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聖徳太子はイエス・キリストなのか?その騒ぎの元の【聖德太子傳略】

6340文字
ここに聖徳太子がイエス・キリスト騒ぎの元の「聖德太子傳略」の原文がある。わざと読めないようにしている書き下し文は腹は立つが、単語の区切りが判るので漢文しかない翻訳よりは、大分楽なのだ。とはいえ全部翻訳やっていたら何年もかかるので、やれたところまでで出す。

●聖徳太子、フザけた名前の起源

聖徳太子という名前で呼ばれているが、この名前は太子の死後平安中期になってから付けられたプロパガンダ用のハク付けた芸名で。仏教を広めるイメージキャラクターとして「聖徳」という名称が与えられ、もともと皇太子だったから「太子」がつけられて「聖徳太子」となった。

●生前の呼び名

一)厩戸皇子(うまやどのみこ)
二)上宮王 (うえのみやのおおきみ)
三)豊聰耳命(とよとみのみこと)

聖徳太子が存在しないなどという騒ぎもあるが、稀代な邪悪な大天才の皇太子は存在するそのような本の著者たちは、仏教を広めるためのイメージキャラクターとは知らなかったのか?

芸名だ芸名!ヽ(`Д´)ノプンプン

太子信仰

聖徳太子に対する種々な信仰をさす。聖徳太子の威厳と人徳については早くから伝説化され、各時代、さまざまな形であがめさせた。すでに《日本書紀》のなかに〈一に十人の訴を聞きたまひて〉とか、片岡遊行の説話があり、常人と異なることが記されているが、奈良時代にすでに、聖徳太子を菩薩とみる伝記が出た。その後《聖徳太子伝暦》や《上宮聖徳太子伝補闕記》によって聖徳太子=救世観音とする信仰を定着させた。また平安時代に入ると、浄土教の布教とともに聖徳太子を極楽に往生した往生人の第一人者とする信仰とし流行らせた。

聖徳太子(574〜622)の没後、四天王寺・法隆寺を中心に聖徳太子への信仰を広め、鎌倉仏教においても、法然や親鸞、一遍などが聖徳太子信仰を広めた。鎌倉時代中期以降には、南無仏太子像(二歳像)や孝養太子像(十六歳像)など、太子信仰に基づいて多くの聖徳太子像が造立されたが、その多くは真言律宗の影響下にあった。

実際、聖徳太子のイメージは、キリスト教のイエスのように日本仏教のスター・キャラクターだったわけだね。

⓵天皇・朝廷:死の崇拝宗教の仏教を広める日本の闇の歴史!!三宝の呪いの巻!
⓶天皇・朝廷:仏教の闇の歴史!!聖徳太子とイエスキリストが似ている話はどうなった?(^_^;)
⓷死の崇拝の仏教が広まる日本の闇の歴史!!聖徳太子とイエス キリスト〜「和」の精神の闇


聖徳太子信仰を流行らせるネタのために『聖徳太子伝暦』を作ってみたが、話を盛りすぎて、噂話は山程流すが『聖徳太子伝暦』を読んだらシラケるので出せないのかな?(^_^;)
あと、朝鮮半島の国々との話は本当をもとにしているのかもね?


ーー聖德太子傳略ーー

欽明天皇

欽明天皇

三十代、欽明天皇。諱は天國押開廣庭の天皇。磯城島金刺の宮で世を治めること三十二年。
三十一年の庚寅春二月、第四皇子の橘の豊日の尊、納庶妹間人穴太部の皇女妃とする。
三十二年、辛卯春正月朔甲子夜、妃の夢、有金色の僧の礼儀にかなった姿、はなはだ艶しき妃に対して立つ。これ付いて曰く、我には救世の願あり。願わくば暫く后の腹に宿りたい。
妃は問う、これ誰の為?
僧は曰く、我は救世菩薩なり。家は西の方に在り。妃は曰く、妾の腹は垢と穢なり。何で貴人に宿らん。僧は曰く、我は垢と穢をいとわず。ただ少し人間を望む。妃は曰く、あえて辞退せず。ともかくも従う。僧は歓の色で懐、口に飛び込む。妃は驚き目が覚めて、喉の中は物を呑んだに似ている。

