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悔しい思いを味わい尽くし、『わたし軍団』を体感する-ゲシュタルト療法体験-

悔しい思いを味わい尽くし、『わたし軍団』を体感する-ゲシュタルト療法体験-

昨日。心理学の授業の中で、実際に療法を体験してみることになり、「再決断療法」を体験した。これは交流分析という概念を用いて、「エンプティチェア」とも言われるゲシュタルト療法を使いながら進める。基本的にゲシュタルト療法も含め、これらは取り扱いが難しいので実際に用いる事は滅多にない。でもだからこそ、せっかくの機会なので、体験してみる事にした。

概要をすごくざっくり説明すると、これは漫画でよくある自分の心の中の天使と悪魔と自分とで会議を開くのを実際に一人芝居でやってみる感じ。

説明するとめっちゃ胡散臭いんだけど、実際やってみると、衝撃的で感動的な体験だった。

登場するのは天使と悪魔ではなく、誰しもの中に多かれ少なかれ存在している、P・A・Cに分類される、3つの自分。これは、交流分析という心理学の手法でよく出てくる概念。今回は、これら3つの自分に加えて過去に体験した心残りの場面に同席していた人物達も登場する。

三つの自分とはP(親的な自分。「〜べき」と言いがちな父親的な目線の自分や、包み込むような母親的な目線の自分。)、A(合理的な大人の自分)、C(自分の感じている事に忠実な子どもの自分)のこと。

空の椅子を幾つも用意して、心の中に引っかかっている場面を再現する。その場面にいた登場人物とP・A・C、それぞれの、「私」。心残りの場面に同席していた相手に、言葉を投げかけたり、そういう相手やP・A・Cそれぞれの椅子に座り換えながら、「私はこう変わります」との宣言に基づきそれぞれの立場から声をかけ多角的に心残りの場面を追体験する。

という事で、私は社会に適応するため、特に保守的な人を相手にする時、怖いと感じさせてしまいがちで持て余している自分の「気づく力」や「言語化する力」をどう生かしていけば良いのか?という悩みをを解消したくて、以前勤めていた会社の場面を追体験する場面としてやってみる事にした。

実際にセッションを行っている中、ある気づきがあった。それはCの私が話しながら、私が無意識のうちに足のつま先をタン!タン!と踏み鳴らしていること。

「女である以上、常に下っ端。下っ端である以上、会社である以上、上下関係があり、平等ではない。そして苦手な相手から逃れ続ける事は出来ない。下っ端が我慢し折れ続けるのが当たり前だと考える人も多い。

例え自分が後輩にそういう接し方をしないにしても、そういう価値観の人は世の中に一定数いる。だから私は、自分の信念がどうであれ、常に折れ続ける事からは逃げられない。働くとはそういう事なのだ。」

「話し合いに慣れていない人にとって、話し合いの場を持とうとしたり、想いや考えを言葉にする私は生意気で暴力的に見え、怖く感じる。

だから、話し合いに慣れていない、一方的に支配するという上下関係を常識として生きてきた人の価値観を尊重し、私が黙って言いなりになるのも大人としてのあるべき姿なのだ」と言うPの私。

それに対して「なんで私が折れ続けないといけないのか。」「なぜ、自分の可能性を押し殺さなければならないのか」というCの私。その時Cの私は言葉に合わせて足をタン!タン!と何度もつま先で地面を踏みつけていた。

無意識の足の動きに込められた怒り。もし今回の療法体験の機会が無ければ、私は押し殺した怒りの存在に気づかないまま、そして、怒りが成仏しないまま私は無理して適応しようと努力し続けていたと思う。

そんなCに対して「よく頑張ったよね」「悔しかったよね」「理不尽だよね」と言葉をかける。すると思いがけず、目の中に涙が溜まっていくのを感じた。

そうか。
私はその言葉を求めていたのか。

『悔しい思いを味わい尽くす。』

『強くなくても良い。』

「支配するという方法でしか他人と関わることができない相手をいかにして受容するか」という退職以来ずっと悩み続けてきた課題。

支配する事以外の関わり方を知らない相手をなかなか受容出来ない自分に対し、私はずっと大人げないと思い、自分を不甲斐なく感じては責め続けてきた。

そしてそういう前時代的な相手さえも受容できる包容力と強さがないと、今のオッサン優位な日本社会では生きていけないと、自分の中に過剰な包容力を求め続けてきた気がした。

そしてその強さを身につけるまでの道のりを、まるで試合に向かうボクサーの様な孤独な戦いと捉えていた。

でも、この療法の終盤、私は自分の左右にある、P(親である私)とC(子どもの自分の)の椅子の座面を「一緒に頑張っていこうね」という思いを込めて、無意識のうちにトントントンと、優しく叩いていた。

体験してみて感じた事は、療法に没入する中で、次第に誰も座ってない空の椅子の一つ一つに、それぞれの登場人物を見た気がしたこと。

元々は孤独なボクサーに例えて捉えていた自分自身のイメージが、療法の終盤には「P・A・Cが集まった『わたし軍団』」に変わり、なぜかとても心強く、そして深い安心感を得た気がした。

空の椅子なのに、本当に不思議。エンプティチェアとも呼ばれるゲシュタルト療法の奥深さを体感した一日だった。

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