無重力

【道元さんと身心脱落】 手応えのない仕事 釣り合うと消える??

先日はまったく手応えを感じない一日研修をやってきました。

セミナーのタイトルは「ビジネスコーチング研修」
参加者は、コンサルタント、経営者、リーダー。
表看板はビジネス系研修です。

研修を主宰してくださったのは、数々の企業を再生されてきたバリバリのコンサルタント。

アスリートたちをメンタルトレーニングしてきた経験とノウハウを
ぜひビジネスパーソンに役立ててもらいたいという
本当に有難いご依頼でした。

しかし、私の中ではお受けして良かったのか、
ずっと葛藤がありました。

自分自身が過渡期にあるように感じていたからです。

以前は、マネジメントスキルやコーチングスキル、
リーダーシップスキルなどをいかに分かりやすく、
ビジネスの現場ですぐに使えるかを探求し、
それらをお伝えすることにとてもやりがいを感じていました。

しかし、この数年は果たして何を伝えたらよいのか、以前のように明確ではありませんでした。だから、ビジネス系の研修は極力お受けしないようにしてきました。

しかし、今回の依頼をお受けしたのは、何かが動き始めたからだと思います。

私の中では、3通りの研修が浮かんでいました。

1番目は、ビジネスで役立つコーチング研修。

いかに部下の話を聴ききるか。
やる気を引き出すために必要な心構えとスキル。
人の成長を応援するために、いかに自分が成長していくか。

これは、非常に慣れ親しんだアプローチです。
コーチングについてよく分かる内容。

目に見える成果が生まれ、
「とてもよかった」「また受けたい」と
主宰者も参加者の期待を裏切らない、お役に立てる安全な研修。

「赤野がすごいと言われる研修」です。

2番目は、本当に私が伝えたいこと。
しかし、表面的にはまったく形が見えない。
なので、何も得るものがなかったと感じる方が出るかもしれない。

期待を裏切ってしまうかもしれない、とても、危険な内容。
「否定、批判を覚悟しなくてはいけない研修」です。

3番目は、その中間。

当日まで結論が出ず、
一応、いろいろなワークシートも準備していきました。

はじめるまでは、中間が無難ではないかと考えていました。

当日、セミナーがはじまり、参加者の顔をみた瞬間。

「表面で行くのか、奥の方で行くのか?」
という声が聞こえてきました。

まずは、中間からスタートしてみました。
しかし、何かが違う。

そこから奥の方で何かが動きはじめました。

奥の方とは、「形がない」「課題もない」「よく分からない」という感じ。

ただ、今ここ。この瞬間を扱う。

最初の課題設定いっさいなし。

用意していたテキストは一切使わず。

そして、最後は振り返りもアンケートシートもなし。


まったく手応えを感じないまま、気がつくと、予定より早めに終了。

研修終了後、誰も内容について触れる人おらず。
静かに帰って行かれました。

フィードバックがない状態というのは、正直、拍子抜けでした。

フィードバックとは言い換えれば承認という心の栄養。

これまで承認がエネルギーになってきた私にとって、
承認がないということに戸惑いを感じました。

呼んでくださった方からは、「そんな感じかと思っていました」とクールな一言。

「そんな感じって」一体なに??


ダメだったか。無謀だったか。
全否定されないだけマシか。

そんな声が心にこだましました。


ざわついていた心が徐々に静かになっていくと、
不思議なことに、それ以上感想を聴きたいという気持ちは湧いてきませんでした。


懇親会でも、いっさい研修の内容は出ませんでした。

何か聞かれるよりも、聞かれない方が楽かも……

もう呼ばれないだろうけど、よく頑張ったよ……私。


高揚感などまったく無縁。
手応えのないせつなさとやりきったことがちょっとだけ誇らしく。

帰りの夜行列車で、静かに眠りにつきました。


翌日、主宰者の方からメールが届きました。

「このような心が温かい研修は久しぶりでした。」と書いてありました。

温かったんだ……

心に一輪の花が浮かんできました。

一輪の美しさに涙が出そうになりました。

一輪を感じられる心。
これは、私自身がどこかでずっと求めていたものでした。

それが、目の前に花もない、こんな瞬間に浮かび上がってくるとは…


主宰者の方は、恐らく記事を読んでくださっているので、
こんなことを書いていいのか、ちょっとだけ迷いましたが、書いちゃいます。

以前は正直、彼のことが苦手でした。
なんか論理的すぎて怖い。
つかみ所が無く、何を考えているかよく分からない。

天才的なので、私なんてバカにされているのだろうなと勝手に思っていました。


しかし、今回は彼の存在が、私の温かさを引き出してくれました。
不思議ですね。
自分だけでは出来ない研修でした。

勇気を振り絞り、ものすごく頑張った。
でも、手応えはない。


そう考えると、最近手応えのないことばかりやっている気がします。

手応えのないセッション。
手応えのない対話。
手応えのない講演。

手応えがない状態というのは、言い換えれば無重力の状態。

ちなみに無重力とは、物理的にいうと、何もないということではなく、いろいろな力が釣り合っているとうことだそうです。

一方で、手応えがあるということは、何かが突出している状態でもあります。

手応えを求めるほど、何か大事ことから遠ざかっていくような。

逆に手応えを手放せると、何かが起こってくる気がしています。

手応えがないというのは、悪いのではなく、
私という存在と周りの存在が絶妙のバランスで釣り合っているのではないか。

セッションでいえば、私とクライアントが釣り合ったときに、
話す人、聴く人という関係性が消えていきます。
あなたと私という存在がきえたときに、
大切な気づきが湧いていたりします。

道元さんは「身心脱落」という言葉を使われています。

心と体を分けて考える二元論とは、まったく違うアプローチです。

禅の師匠によると、
坐禅において、いかに「我」という主体から離れるか。

我を捨て、坐禅に、身も心もすべてを投げ入れる。
私たちの「身体」が坐禅をすることで、
「我」が引き起こしている一切の束縛から解き放たれていく。

以前の私は、身と心が一つになるのではないかと考えていました。
しかし、違うのです。
身も心も消えてしまうのです。

坐禅をしていても、まだまだ「身心脱落」までは
いたっていないように思います。
求めるほど、至らないというジレンマ。

しかし、身心脱落は特別なものではなく、
日常生活の中でも起こっているのではないか。
本当はすでにあるのに、気づいていない??

身心脱落の一つの入り口が「手応えがない」ことではないか。

2つという存在が釣り合ったときに、身も心も消える。
そのとき「何かが」起こるのです。
これはグループでも同じな感じがします。

以前は、手応えって大事だと思っていました。

何かをやり遂げた感じですし、達成感でもあります。
それが、周りの人にもいい影響を与えていると信じていました。
しかし、実は自分が手応えを感じるほど、周りの何かが失われていく。

ちなみに重力といかに付き合うかは、坐禅のテーマでもあります。
自分への意識に偏れば、坐っていることが苦しくなります。

重力を感じ、重力に委ねることで自分が消えていきます。
どこかで、重力と自分が釣り合う瞬間がやってくるのです。

ただ、私の場合は、1人の坐禅で感じるのは難しいです。
私にとっては対話の方が、この釣り合っている感覚を味わいやすいです。

個人的に対話を2人坐禅と呼んでいますが、
この話を師匠の老師にしたところ、
「坐禅はいろいろな形があっていい。禅とは工夫ですよ。」と
話してくださいました。

手応えがないというのは、何かと釣り合っていることなのではないか。

みずから何かをしようとするのが「手応え」

みずから何かをすることを手放すと、おのずからという力が顕れてくる。

さらに実験を深めていきたいと思います、


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