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宮崎駿の罪と罰ー虚構・新生・神話ー

序論 宮崎駿、あるいは作家の業
 2023年7月、宮崎駿の新作長編アニメーション映画『君たちはどう生きるか』が公開された。宮崎駿の作家人生を振り返ってみると、彼ほど作家としての業にまみれた人物も珍しい。彼は全身全霊で作品を作り上げ、燃え尽き、引退を宣言するが、再び創作意欲に突き動かされ、引退を撤回してまた新たな作品に取り組み続けた。彼は死ぬまで作品を作ることをやめないであろう。
 前作『風立ちぬ』は、鈴木敏夫の入れ知恵とも言われている。宮崎駿は飛行機が大好きだ。しかし戦争は嫌いだ。そんな宮崎駿に零戦を描かせたら、彼はきっと苦しむ。彼が苦しんで描けば良い作品が出来上がる。非常に悪魔的な発想ではあるが、鈴木敏夫の言わんとしていることはあながち間違ってはいない。作者が己の矛盾や葛藤と対峙すればするほど、作品の深みは増していくものである。最も好きなものが、同時に最も嫌悪するものである。顔を顰めたくなるのに、どこかそれに高揚する自分がいる。最も避けたいものが、同時に最も求めているものである。そうした矛盾と葛藤をひとつの作品の昇華させたのが、前作『風立ちぬ』であった。
 鈴木敏夫の思惑通り、前作『風立ちぬ』は彼の作家人生の総決算とも言える作品に仕上がった。堀越二郎の人生を自分自身と重ね合わせながら、まるで懺悔録のように、作り手の劫罰を見事に描き切った。彼は引退を宣言した。誰もがこれが本当の引退だと思った。それほどの作品だった。しかし数年が経過し、彼は飽き足らず再び筆を取った。もはや彼に何が残されているのか。何が彼を突き動かしたのか。クレジットを「宮﨑駿(崎→﨑)」に変更してまで、彼は新たに何を描こうとしたのか。

主人公の眞人。雲隠れしたナツコを探すため、アオサギの誘いに乗って塔の世界を旅する。

第1章 予備的考察ー「プロフェッショナル」における語りと沈黙ー
 2023年12月、NHKの番組「プロフェッショナル」において、宮﨑駿の特集が放送された。これは新作『君たちはどう生きるか』の制作秘話的な内容であり、放送直後からネット上で大反響を呼んだ。放送内容は高畑勲との愛憎入り混じる関係に焦点を当てながら、「創作に没頭する天才の苦悩と孤独と狂気」という切り口で、宮﨑駿をヒロイックに描き出していた。あまりのドラマティックな内容に、この番組自体が鈴木敏夫の演出であるとも指摘されている。そうでなくとも、宮崎駿がメディアの前に本音の全てを曝け出すとは思い難いし、何より、作者というものは往々にして自分が何を描こうとしているのか自分でも判然としていないものである。
 こうした批判には本稿も概ね同意するところであるが、同時に新たな発見もあった。それは、作中に登場する大叔父は、高畑勲の死後に創作されたということである。この事実から、本作の物語は二層の構造から成立していると理解することが出来る。すなわち、「高畑勲の生前に構想されていた層」と「高畑勲の死後に構想された層」が織り重なる形でひとつの作品に練り上げられたという事実であり、これは言い換えると、「番組内で語られなかった部分」と「番組内で語られた部分」の両方によって構成されているということである。
 したがって、本稿の目的は、番組内で語られた宮崎駿と高畑勲との関係から本作を検討する(第2-3章)だけでなく、さらに深層に進んで、宮崎駿の沈黙を母性という視座から検討する(第4-5章)ことで、新作『君たちはどう生きるか』の全体像と問題構成を明らかにすることにある。
 全体の構成は以下の通りである。第2-3章では、「ファンタジー」と「リアル」という視座から宮崎駿と高畑勲のアニメーション作家としての差異を浮き彫りにし、検討することで、本作終盤における大叔父(高畑勲)との決別の意味を明らかにする。これはいわば、宮崎駿の「父性問題」とも言える点である。次に第4-5章では、宮崎駿の創作活動に常に亡霊のように付き纏ってきた「母親」の問題を、「神話的無意識」と「産むこと/産まれること(の否定と肯定)」という視座から検討することで、本作の核心部分を宮崎駿自身の「新生」として明らかにする。これはいわば、宮崎駿の「母性問題」とも言える点である。

