言語と影響 ソフィスト 苦悩 仏教

 ソクラテスはソフィストの代表として死刑にされた。プラトンはソクラテスとソフィストの違いを対話として描き、ソクラテスの無念を晴らそうとした。 
 ソフィストというのは弁論術の教師である。民主主義であった古代アテネでは、議論が強いこと=権力であった。だからソフィストに大金を払って、若者は弁論術を学んだ。ソクラテスはこれを批判して、対話というのはレトリックで相手を煙に巻くのではなく、互いの対話を通して真理へ導く「弁証法」であると説いた。
 ここに政治/哲学の断絶がある。言語というのは本質的に政治的なものなのか、もしくは哲学的なものなのか。言語というのはパフォーマンスに過ぎないのか、真理を示すものなのか。ソクラテスには悪いが、僕は言語は政治的なものだと思う。

 言語の本質は「影響」である。他者に影響を与えることが言語の使命だ。もちろん、拳でもナイフでも抱擁でも影響を与えることができるが、言語はその主な手段だ。声色、口調、文体、比喩、などは有効テクニックだ。といっても支配と影響は違う。「何かしらの」影響を与える。

 暴力が禁止され、言論の自由が保障されると、弁が立つことが何よりも重要になる。「貧乏から有名になる」ためには「お笑い芸人」になるか「ラッパー」になるかだ。今は金だけ持っている社長が、影響力を欲しがっているらしい。インフルエンサーになるには、金だけあっても意味がない。
 言語だけで成り上がれる。
 
 「言語」を「影響」という面から見ると、人間の苦悩の本質が見えてくる。
 言語は「可能世界」を開く。「現実=事実ではない世界」の描写が可能になる。「2,000年に地球は破滅した」「ユニコーンは存在する」「無能に生きる価値はない」
 「思考」というのは「脳」という器官から分泌される「言語」である。胃液や胆汁を意識でコントロールすることが不可能なのと同じく、思考をコントロールすることはできない。「それ」が考える。そして、言語は可能世界に羽ばたく。「現実」というのは「今の様子」なのだが、「あの時ああすればよかった」「〇〇になったらどうしよう」「もう自殺するしかない」など、言語が延々と分泌される。これを避ける方法はないので、必然的に人間は苦悩する。言語の影響力を減ずる必要がある。
 「今この瞬間に気づいている」という状態を、根気強く続けていれば、言語の影響力が弱まり、最終的にゼロになる。「明日のプレゼンどうしよう」という言語は分泌されるが、言語から「力」がなくなる。

 人間の苦悩の原因は言語である。外的な言語というのは人間関係、内的な言語はメンタルヘルスの悩みになる。もちろん他者や脳からポジティブな言語の影響を受けることもあるが、ネガティブなことが圧倒的に多い。自己へ対する言語の影響は最小限にするのがベストだと思う。

 逆に、こちらから他者へ影響を与えることもできる。今しているみたいに、インターネットへ文章を書いて、他者に影響を与えることもできるし、対面で影響を与えることもできる。
 当たり前のことのようだが、相当不思議なことだ。「そこの醤油とって」「死ねばいいのに」「愛してる」。言語によって与える影響が全く違う。そして、影響影響と言っているが、僕はなんで言語が他者に影響を与えるのかよく分かっていない。なぜ言語に影響力があるのかも分からない。恐らく「言語の成り立ち」に由来していると思うので、進化心理学の本などを読んでみようと思う。
 「言霊」などの話をするとき、昔の人は言語への特殊な感覚があったと説明されることがあるが、むしろ現代人が言語の「不思議さ」を忘却している気がする。

 自己への言語の影響は、内的なものも外的なものもシャットアウトする。他者への影響はポジティブにするように工夫する。仏教で愛語という。仏教は言語の取り扱いマニュアルだ

 

勉強したいのでお願いします