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僕が歩けなくなった日の話

僕が小学四年生の頃だ。

初めは、本当にただの体調不良だった。
元々身体が強くなかった僕にとって、とっくに慣れっこ。
37℃〜38℃くらいの発熱と、ちょろっと鼻水が出る程度の何の捻りもないただの風邪だ。

病院に連れて行ってもらって、2〜3日安静にしていれば治るだろう。
学校は休めるし、親も甘やかしてくれるしラッキーだなくらいにしか思っていなかった。

しかし、様子がおかしい。
どうやら拗らせてしまったようだ。

1週間近く熱が下がらず、かなり体力を削られてしまった。身体もだるいし、中々布団から起き上がることができない。そろそろ暇になってきたぞ。

まあ、折角だしゆっくり休もう……


そうこうしているうちに、ようやく熱も下がり始めた。

そんな中、ある日トイレに行こうとしたら足に力が入らず膝からカクッと崩れ落ちた。

その時は、あれ?とは思ったものの、「ずっと寝ていたし、衰えているのかな?」くらいにしか考えておらず、壁伝いにトイレまで歩いた。

その後も身体はだるいし、中々治らないのでまた病院に行ったら、車から降りようとする時によろけて転けた。

やっぱり足に力が入らない。

親の肩を借りて、病室まで辿り着いた。

診察の際、そのことを伝えたら念のため入院ということになった。
検査をしたり診察を受けたりしているうちに、どんどん歩けなくなっていった。

原因はわからない。

病院のベッドで恐怖に震えた。

このまま歩けなくなってしまうんじゃないだろうか。何もしていないのに、理不尽すぎる。僕はまた今まで通り学校に行けるのだろうか?

頭の中がぐるぐるして、泣き出したかった。
泣いてもどうにもならないことなんて、既にわかる歳だったのだけれど。

しばらく入院していろいろ検査を受けたが、結局近所の病院では検査しきれないということで、国立病院を紹介された。

その頃には、僕は車椅子だった。
「病院に行けば治る」と何となく考えていた僕には、余りに辛すぎる現実だった。


脳のCTを撮っても異常は見つからず、念のためということで精神科にも回された。

面談をしてくれた女医さんは本当に優しい人だった。
軽くお話をした後、ブロックで建造物を作らされたり紙に絵を書かされたりした。

こんなもので何がわかるんだ?と思い、面倒がった回答をしたら、見事にそのことを見透かされてすごく恥ずかしかったのを覚えている。

結局、精神面にも異常は無しだった。(刻一刻と変化する精神に正常なんてものはあるのか?とは思うが…)

さんざん検査で身体をいじられた上、歩けなくなる絶望感に疲れ切っていた頃、医者にこう告げられた。

「恐らく、ギラン・バレー症候群と思われます。」

親の不安そうな顔。

なんだそれは?

「自分の免疫で、自分の神経が攻撃されてしまう病気です。」

なるほど。わからん。

「酷いと全身が動かせなくなったり呼吸器にも麻痺が及ぶ方もいます。後遺症として、やはり筋力の低下が残り続ける場合もあります。」

ん?まずくね?それは死ぬのでは?

目の前がチカチカする。

「幸い症状はそこまで重くないですし、基本的には時間と共に徐々に良くなっていきますよ。」

なんだよ。そっちを先に言ってくれよ。

後から医者にいわれたが、ギラン・バレーはどうやら結構稀な病気らしい。
年間の発症者は10万人あたりに1〜2人程だそうだ。

当時は、自分の不運を呪った。

なんで俺なんだ。もし治らなかったら一生このままかよ。ふざけんなよ。運が悪いとかいうレベルじゃねえだろ。というより、気をつけようがないだろこんなもの。

と。

怒りも大きかったような気がする。

結局、しばらく入院し、2ヶ月ほどで特に悪化も後遺症もなく元の生活に戻った。

助かった。 と思った。

恐らく大金と言える入院費を出した親には感謝しているし、治療に携わってくれた方々には頭が上がらない。


恐らくこの経験からだろう。
病気に対する確率とか統計的なものに対して、もう少し寛容になっても良いんじゃないかと考えるようになった。

例え「何%でその病気になります。」と確率的に言われても、その病気になった本人は「なった」という100%の結果でしかない。10万人あたり1〜2人という病気に偶々罹ってしまった僕のように。

ましてや、病気における統計的な話が、その人1人の人生で体感できるようなものなのだろうか?

この話を聞いて、感染症を原因とするギラン・バレーを恐れ、全く外に出ず人にも会わない選択をすることは果たして合理的だろうか?

確かに、いろいろな感染症にかかりづらいかもしれないし、死ぬ確率も減るのかもしれない。
しかし、それは果たして色んなものを犠牲にしてまで勝ち取りたい結果だっただろうか。

タバコを吸うこと、酒を飲むこと、美味しいものを食べすぎてちょっと太ることがそんなに悪い事だろうか?
今ほど生活習慣や健康に煩くなかった時代、既に日本は長寿大国だったはずだ。
日常の欲求を押し殺してまで、「1人の人生で実感できないくらい些細な長生きできる確率」は勝ち取りたいものなのだろうか?

(別に僕は普段タバコを吸わないし、特に太っているわけでもないが。)

病気になった人に、「それ見た事か。節制しないからだ。」なんて言う必要はあるだろうか?

おそらく、そう言う人達も人生で何かしらの病気に罹り、死ぬのに。

普通は、大きな病気をしたら、健康に気を使うようになる人の方が多いのかもしれない。
しかし、どうやら僕は天邪鬼のようだ。

健康に気を使うも使わないもの、気まぐれで節制するのも皆んなの自由だと思う。自分や他人を責めないで欲しいと思う。

医学とか科学には、僕たちがもっと好きなように生きられるようにして欲しい。決して確率とか統計に縛られて、人に苦労を強いるのではなく。

戒めであって欲しくない。

確率的にどうだと言われようと、僕もあなたも1人で100%でしか無いのだから。
本当に理不尽なのだけれども。


勿論、世の中にはこんなものではない重い病気に今でも苦しむ人もいるだろうし、この程度の病気にかかったくらいで…というお叱りを受けるかもしれない。

「歩けなくなった私には、あなた達の苦痛が解ります。」と言いたいわけでもない。

ただ、ほんの少し自分を甘やかしてもいいんじゃないか、そう思うだけだ。

自身に起こった小さな不運と、大事に至らなかった幸運を噛み締めながら筆を置かせていただく。

読んでくれてありがとう。

おわり

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