきたい(http://myanmarbuddhism.info/2013/12/14/snowinthesummer/)。

 長くなってしまったので簡潔にまとめるが、渡辺美里『My Revolution』はスタートラインに立った人にとってこれ以上ない応援ソングであるとともに、今回久しぶりにこの曲を聴く中で、いい作品というものは歳月を経ても胸に響いてくるものだなぁ、ということを改めて実感した。私はこの曲の歌詞の部分に強く惹かれているわけだが、今回執筆するにあたって改めてWikipediaを読んでいたところ、歌手である渡辺美里さん自身も年月が経つにつれてこの歌詞が意味するところがよりわかるようになってきた、と以下のように語っており、これもまた印象的であった。

「歌い続けていく中で、その瞬間瞬間を突き動かしていく曲になっていった」

『My Revolution』wipipediaより引用

 歌詞だけでなく、CD音源の彼女の声色からもこれから突き進んでいく確かな意志を感じさせられる。それに加えて、歌い手である彼女自身がこの曲によってその強い意志がさらに突き動かされたのならば、当然聴く側のわれわれにも響いてくるものがあるのだろう。また、作詞を担当した川村佳澄さんによれば当時の渡辺美里の印象として「ひとりでも強く自分でやっていける女の子という像が浮かんできた」と語っており、その印象がそのまま彼女の歌声にのっている、と
私などは感じてしまう。さらに、小室哲哉さんによる作曲ではサビでの転調の多さとそれにこたえる渡辺美里のハイトーンボイスによって、この曲の持つ「瞬間瞬間を突き動かす力」をよりいっそう高めることに成功している。こうした三位一体のプロフェッショナルな技(≒全員が同じ方向性で曲作りをしている)があることによって多くの人の心に残る名曲となったのだろう(この曲が単なるヒット曲ではなく、長年に渡って人の心に残るものとなっているのはYoutubeのコメント欄を観れば一目瞭然である)。今まさに、彼女の曲を聴きながら執筆しているわけだが、彼女の語るように瞬間、瞬間を大切に生きていきたい、と心から思う今日この頃である。

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