『リハビリの夜』を読んで

 現役の小児科医であり、脳性麻痺の当事者でもある熊谷晋一郎先生の著書。この本の読書会に参加することとなり、事前に自分の考えをまとめておきたかったので、夜も遅いですがつらつら書いていきたいと思います。

『リハビリの夜』を読むまで

 きっかけは運営メンバーとして関わっている療法士の当事者研究でのイベント。作業療法士であり『障害受容再考』の著者でもある田島明子先生が講演で紹介されていたのをきっかけに、わたしはこの本と出会いました。

 以下、講演会リポートより抜粋です。

「リハビリの夜」っていう熊谷晋一郎先生が書かれた本で、リハビリに当事者研究が大きく影響を与えた本としては、この本は存在が大きいなと思っています。この本の中で、身体にとっての物の意味ということを書かれていて、この物って言うのはトイレの便器なんですね。トレイナーという存在が自分に対して働きかけて、正常な身体機能を獲得させようとするけど、それでは全然一向自分の身体能力は上がらなかったけども、トイレの便座と自分の関係性というか、交渉していくなかで、自分の動き、正常の動きではなくて「私の動き」を発見できた、というのです。なので、自分は物との交渉から私の動きを立ち上げたいと書いてあって、これは色んな意味で衝撃でした。
この熊谷先生のお話は、客観性と主観性の往来、その真ん中あたりに位置しているという印象を持っています。「私の動き」は私にしかわからないと思うので、それはまさに「当事者知」ではないかと思うんですね。でも、客観的に判断すると例えば、トイレ動作の努力性とか効率性とかそういう話でセラピストがジャッジする。で、主観性だと「私トイレは楽に使えてます」とそういう話になると思うんですよね。

 うーん、なんだかよくわからないけど、この本は「脳性麻痺の当事者である熊谷先生が、自分の身体を通してこれまで経験したこととか生きてきたこと」とかが書いてあるのか!うん、いっちょ読んでみるか!!
 と、いうなんとも簡素な動機で手を出すこととなりました。Amazonで注文して数日で到着、Kindleに慣れたから紙の本を持ち歩くのは大変だなぁと思いつつも、わたしは『リハビリの夜』を読み始めました。

最初の衝撃、心臓を貫かれるような感覚

 わたしは訪問看護ステーションに勤務する理学療法士です。リハビリテーションを必要とする方の自宅まで伺い、その方が生活する上での困りごとを解決すべく、一緒に運動をしたり歩く練習をしたりしています。対象となる方の多くは高齢者ですが、一部には小学生や未就学児のお子さんもいらっしゃいます。彼ら彼女らの多くは発達になんらかの問題があり、運動の機能が同年齢の子ども達と比べて低下していたり、コミュニケーションが上手くとれないといった問題を抱えています。
 そういう方が、可能な限り安楽に、そして健やかにお家で生活できるよう、サポートしていく、本書に度々登場するトレイニーと同じような仕事です。

 幼少期の熊谷先生のお話は、わたしが普段の仕事で関わっているお子さん達を彷彿とさせました。トレイナーがトレイニーの腕を伸ばすことで、緊張がほどかれる感覚、「主体」から「従属」へと移りゆく関係、「健常者の動き」に近づけることばかりを優先させるトレイナーや大人たち…

 印象的なのはリハビリキャンプへ行くまでの憂鬱な道のりの描写です。それは保護者や周りの大人たちが良かれと思って作り出している“リハビリの場”が、当事者である熊谷先生にとって決してポジティブなものでないことを語るのに十分でした。リハビリは嫌なものなのでしょうか?
 明確に記載はされていませんが、リハビリキャンプを幼少期に自分が嫌いだったもの(マラソンとか、歴史のテストとか苦手なもの)に重ねて読むと、その陰鬱さがありありと蘇ってきて、なんだか切ない気持ちになります。

 もちろんわたし達の仕事が、支援が、全ての人に受け入れられて当然だとは思っていません。リハビリテーションの主体は当事者。その先に据える未来が良いものかどうかもわからないのに、現状を変えようと自ら必死で努力することが正解であるかさえもわかりません。

