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マリーはなぜ泣く①~Train in Vain~

 鬱屈した気持ちをマイクロフォンにぶつけ、パンクロックとして昇華させる。ステージに上がると、ファンは代弁者である俺に歓喜の声を送る。ステージの外では美女と戯れる。本当はそうなるはずだった。――そうなるはずだったのに、俺は今、自分より四十キロも重い女房に体当たりされ、ステージの上で吹っ飛ばされている。

「風が吹いても倒れるような体してるクセに、偉そうなこと言ってるんじゃないわよ!」

 他の芸人目当てでやって来た観客がその姿を笑う。

「もっと笑え。もっと笑え」と思う。「笑われるんじゃなく、笑わせるんだ」そんな崇高な芸人哲学なんかはクソ食らえ。俺は道に迷ったパンクロッカー。芸の無い芸人。せめて笑い者にでもしてもらえなければ報われない。


 俺の現状を説明するのにどこまで遡ろう。二十二の頃か、それとも十三才か。どっちにしても持ち時間は限られている。駆け足で話そう。思春期にロック音楽に心打ち抜かれた俺は、なけなしの小遣いをCDやその頃はまだ辛うじて息を保っていたカセットテープにつぎ込んだ。その内にロック小僧として当然の流れで、自分でも歌い、ギターを弾くようになった。

 よくある話。著名なミュージシャンでも、その辺にごまんといるニキビと一緒に音楽への情熱も消えうせるキッズも、みんな大体取っかかりはこんなもんだろう。

 俺が他のヤツらと違ったのは、音楽の好みが時代と合っていなかったことだ。九十年代、大物プロデューサーが大量生産する打ち込み音楽とビジュアル系バンド全盛の時代に、俺は洋楽。それも六十年代のブルースロックに惚れ込み、その後しばらくして七十年代のパンクロックを愛した。

 生まれ育った四国の田舎町には、俺の海と時空を隔てた遠距離恋愛を理解する者はいなかった。

 愛媛県の県庁所在地、松山市にある大学に進学すると、すぐにバンドを組もうとメンバー探しを始めた。それまで、初夏の頃には網戸に蛍が留まっているような場所に住んでいた俺からしてみれば、松山といえど十分に都会だった。まがりなりにも四国で一番人口の多いこの街ならば、同じ音楽を愛する人間が居ると思った。

 しかし、市内の楽器屋、スタジオ、ライブハウスを回り、メンバー募集の掲示物をくまなくチェックしたが、どこもビジュアル系バンドのメンボに占拠されていた。辛うじてリバイバルブームが来ていたフォークグループの募集がチラホラと見受けられたが、化粧して憂鬱な曲を歌うヤツらの仲間にも、駅前でタンバリンを叩きながら、童貞くさい歌詞を歌うヤツらの仲間にもなる気は無かった。

 大学の音楽サークルにも顔を出してみたが、『いけないクリスチャン』という反吐が出るような名前のビジュアル系バンドが奇声を上げているだけだったので、二度と近づかなかった。

「なぜだ、なぜなんだ?」レコード屋に行けば、名盤と謳われるCDがいくつも置いていて、購読していたギターマガジンでは毎月特集が組まれているのに、なぜブルースロックもパンクロックも周りで愛好者が見つからないんだ? と俺は苦悩した。



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