下の世界で出会った幼少期の姿の母親ヒミ。恒例のジブリ飯。
高畑勲監督『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)
妖怪大作戦

第2章 ファンタジー批判を巡ってー宮崎駿と高畑勲(1)ー
 2018年、宮崎駿の盟友高畑勲が死去した。高畑勲は宮崎駿の最高の理解者であり、最大の好敵手だった。鈴木敏夫によると、宮崎駿はいつもただひとりの観客、高畑勲のことだけを考えて作品を作っていたという。宮崎駿にとって、高畑勲はそれほどまでにかけがえのない存在だった。
 高畑勲は常々「ファンタジーはアヘンである」と警鐘を鳴らしていた。ファンタジーは、現実を美化し、誤魔化す。それこそが現代日本アニメーションの罪なのだ。宮崎作品は食事を現実以上に美味しそうに描く。自然も現実以上に美しく描く。トトロのような可愛らしいキャラクターを多数登場させる。宮崎駿は、ジブリ作品ばかり観て外で遊ばない子供たちがいることに顔を顰めた。しかし、それも当然だろう。宮崎作品は現実よりも美しく、楽しく、可愛らしい世界を描いているのだから。現実の野山を駆け回るよりも、トトロがいる森で遊ぶサツキやメイに自己投影する方が、子供たちにとっては遥かに楽しいのだ。これは何も子供たちに限った話ではない。我々大人だって、絶景を見て「まるでファンタジーの世界のような」と驚嘆し、コスプレ美少女を見て「まるでアニメの世界から出てきたようだ」と賞賛する。これは倒錯である。現実を力強く生きるためのファンタジー作品は、いまや人々を虚構の世界に閉じ込め、現実と虚構を転倒させる装置として機能してしまっている。高畑勲にとって、これこそが宮崎作品の、ひいてはジブリの罪なのである。
 高畑勲はファンタジーアニメの脱構築を試みる。例えば、彼の代表作『平成狸合戦ぽんぽこ』。多摩ニュータウンの開発計画によって、狸たちの住処である森林の伐採が迫っていた。主人公の正吉は、人間たちを理解し、人間との共存の道を探ろうとする。この作品は、狸たちが生存と共存の道を必死に探ろうとする物語である。しかし、高畑勲はそうした狸たちを敢えて可愛く描く。故郷を守ろうとする狸たちの必死の叫びは、観客たちの黄色い声援に掻き消されてしまう。最後の手段に出た狸たちの妖怪大作戦が、ニュータウンの住民たちにとってはただのお祭りのイリュージョンにしか見えなかったように。そして妖怪大作戦の最中、空飛ぶ妖怪たちに混ざり、トトロやキキ、ポルコなどの宮崎作品のキャラクターも登場する。これは宮崎駿に対する高畑勲の痛烈な批判である。子供たちには野山を駆け巡って欲しい。そう願ってきた宮崎駿の切実な想いは、それがファンタジー作品であるが故に裏切られる。高畑勲は狸たちの妖怪大作戦を通じてそのことを見事に表現していたのだ。
 本作『君たちはどう生きるか』は、高畑勲が死去した後に作られた初めての宮崎作品である。そして本作は、高畑勲のこうしたファンタジー批判に正面から応えようとした意欲的な作品でもある。主人公が異世界を旅しながら成長する物語は、例えば『千と千尋の神隠し』において既になされているが、本作が『千と千尋の神隠し』と異なるのは、かなりの時間が現実世界の描写に割かれているという点である。これは、現実世界とファンタジー世界との関係を作品内でメタ的に捉えようとしているからである。そのことは両世界の表現方法の違いからも窺い知ることが出来る。現実世界は徹底的にリアルに描かれているのに対して、下の世界は非常にファンタジックに描かれている。例えば、アオサギの描写。現実世界のアオサギは当初壮麗な鳥として描かれていた。故にアオサギが人語を喋る姿はどこか不気味さを醸し出した。しかし、アオサギの正体が実は醜悪な中年男性であることが途中で判明する。とはいえ、アオサギの描写には現実の中年男性のような醜さや汚さは感じられない。いかにもジブリのアニメーションらしい非常にコミカルで可愛らしいキャラクターとして描かれている。現実世界のアオサギは不気味で、中年の鳥男は可愛いという倒錯。あるいは、食事の場面。現実世界で婆やたちと食事を取る眞人は、感想を聞かれ、浮かない顔で思わず「不味い」と言ってしまう。これに対して、下の世界でナツコ救出の前にヒミと腹ごしらえをする場面では、眞人はパンにバターとジャムを目一杯塗りたくり、美味しそうに齧り付く。このように宮崎駿は、下の世界の食事を現実以上に美味しく描き、下の世界の住人を現実以上にコミカルに描いている。しかも下の世界では過去の宮崎作品を彷彿とされる描写や構図を至る所に盛り込みながら。こうした対比描写やセルフパロディによって、宮崎駿は下の世界のファンタジー性を見事に際立たせているのである。