 特に相手が自分よりも若年齢、はたまた物言わぬ誰かで会ったとき、家族や医師から依頼を受けて関わるようになったわたし達を、当事者である彼ら彼女らが真に受け入れているかどうかなど、わかり得ないことがほとんどなのです。それが『リハビリの夜』ではわかってしまう、そして案の定、トレイナーが良かれと思ってしていた支援は、底の浅さを見透かされ当事者にとって“嫌なもの”として記憶に残ってしまっているのです。

 すごく辛かったのは、キャンプファイヤーのエピソードと、浴室でのエピソードでした。「これ、わたしなのかな?」多かれ少なかれ、わたし自身の姿も彼ら彼女らの目には浅はかな女性トレイナーとして認識されているのではないか、と恐怖さえ感じました。他意のない関わり一つをとっても、相手がどう思うかはわからない。それは健常者であれ障害者であれ変わりないことではありますが、だからと言ってこれまでのわたしの振る舞い全てがどうであったか、教えてくれる人はいないのです。

まなざし/まなざされる関係、加害/被害関係

 本書では、トレイナーとトレイニーの関係をいくつか分類・整理しています。すでに本書を読み終えた方ならお分かりかと思いますが、これらは一言では説明できません。
 ただ、一つだけ希望的な手がかりとなった部分があったので、わたし自身で整理すべく書いてみます。

 脳性麻痺に限った話ではありませんが、神経系の疾患を持った方の運動は本人が意図せずとも、正常な動き方逸脱します。そこにわたし達セラピスト(本の中ではトレイナー)は、「しっかり伸ばして」とか「胸を張って」とか、無理難題を押し付けます。熊谷先生が記した関係性を読むと、これらの関わりがいかに理不尽なものかすごくよくわかります。泣けます。泣いちゃいます。

 ただ、一つだけ発見というか今までなかった思考であったのが、トレイニーである彼らもトレイナーの身体をコントロールしているという視点。伸ばされた腕に力を込めて、伸ばそうとするトレイナーの力を強めるなど、その視点は初めて巡り合ったものでした。

 あれをしてこれをして、と言っていなくてもわたしの身体に掴まって立ち上がろうとするお子さんがいらっしゃいます。その子にとって、わたしは「立つ」という手続きに必要なスイッチであり、わたしの存在を利用してその子は「立つ」ことを経験しているのかな。「私の指示に従え」と自発的に立つことを強制する関係でありながらも、それでも何も言わずともわたしに掴まって立ち上がるあの瞬間だけは、少しは心地いい存在になれているのかな、と希望を抱いてしまいました。

官能という表現

 熊谷先生の著書が、違う身体を持っているわたし達にとっても面白いのはなぜか?明確な答えになるかは不明ですが、身体が解ける・緊張する感覚を“官能”と表現しているのは、その理由の一つになり得るでしょう。

 脳性麻痺という特徴を持っていないわたし達も、誰しもが経験したことのある官能的な感覚。おそらくそれは、熊谷先生が真に体験しているそれとは異なるのかもしれませんが、でもね、考えてみたら自分以外の人がどう感じてどう考えているかなんて、100%寸分違わず一致するなんて無理なお話です。

 これは多分、語彙力とか表現力とかのお話になると思うのですが、熊谷先生の伝える力の素晴らしさなのではないかな、と思います。そして中途半端には終わらせない思考力。AVを見て男優に感情移入するか女優の目線になるか、はたまたマゾヒズムの話にまで発展するなんて、これはもうお見事でしかないと思うのです。

 むしろこれをきっかけに、「じゃあわたしにとっての“官能”ってなんだろう?」と考えるきっかけとなりました(恥ずかしながら答えはまだ出てません)。

トイレがあればよかったのかな?

 後半の大人時代の章。一人暮らしを始めた熊谷先生が、「トイレに座る」という経験を通して自分の身体の構造を発見するお話が描かれています。

 田島先生の講演でもありましたが、熊谷先生が主体的に見つけたトイレとの関係性を、通常トレイナーの立場のわたし達は「客観的」に評価をして、ああでもないこうでもないと、いつの間にか当事者から主体性を奪います。

 これもまた、悲しい話だなぁと。「モノは私を強制しない」と、著書には堂々と書かれています。

 今までのトレイナー達の浅はかな関わりは、熊谷先生の人生にとって蛇足だったのだろうか。いつの間にか、そんな気持ちになっていました。

 蛇足であったにしろなかったにしろ、その当時や今この瞬間の彼の生活が彼にとって良いものであるのなら、それで問題ないではないかと、わたしの中の客観的なわたしは笑います。ああそうか、そうかもしれないな、でも、じゃあこれから長い人生を歩いていく子どもの利用者さん達に、わたしはどうやって関わっていったらいいのだろう。その答えは誰も教えてはくれません。

 トイレがあれば、もっと早くこの経験があれば、トレイナーはいらなかったのでしょうか?

