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じいさんのシフォン

これは私が高校に通っていた頃の話だ。当時の私は学校の行き帰りに路線バスを使っていた。幸い最寄りのバス停から高校までは乗り換えることなく行くことができたから、それはそれは便利だった。

あれは冬の寒い日、私が学校から帰ろうとバス停に向かうと、待合用のベンチにニット帽を被ったじいさんが一人ずいぶんと小さくなって座っていた。見るとじいさんの左手の中でビニール袋につつまれたシフォンケーキがちょこんと顔を出している。じいさんは右手でちょっとずつちぎってシフォンケーキを食べている。

じいさんは私が傍らにいることに気づいてふと視線を私のほうに向けた。私が思っていたよりもこのじいさんは一回り老けていた。

「寒いなあ、今日は」あるかどうかすら疑わしいほどの小さな声でじいさんがつぶやいた。

「寒いですねえ」じいさんにも聞こえるようにわざと声を張って答えてみた。

「バスはまだ来ないのかねえ」

「あと5分もすれば来ると思いますよ」

「そうかそうか」

毎日使うバスだ、いつ来るかぐらいもう覚えているんだぞと私は一人で誇らしい思いになっていた。

じいさんはふと左手にもっていたシフォンケーキに目をやった。シフォンケーキはうっかりネズミにかじられたほどにしか減っておらず、このじいさんがほんの5分で食べきることのできる量とは思えない。

「バスの中、ものは食えるのかね」

「うーん、よした方がいいと思いますが」

「やっぱりそうか…」

私は歳をとれば横着になるものだと勝手に思い込んでいたからこのじいさんがそんなことを気にかけていることに少し意表を突かれた。じいさんはシフォンケーキを持ち替えながらジャケットの両方のポケットをがさごそと漁っていたが結局何も現れはしなかった。シフォンをどこかに隠したいらしいがあいにく手提げになるものを持っていないらしいと見えた。

「そうだ、君このシフォン食べないか。わしじゃあもう食べきらん」

「頂いてよろしいんですか」

ちょうどお腹も空いていたから素直に嬉しかった。じいさんはひとくち分のシフォンケーキを切り取ると私に残りをえいと突き出した。その袋を受け取ってみて気づいた。

裏が破れきっている。これは困った。もうじき来るバスに乗らないとすぐ家に帰ることはできない。しかしシフォンケーキを包んでいたはずのビニール袋はもはや袋としての造形を留めていない。このまま鞄に入れたら…。

ふと目線を落とすと、じいさんがにこやかにシフォンケーキをかじっている。このじいさんにはこんなにも嬉しそうな表情が備わっていたのかと思うほど穏やかな笑みだった。自分にここまで大きな至福をもたらしてくれたはずのシフォンケーキを、このじいさんは私に託した。これを無駄にするなど、私にはできなかった。

家に帰るはずのバスがやって来た。じいさんはのっそりと立ち上がりゆっくりバスに乗り込んだ。

「あれ、君は乗らないのかね」

「ええ、行き先が違うので」

優しい嘘でバスを見送る私の左手でシフォンを覆うビニールががさっと音を立てる。次のバスは1時間後だ。

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