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⓷死の崇拝の仏教が広まる日本の闇の歴史!!聖徳太子とイエス キリスト〜「和」の精神の闇

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続きです聖徳太子、近代〜現代編。


明治

太子は教科書等で崇峻天皇を殺害した蘇我馬子の一味として扱われ、また廃仏毀釈の影響もあって扱いは低かった。しかし明治後期になると、開国して外国と対峙していた日本は自らのアイデンティティを歴史と文化の中に求めるようになり、そうした心象に応える人物として太子が注目されるようになる。これは『書紀』の再評価と共に、『隋書』に記される「日出処ノ天子」の国書の著者として太子が位置付けられた事に依っていると考えられる。

また、日本文化の軽視に対して警鐘を鳴らしたアーネスト・フェノロサが、明治17年(1884年)(明治19年(1886)という説も)に法隆寺を訪問して高く評価した事も影響した。なお、フェノロサの評価をきっかけに、法隆寺を中核聖徳太子奉賛会が設立され、太子信仰の中心地は四天王寺から法隆寺へと移行してゆく。

聖徳太子奉賛会

聖徳太子一千三百年遠忌を控え、歴史学者の黒板勝美、美術思想家の岡倉天心らが運動の中心となり、久邇宮邦彦親王徳川頼倫渋沢栄一を会の首脳に据えて、1918年(大正7年)に奉賛会が設立。

久邇宮邦彦親王・徳川頼倫・渋沢栄一

1924年(大正13年)には、この運動を恒久的・発展的にした財団法人聖徳太子奉讃会が設立された。聖徳太子奉賛会は、太子顕彰運動・太子研究への助成・法隆寺への支援を行い、1998年(平成10年)まで存続。解散後には収集資料や余財を永青文庫が引き継いでいる。

こうした背景から、学校教育で偉人として「聖徳太子」の称号が定着させられ、高額紙幣の図柄として唐本御影の太子肖像が採用されるなど、太子信仰はナショナリズム(愛国)を高揚するように変化し定着していく。こうした社会で重視されたのが憲法十七条である。憲法十七条は大日本帝国憲法と結びつけられ、日本は東洋唯一の立憲国家として位置づけられた。

さらに「和」の精神は臣民間の和とプロパガンダされ、国民が一丸となって戦争を戦い抜くために強調されるようになっていった。

大祝詞のこころ♪(^_^;)


昭和

戦前の国家主義的な太子観に対する反省も行われたが、今度は「和」の精神が民主主義・平和主義の象徴として勝手な再解釈をされ、太子は平和国家の歴史上偉人として装いを変えて描かれる事となった。その為、戦後にGHQが切手や紙幣に対して行った規制により戦前の偉人肖像が姿を消す中にあっても、太子の肖像は高額紙幣として1984年まで採用され続ける事となる!

裏が気になる

聖徳太子の肖像画が描かれた1,000円札は、昭和25年登場し、昭和40年まで発行。紙幣の材料が途中で変更されたため、前期はクリーム色で後期は白色なのが特徴。現在も使用可能な有効券。


戦後「和」の精神は民主主義・平和主義の象徴として勝手な再解釈をされ・・

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