 宮崎作品にとって空を飛ぶことは生きることであり、自由を意味している。例えば『紅の豚』のポルコの台詞。「飛ばない豚はただの豚さ」。これまでの宮崎作品において、空を飛ぶ者たちは、子供たちに生きること、自由を伝えてきた存在だった。ナウシカ、パズーとシータ、ポルコ、キキ。しかし下の世界において、空を飛ぶ者はわらわらたちを捕食するペリカンとして描かれている。空を飛ぶ者は、現実世界に上昇しようとする新たな命を捕えて食べてしまう捕食者でもあったのである。宮崎駿は、新たな命を運ぶコウノトリだと信じていた過去作品の主人公たちが、同時に子供たちを捕食する残酷なペリカンでもあったことを自白する。あるいは、子供という獲物に群がるスタジオジブリ全体に対する痛烈な皮肉なのかもしれない。まるで高畑勲の魂が憑依したかのように、宮崎駿は残酷なまでにこの矛盾を表現する。故に下の世界の入口にはこう掲げられていたのだ。「我ヲ学ブ者ハ死ス」と。
 しかし他方で、宮崎駿はわらわらが上昇する光景を、新たな命が産まれる光景を、何よりも美しく描く。宮崎駿は高畑勲の批判を重々承知していた。高畑勲であれば、命の尊さと美しさをこのようには決して描かなかったであろう。本作の特徴は、高畑的な問題意識を作中にふんだんに盛り込みながらも、それにも関わらず宮崎作品であることを貫こうとした点にある。眞人は自身の奥底で蠢く悪意を認めながら、それでも真っ直ぐに成長しようと決意する。ヒミの炎に焼かれたペリカンを丁重に埋葬し、自身の欲望をぐっと抑えてナツコの出産を肯定し、軽口を叩き合っていたアオサギとも友達になる。宮崎駿は高畑勲のように冷徹な芸術家にはなれなかった。常に高畑勲の才能に惹かれ、嫉妬し続けた宮崎駿だったが、彼は高畑勲のようには割り切れなかった。
 現実とは常に猥雑で複雑なものである。宮崎駿は妥協を知る人間である。締め切りのため、売り上げのため、彼は最後の最後で泣く泣く妥協してきた。彼の人生は妥協の連続である。対照的に、高畑勲は妥協を知らない人間であった。仕事はサボり、締め切りは守らず、採算度外視で、自分の納得するまで作品を作り続けた。あるとき、高畑勲は、そんな宮崎駿の苦労を知ってか知らずか、彼の作品を雑誌で酷評したことがあった。宮崎駿は激怒した。しかし鈴木敏夫に「客が入ってあなたは喜んでいたじゃないか」と言われ、宮崎駿は泣き崩れたという。誰よりも仕事熱心で良い作品を作り続ける宮崎駿。社会の中で妥協を覚えてしまった宮崎駿。妥協して悔しさを滲ませる宮崎駿。高畑勲に酷評されて子供のように対抗心を燃やす宮崎駿。好き放題している高畑勲に悪態をつく宮崎駿。それでいて妥協しない高畑勲に憧れと尊敬の念を抱く宮崎駿。しかし売り上げという世事に思わず笑みが溢れてしまう宮崎駿。これら全てが宮崎駿なのだ。宮崎駿は常に矛盾を抱え、葛藤の中で作品を作り続けてきた。だからこそ、宮崎駿の作品は常に「新しい」のだ。しかし宮崎駿は、そうした自己の矛盾や葛藤、あるいは現実世界の猥雑さや複雑さを自覚し、それらを引き受けながらも、最後の最後で善に傾く。ここに宮崎駿と高畑勲との見事な対比がある。高畑勲には宮崎駿のような世俗的な矛盾や葛藤がない。他方で、高畑勲ほど現実世界の猥雑さや人間の矛盾や葛藤をグロテスクかつ冷徹に描き切った作家はいなかった。おそらく宮崎駿には『火垂るの墓』の清太と節子は描けなかったであろう。『火垂るの墓』を描くには、彼は優し過ぎるのだ。
 本作『君たちはどう生きるか』のなかで宮崎駿は、過去の宮崎作品の罪を赤裸々に描いている。それを作中では産むことの否定、すなわち眞人自身の悪意と重ね合わせながら描いている(第5章を参照)。眞人は、ナウシカやアシタカのような善意に満ち溢れた高潔な存在ではないし、キキや千尋のような純朴で素直な子供でもない。かといって、同じく母親を失った清太と節子のような悲劇的な最期を迎えさせることもしない。彼は最後まで子供たちの強さを信じる。宮崎駿は、産まれることの美しさを他ならぬファンタジー作品として描くことで、子供たちがいずれはファンタジーの世界を乗り越えてくれると信じていた。下の世界に閉じこもっていた子供たちは、これまでの宮崎作品の主人公たちを埋葬して、自分の足で現実の世界を歩き出すだろう。それが彼の願いであり、祈りなのだ。

