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じいじ

昨年のはじめ、私にもついに念願の孫ができました。私は男ですから子供を産むというのがどんなものか、その痛みについてはなにも理解はしていません。ただ私の妻が理恵を産んだとき、そして理恵が健太を産んだとき、幸いそのどちらにも寄り添うことが出来たのですが、あのときの弱々しくも幸せそうな笑顔は忘れたくても忘れることが出来ぬほどに鮮明に記憶しています。

孫というのは本当にかわいいものです。愛娘にとっての愛息子、愛おしくないはずがありません。私の持てる愛情の全てを私なりの形で健太に届けました。しかし一つだけ寂しく思ったことがあります。それは健太が私のことを「じいじ」となかなか呼んでくれなかったことです。理恵やその旦那はだいぶ昔からママだパパだと言ってもらっている。私の妻もばあばと言ってもらえる。しかしなぜ私だけ?

くだらないことだと言うのはわかっています。しかし呼んでもらうというのは他の誰かとはっきりと区別されるという点で大変嬉しいものですから最後まで取り残されるとやはり悔しかったですね。母親、自分を腹に抱えて十月十日を過ごしてくれた人。父親、自分の半分を与える人。祖母、自分の母親を腹に抱えた人。そういう訳で早く懐くとするならば私だって自分の母親の半分だ、どうしてお前は私だけ呼んでくれないのだ。

しかしこの悔しさが綺麗に晴れることになったのは本当に些細なことからでした。理恵が自分の胸に抱く健太の顔を私の方に向けて「けんちゃん、これがじいじだよー」と語りかけた時です。健太の口がもごもごと動いて「い」の口になりました。私は呼んでもらえる気がして身構えます。しかし健太は小さな声で「いー」と言っただけでした。

(なんだ、それだけか)

「そう、じいじよー」

理恵にはこの呻くような声が「じいじ」に聞こえるらしい。

「けんちゃん、まだ『じ』って言えないのよねー。でもあと少しね」

(「じ」が言えない…?)

私はこっそり「ママ」「パパ」「ばあば」と言ってみました。私の唇は音を発するたびに触れ合います。続けて「じいじ」と言った私ははっとしました。唇が触れ合わない。

(なんだ、それだけだったのか)

もう一度健太が「いー」と言いました。今度は私にも「じいじ」と言っているように聞こえます。嬉しくなると共に60年以上も生きてきてこんなことにすら気づけなかった自分が恥ずかしくなって顔の筋肉がふっと緩みました。

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