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父とろくに話をしなかった

反抗期は中学位から始まっただろうか 元々
押さえつけられてばかりでろくに会話にならな
かった というより むしろ会話になるのを嫌って
いたのかもしれない父と きっぱり口をきかなく
なって それから父が死ぬまで父とろくに話を
しなかった 大人になって 互いの苦労がわか
って たとえば酒を酌み交わしながらしみじみと
語り合う そんな機会などついぞ訪れなかった
おそらく互いにそのような機会など欲してなく
厳しくても滲み出る愛情のような物を父に感じる
ことはなかった そのせいなのか それとも生ま
れついてのものなのか どことなく 肝心なとこ
ろでことに冷たいところがあるらしい 自分の
なかでは人との接し方で どこが具体的に冷たい
と相手から思われるのか 今一つぼやけている
のでそういわれて初めて気が付く そのくせ
一方的に他人を狂おしく欲することもよくあった
今は少し達観したのか 今の環境に満足なのか
それほど他人を求めなくなった

父について知らないことが多い 例えば 父が
どのような若年時を送ったのか どんな成績で
どのような評価を人から受けていたのか など
機会もしなかったし聞いてもまともに答えが返っ
てきたとは思えない 何を聞いても まともに答
えが帰ってきた記憶がない 父の兄は何人か
いて 母の話によると学校の先生をしていた人
がいたらしい 父のすぐ上の兄は兵隊に行って
といって自分が出た中学で暗号解読をしていた
という事だったから北方や南方に行ったわけ
ではない 母の話では どうも近辺では優秀な
子供らと思われていたようで当時としては田舎で
受ける者のない教育をいずれも受けていたよう
うなので あながち嘘でもないかもしれないと
思う

父の学歴について 母は遠くの農業学校に通っ
ていた と話していたが 具体的な校名やその
証明になるようなものなど見たことも聞いたこと
もなかったので なんとなく疑わしく思っていた
調べると それらしい学校は現存していて その
学校の歴史から父がそこに通っていたとしても
矛盾は生じないことが読み取れた 父は戦争に
ぎりぎりいかずに済んだ年回りだったが 戦争に
取られたのは何年生まれまでだったのか調べ
てみたら 1930年生まれまでは戦争に取られ
た というより参加できた と言った方が当時風
になるのか 父は1929年生まれだから少年兵
になることはできた 志願により15歳から兵に
なれる と考えると 学校に通っていたから志願
しなかったのか それとも戦争へ行くのが嫌だった
のか いや 当時の同調圧力に想像を馳せるに
志願せざるを得ない空気が田舎にはあったと思
われるので 学校に行っているから志願しなくて
よかった と考えて自然で矛盾がない

今更そんなことを徒然に思って 私の人生が
劇的に変わることなどありえない そもそも 劇
的に人生がこれから好転するとも思えない 悪
転することはありそうだれけれど それを思うと
病むので思わないようにしている まともに話せ
る ナイスガイな父を持ったならば 何かが少し
ずつ違って全く別の人生があったのか 持って
生まれた性質と環境と どちらが人間形成に
重要なのか 結局そんなの分かるわけない
それが還暦近くまで生きての現状での結論と
して私にある 毒親とか ACとか なんとなくそ
うなのかと思う事もあるがもっと厳しい成育環境
だった人の談を目にすることが増えて それに
比べれば随分軽い抑圧だったかとは思うが
抑圧は抑圧で 物事の道理としては押されると
潰れる または歪んだりするのは段ボールから
分かることだ 私としては その持ち前の芯の
冷たさもあってか 何かを押し付けることを教育
においては意識的に極力避けた 親はなくても
こは育つ よくしたもので一人は障害があっても
人から愛されながらなんとか職場でやれている
ようで もう一人は学生なので本当の勝負は
これからだ 結局私の今の暮らしは父が想像も
つかない 許しがたいものかもしれない それで
も今のところこの態度を改めるつもりはない こう
あるべき みたいなものを叩きこまれたから そ
れからの逸脱にある種人生賭けている節がある

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