 本当はいらないのでしょうか?無駄があるのでしょうか?その無駄はあっていいものなのでしょうか?なかったらどうなっていたのでしょうか?

 重く硬い鈍器のようなもので、思い切り頭を叩かれた感覚がします。「あれ、わたしって、本当は要らない仕事をしていたのかな?」ネガティブな思考に陥りやすい性質なので、こういう面倒な元カノみたいなことを言えと言われればいくらでも言うことができてしまいます。ああ、めんどくさい。

 表現上、用いたネガティブな言葉達をそのまま正面から受け取って、失望したり絶望したりしているだけなのかもしれないけど、この辺は読み終えて時間が経った今もしっかりとわたしの中に引っかかっています。

 きっと聖人君子のようなセラピストの方々なら、「じゃあ僕たち私たちが発達を阻害しないように、本人が不快にならないように、動作を分析して徒手で関わって環境を調整して、頑張ろう!!」みたいに、すごく綺麗に健やかにまとめてくださるのでしょうが、言うてわたしもそこまで経験があるわけではないし、なんならアッパラパーの部類に入る方だから難しいこと言われると思考が停止しちゃうし、そもそも根暗だからこの衝撃にはまあまあ耐えきれてないのよ、やれやれ。なんてすごく残念な理学療法士になってしまったわけなんだけど、そこで一つだけ見えてくるものがあるのです。

 ああ、わたしも人間なんだな、って。

 わたしという根暗で残念でへっぽこな理学療法士は特にですが、「健常な心の人間」になるべくいつの間にか訓練されているのだな、って。別に自分で望んだわけではないけど、置かれた環境や出会った人々なんかに影響されて、「健常」とか「清く正しい」とか、なんとなく聞こえの良いものになろうなろうとしてしまう。これって実は、ものすごく“人間ぽいこと”なんじゃないのかな、と思ったのです。

 ここが動かないとか、体調が悪いとか、目に見える生きづらさを抱えているわけではないけれど、わたし自身も実は何かの“当事者”なんだと思うんです。

 だから、少し強引かもしれないけど、熊谷先生の身体や人生を知ることで、実は自分の心の中にそれを取り込んで、心の動き方を知ってしまいました。

当事者研究に戻ってきた(まとめ)

 田島先生は、『リハビリの夜』はリハビリに影響を与えた当事者研究と仰いました。読み終えて、もう一度読み直して、こうして文章にしてみると、今度は当事者研究について語りたくなってしまうのだけど、それはちょっと話が逸れすぎてしまうので、別の機会にいたします。

 誰かの経験が自分の心の中に入り込んで、今まで見えてこなかった視点から物事を捉えたり、はたまた新しいことに気づかされたりと、いつの間にかわたしの心が解きほぐされるような感覚を味わいました。そうして他者の手を借りて心地よく気持ちを整理してみても、でもしり切れとんぼで思考が切断されてしまったり、手がかりを見失ったりして、「あれ、これってひょっとしてまなざし/まなざされる関係なのかな?」と思うこともあって、ああ熊谷先生が分類したあの関係は、トレイナーとトレイニー以外にも当てはめられるものなのかな、とも思ったりします。

 兎にも角にも、今回わたしは医学書院の読書会に運良く当選してしまい、『リハビリの夜』について東畑開人先生をはじめ、初対面の皆さまとオンラインで語り合うこととなったため、自分の思考の整理のためにもつらつら書いてしまいました。

 読みにくいし、そもそも著書を読んでいないとなんのこっちゃわからないことがほとんどなので、もしも、もーしも最後まで読んでくださる方がいらしたら心からお礼を言わせてください。ありがとうございました。


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