大叔父。眞人を下の世界の後継者に指名する。高畑勲がモデルとされる。

第3章 高畑勲の脱出と宮崎駿の決別ー宮崎駿と高畑勲(2)ー
 では、本作『君たちはどう生きるか』において、宮崎駿は高畑勲をどのように描き出していたのだろうか。NHK番組「プロフェッショナル」のなかで明確に示されているように、宮崎駿は高畑勲の写し身として大叔父を登場させた。作中では、大叔父は博学な読書家で、書斎に引きこもり、最終的に発狂して塔の中に雲隠れしたと言われている。眞人はそんな大叔父と最終的に決別する。この決別は何を意味しているのだろうか。
 高畑勲は、アニメーターとして非凡な才能を示した宮崎駿とは異なり、「絵を描かないアニメーション作家」として有名であった。彼は常に頭の中だけで作品を構想した。東京大学文学部仏文科出身。宮崎駿が語っていたように、彼の知性と教養は圧倒的だった。そんな高畑は、絵を描かないことを「自分で描くことの狭量さからの脱出」と肯定的に捉えていた。
 このことを十全に理解するためには、文学作品と映像作品における表現技法の決定的差異を把握する必要がある。文学の場合、読者は文字情報からその場面をイメージする。同じ文章を読んだとしても、イメージされる情景は読者によって異なる。しかも、ディテールに至れば至るほど異なる。というより、ディテールはイメージにおいて捨象されると言った方が正確であろう。しかし、映像の場合は文学と異なり、具体性とディテールが伴う。文学作品であれば「言葉にならないほどの美しい景色」をまさにその言葉で表現できるが、映像作品は「見たこともないような美しい景色」を実際の映像として観客に見せなければならない。文学では通用した「誤魔化し」が映像では通用しない。したがって、映像作品において求められるのは、具体性とディテールを徹底的に突き詰めることであり、かかる具体的とディテールを通じていかに観客を作品世界に引き込むか、が重要になる。これこそ、高畑作品が「徹底したリアリズム」と言われる所以である。
 高畑勲は「誤魔化し」を嫌う。前章で示したように、彼がファンタジーを嫌う理由もまさにこの点に存する。ところで、自分の頭の中のイメージを自分で描くとなると、そこには必ず「誤魔化し」が入る。しかも絵が上手な者であればあるほど、イメージの中で捨象されている具体性やディテールを徹底的に詰めることなく、小手先の技法で「それらしい絵」にしてしまう。故に高畑勲は自分で描くことはせずに、他のアニメーターに絵コンテの清書をさせたのだ。そうすることで、絵コンテをより客観的に吟味し、具体性とディテールを理論的に詰めることが可能になる。これが、高畑の「自分で描くことの狭量さからの脱出」の意味するところである。
 これに対して宮崎駿は、アニメーション監督である以前に生粋のアニメーターである。彼は誰よりも描く。飽き足らず描いてきた。手を動かさずに分析的に思考する高畑勲と、手を動かしながら苦悩する宮崎駿。また、NHK番組「プロフェッショナル」で放送されていたように、宮崎駿は制作中、薪割りをしたり、散歩をしたり、とにかく身体を動かしていた。「この薪が割れたら(今悩んでいる箇所も)描ける」と、冗談なのか本気なのか分からないことをカメラの前で口走ったりもしていた。
