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壁とか卵とか、一滴の雨水とか    

 村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』を読んだ。

 別にわたしは村上春樹が好きなわけではない。むしろあまり良い印象を持っていない。山崎ナオコーラ著、『人のセックスを笑うな』の解説に「ナオコという名前には幸福そうなイメージがない」といったようなことが書かれている。なぜならナオコという名前の登場人物はどの作品でも不幸な最期を遂げていて、『ノルウェイの森』の直子も精神を病んで自殺した、みたいな理由だったと思う。

 おい、わたしは生まれてから32年間、“なおこ”だ。確かに思うところはある。ナオコという名前の美人を見た試しがないし、小説でも映画でも出てくるナオコは全て病弱だったり家族関係に問題を抱えていたり、どことなく辛そうだ。わかってる、32年も“なおこ”をやっているわたしはとうに気づいている。

 でも、愛しい家族が大切に呼び、育ててくれたわたしの大切な名前に、勝手に薄幸のイメージをつけた張本人のような気がして、村上春樹はあまり好きではない。

 好きではなかったのに、とあるきっかけでわたしは彼の本を読み漁るようになった。エルサレム賞を受賞した彼がイスラエルで行なったスピーチも読み込んだ。このスピーチは、縁あって参加した研究会で講師の先生が紹介したものだった。

「高く、堅い壁と、それに当たって砕ける卵があれば、私は常に卵の側に立つ」

 システマティックな世界という壁の前で、わたし達は皆誰もが、多かれ少なかれ卵だという。村上春樹という人物は、卵の殻にある魂を外側に持ってきて光を当て、小説を書くことでそれぞれの魂の唯一性を明確にしようとしているという。

 壁と卵のスピーチの中で、彼は父親についても語っている。
 元教師で、非正規の仏教の僧侶でもあった父親は、毎朝仏壇の前で手を合わせ、戦争で死んだ全ての人のために祈っていた。村上春樹は父親の周りに潜んでいた霊気を記憶していて、それは自分が父親から受け継いだ唯一のものであり、またもっとも重要なものだという。

 誰もみな、個人なのだ。そして個人とは、点ではなく線なのだ。誰かと誰かが愛し合って誕生し、産み落とされ、育てられたり育ったりしながら紡がれた、線としての個人なのだ。

 『猫を棄てる』も、結局これに尽きるのではないかと思う。

 本書において、“卵”という言葉は“一滴の雨水”に置き換えられた。一滴の雨水は、“広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴”に過ぎない。しかし、一滴の雨水には、雨水なりの思いがあり、歴史がある。それを受け継いていく、責務がある。

 雨水はどこかにあっさりと吸い込まれ、個体としての輪郭を失い、集合的な何かに置き換えられていく。置き換えられていくからこそ、“歴史を受け継いていく”責務を忘れてはならない。村上春樹は、父親の半生を辿りながらこの考えにたどり着いている。否、たどり着いたのではなく、思い返しているような印象を受ける。

 個としての人間を守るためには、種としての人間を守らなければならない。しかし、守る過程において失われた人間もまた、個としての人間なのだ。そうやって失われた一つ一つの魂に思いを馳せながら、父親は毎朝手を合わせ、そしてそれは息子である村上春樹に“小説”という形で受け継がれたのではないか、と思う。

 そう考えると、直子も“一滴の雨水”なのだろう。直子だけじゃない。緑とか、あとはまあ、ぶっちゃけた話、言うほど村上春樹の作品を読んだわけではないので他の小説の他の登場人物の名前がこれ以上、出てこないわけなんだけど、多かれ少なかれ人生とはそうい価値のないものでできているのではないかと思う。関係ないけど、降りることは上がることよりずっと難しいのだ。

 兎にも角にも、『猫を棄てる』を読んでよかった。こんな時代の、こんな世の中で、耳慣れないウイルスに右往左往されながら生きているわたし達人間は、それぞれが独立した魂を持っている。そしてそれはまた、昨日今日に突然降って湧いたものではなくて、それぞれがそれぞれのルーツから紡がれた歴史を持っている。そんな大切なことを胸に刻めたのは、たぶん尊いことなのだ。



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