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悟りを開いて安心の境地を目指したい人に読んで欲しい記事【十牛図: 入鄽垂手】

※ワードプレスからの引っ越し記事です。

みなさん、こんにちは。

タカミチです。

先日の記事「悟りとは何ぞや?」という事について後日書きます、と宣言しましたので書きます笑。

私の現在までの体験と、得てきた知識を元にしていますので、現時点での「悟る」という事への考え方であり、今後成長していくにつれて、新しい気づきが生まれてくると思います。

そうした悟りを得た時に、「これは伝えておきたい!」と感じましたら、このカテゴリに投稿すると思います。

毎回意識している事ですが、今回も極力硬くなり過ぎないように、分かりやすい言葉で、文章が長くなり過ぎないようにコンパクトにまとめたつもりです。

みなさんの、人生と照らし合わせて、気づきと出来る部分がありましたら、嬉しく思います。

ちなみに、画像の猫はうちの愛猫で、めいタマシッダールタのモデルとなった「めい」です笑。

悟りを開くとは?

「悟りを開く」と聞くと、仏門の修行僧を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?

霊験あらたかな山に籠り、断食や滝行などをするイメージですね。

しかし、私たちは普段の生活の中で、大小さまざまな悟りを開いています。

例えば、、

  • 「人のために動く、働く意識が芽生えた」

  • 「親心が分かり、心から親孝行が出来るようになった」

  • 「お金や物への執着が無くなり、現状の有り難さに気づいた」

  • 「自分勝手な考え方を改めて、人の事を第一に考えられるようになった」

  • 「自分は、今の自分でいいのだと受け入れられた」

などなど、人によって悟る内容はさまざまですが

「あぁ、そうか!」と目から鱗が落ちるような感動をする体験により

それによって明らかに人生が次のステージに上がった感覚があれば、それは悟りだと思います。

勉強やスポーツでも、悟る瞬間というのは沢山あるでしょう。

「悟りを開く」とは、山に籠って厳しい修行に明け暮れ、神秘的な邂逅体験をする事や、俗世の一切に見切りをつける必要はないのです。

むしろ、社会生活を普通に営む中にこそ、真の悟りの境地は存在しています。

悟りを開く目的とは?

悟りを開く事は、仏教の修行僧に限った事ではなく、私たちが普段の生活において、人生のステージが上がるような体験の事を指すのだと前項で説明しました。

向上心を常に持つ限り、人生で何回も、何十回も悟りを開く事でしょう。

そして一方では、人生は浮き沈みの連続のため、せっかく開いた悟りが、目の前のストレスのせいで見えなくなり

体現出来なくなる事で、後退してしまう事も往々にしてあります。

そして、やがて生活が安定してストレスが和らげば、「悟り直し」をする事もあるでしょう。

この悟りの繰り返しにより、少しずつ悟りの幅や深度を深めていき、人生をより生きやすく、幸せを感じられるようになっていきます。

つまり、「悟りを開く」という事は、言い換えると「真の幸せのカタチに気づく事」とも言えるでしょう。

ただ、ここで最大限に注意しないといけない事は、「真の幸せのカタチ」の本質を見誤ってはいけないという事です。

「真の幸せのカタチ」とは?

あなたにとって、幸せとは何ですか?

こう聞かれると、多くの人は

  • 「お金持ちになる事」

  • 「美人(イケメン)と結婚する事」

  • 「働かずに遊んで暮らす事」

など思い浮かべるかも知れません。

ここまで即物的ではなくても

  • 「子沢山に恵まれて、楽しい家庭を築きたい」

  • 「普通に結婚して、普通に生活出来ればそれでいい」

  • 「独りでも、安定して仕事があればいい」

など、堅実な生活さえあれば、多くは望まない、という人も沢山いるでしょう。

こうした人は、それなりに悟りを開いてきたのかも知れません。

では、「真の幸せのカタチ」とは?

という問いに対して、これらは条件を満たしているのでしょうか?

もちろん満たしている部分もありますが、満たしていない部分を洗い出す、ひとつの問いがあります。

それは

「あなたは、あらゆる事を受け入れ、いつも心から安心していますか?」

これに対する、あなたの答えはどうでしょうか?

あらゆる事、の中には、自分や家族、大切な恋人や友達などが、病気をしたり、死ぬ事も含みます。

こうした事態に直面した時に、心から絶望して自分を見失い、自暴自棄になってしまっては、本当の心の安心は得ていない事になります。

つまり、悟りを開く余地が、まだまだあるという事が言えます。

仮に自分は置いておいても、最愛の伴侶や子供、親などが亡くなった時に、絶望しない訳がない、と反発したいかも知れません。

これは、その通りです。

深く慟哭するような悲しみに包まれる事、それ自体は問題が無いのです。

悲しい時は、深く悲しんで感情を吐き出し、昇華(消化)させなければ、次第に心が耐えられなくなり、精神病になるかも知れません。

悟りの積み重ねにより、心の境涯が上がると、「自分の心を守りながら悲しむ」という、意識の在り方が可能になるのです。

この意識が常にあるのなら、それは安心の境地にあると言えるでしょう。

悟りを開くというのは、感情を失うという事でも、無関心になるという事でもありません。

むしろ、悟りを開くほど感情豊かになり、あらゆることに関心が強くなっていくでしょう。

悟りの本質とは

「人間社会で生きる中で、どのような境遇、どのような場所でも、自分らしく安心して過ごせるか」

というところに尽きると感じます。

なので、人の居ない山奥で修行するよりも

社会で多くの人に揉まれる中で、如何に心の安心を持てるか、というところに、悟りを開くための本当の修行があるのです。

中国北宋時代の臨済宗楊岐派の禅僧である廓庵(かくあん)が記した、悟りの段階を10段階で表した「十牛図」にも

10段目の「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」では、悟りの最終段階に達した布袋さんのような禅僧が、ボロボロの袈裟を着て、笑顔で町に下山して来る様子が描かれています。

「真の悟りとは、ただ在るがままで良かった」「当たり前の日常の中にこそあった」と、9段階目の「返本還源(へんぽんげんげん)」で気づき、町に降りてきて、人々と笑顔で交流し、悟りから得た人生に大切な教訓を人々に教え助けるのです。

これは、「人のために動く・働く事こそが、真の悟りである」という事を示しているのです。

「十牛図」については、また後日詳しく取り上げてみたいと思います。

まとめ:「人を愛し、助け、心が安心している状態」、、それが悟りの終着点

これまでの事をまとめると、悟りとは

「自他が死ぬ事を含めて、あらゆる事に心の準備をする為の学び」

そして、そうした事が出来てくると、、

「いつも人に優しく、思いやりを持って接する事が出来、常に心が安心している状態になる」

こうした事が言えるでしょう。

悟りを求める事は完全に任意ですので、悟りが必要がないと思えば、自由に生きればいいのです。

でも、「勝ち組」の価値観主体の社会が形成されてしまった中で、生きづらさを感じる人が増え

それを示すかのように自殺者数は増加の一途を辿ってきました。

便利になった一方で、こんなに生きづらい時代は、これまでに無かったのかも知れません。

今ほど、悟りが必要な時代は無いと言ったら、言い過ぎでしょうか?

「勝ち組」の価値観に疲れてしまった時は、以下の記事を併せてお読みください。

みなさんの心の中に、常に太陽が在る事を祈りつつ。。

お読みいただき、ありがとうございます。

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