妃、大いに不思議として皇子に言う。皇子は曰く、あなたの誕生は必ず聖人を得る。それ以後、妊娠を知った。妃の妊娠なり、性格がとりわけ聡明、立ち居ふるまいは静かで爽やか、かなめをわきまえ悟る。八月を経て噂を聞く。皇子と妃は大きな神秘をあわせ持つ。


敏達天皇

敏達天皇、上の欽明天皇の第二皇子。リンク

三十一代、敏達天皇。諱(いみな)は涬名倉太玉敷の天皇。欽明天皇の太子なり。橘の豊日の尊の兄磐余譯田の宮に治めること十四年。

元年の壬辰春正月一日、妃は巡業中にいたり、ここ厩(馬屋)の下、不覚あり出産。入胎は正月一日、誕生も正月一日、総経一十二ヶ月。女孺召使いの小女)驚き病を抱えて寝殿に入る。姫も安宿のの中で無事である。 王子は驚いて、侍従たちに宮廷に入るようにと言いました。 突然、西から赤と黄色の光がやってきて、長い間広間を照らしていました。

幄(あく

敏達天皇、まだ東宮に居る。たちまちこの異変を聞き、命をかけて問えば、殿戸が再び照された。大きな異変、天皇大異は群臣に言いました、これはこの世のものとは異なる。

すぐに有司(官吏)に命じて大湯坐若湯坐を定め、沐浴させて抱き上げ、天皇は産着をもってこれを受けて皇后に授けられた。皇后父の皇子に授ける。皇子の妃に授ける。妃は胸を開いてて受けるに、体身はとても太だ香ばしい。三日の夕方、天皇は宴会を開き群臣に賜物を授ける。七日夕方には、皇后が宴会を催し、後宮(ハーレム)に贈り物をした。大臣以下は相次ぎ神前の供え物を養産した。乳母は三人を定めた。あわせて臣(家来)に連なる女を取る。夏の四月後、太子は言葉が話せる。知人を持ち上げ動かし、みだりに声を上げて泣かず。

【本文】


二歳

古代から延々プロパンダの絨毯爆撃をしていた!(^_^;)

二歳。二年の癸巳春の二月《生後生後わずか二月の時期にあり》十五日の夜が明けたころに始めて合掌し、東に向けて南無仏と唱え、しかも二度も礼拝。人は教えていない。あなたの母に常に禁じられ、太子は目をつむって制止に従わない。七歳の後、この状態は永久に止まる。


三歳

三歳。三年目の甲午の春の三月、桃花の明け方、皇子を與妃が率いて太子は後ろ、園において遊ぶ。太子は皇子に抱かれ近しい。皇子は問う、我が子とは何か?桃の花を楽しむみ、松葉を誉めたたえる。太子は答え、松葉を賞める。皇子は問う。何故?太子は答え、桃の花は一時だけ栄える物、松葉は万年の正しい木なり。ゆえこれを賞める。皇子、抱いて頭なで、その身はとても香ばしい。この世の匂いではない。太子は皇子を仰いで言った、御手也に児入し、百丈の岩に登って千尺の波を浮かべる。危険を恐れすぎる。皇子は大笑いした。


四歳

四歳、四年の乙未の春の正月、皇子の第中に幼き王子たち口争いの叫び声があり。皇子はこれ聞いて鞭を持って呼び追いかけ、諸王子らはみな恐れて逃げた。しかるに太子は衣を脱ぎ一人で進む。皇子はこれを問う、兄弟で不和、諸々小さい児童ら常に口合戦。今、で教えようとしても皆隠れる事を知っている。

中国語:笞→日本語:鞭

しかるに汝、何故一人で進む?太子は合掌し答え、皇子あわせて妃にも頭を下げて教え曰く、天に立ってはならず、そして上る。地面に穴を掘って、隠れてはならない。ゆえ自ら進み鞭を受ける。皇子ならびに妃は大喜びで言う、汝のしっかりして立派な様は今日だけではない。妃は心を開きそして抱き、その身はあまりにも香しい。とてもいい香り。妃は最も寵愛している。《ある説では、太子を抱くと、数ヶ月の懐の香り。ゆえ後ち宮(ハーレム)は争って抱こうとし、および妃もまた抱擁した。》

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