 ここに宮崎駿と高畑勲の現実(リアル)に対する見解の相違が見て取れる。高畑勲の現実はあくまで客観化された現実であるのに対して、宮崎駿の現実は身体性を伴う現実である。これは大叔父と眞人の相違とアナロジカルに対応する。書斎に引きこもった末に発狂し、塔の中に雲隠れしてしまった大叔父に対して、眞人は母親を助けに大火事の中を駆け回り、疎開後はアオサギ退治のために弓矢を作り、短刀を研ぎ、森の中を駆け回り、下の世界に降り立ってからはキリコに大魚の捌き方を学ぶ。思考の世界に閉じこもる大叔父と世界を駆け回る眞人。どちらも内向的で思慮深い性格ではあるが、眞人には大叔父にはない身体性が垣間見える。これこそ両者を別つ決定的な点である。あれだけファンタジーの倒錯と引きこもり性を批判した高畑勲もまた、主知主義・合理主義という冷たい殻の中に閉じこもり、身体的な現実を見失っているのではないか。宮崎駿は、『となりのトトロ』のように、子供たちに野山を駆け回って欲しいと切に願っていたが、この場合の「野山」とは、高畑的な客観化された野山では断じてない。彼が切に願ったのは、手触りや匂いを直に感じられる身体的な現実としての野山である。故に宮崎駿(眞人)は、高畑勲(大叔父)の後継指名を断って彼との決別を宣言し、「現実」に帰還するのである。身体的な現実を生きる者にとっては、大叔父のような合理主義の徹底もまたひとつの狂気なのだ。こうして本作の物語は幕を閉じる。エンドロール、米津玄師の切なくも力強い歌声が響き渡る。それはまるで宮崎駿の新たな決意を歌っているかのようである。

手が触れ合う喜びも手放した悲しみも  
飽き足らず描いていく地球儀を回すように

米津玄師「地球儀」
『千と千尋の神隠し』(2001年)
海原鉄道
『もののけ姫』(1997年)
宮崎駿のアニミズム的世界観が見事に表現されている

補論 宮崎駿のダブルバインドー神話的世界における冥界と差別の問題ー
 宮崎作品に共通する主題は「生きること」である。『もののけ姫』のアシタカはサンに「生きろ」と呼びかけ、前作『風立ちぬ』は堀辰雄の言葉「風立ちぬ/いざ生きやもめ」から始まる。しかし、宮崎駿にとって生は死の克服や否定を意味しない。生と死は決して二項対立ではなく、宮崎作品においてはむしろ重なり合っている。
 このことは宮崎作品、特に後期作品における冥界描写からも見て取ることができる。『千と千尋の神隠し』の物語終盤、千尋は銭婆に会いに行くために海原鉄道に乗る。それは宮沢賢治『銀河鉄道の夜』を彷彿とさせるような、死者たちを乗せ、死者の世界に向かう列車である。釜爺によると、昔は帰りの列車(死→生)があったが、今では行きの列車(生→死)しかないという。これは言い換えると、昔は生者の世界と死者の世界の往来があったことを示唆している。近代以前の神話的世界は、こうした生と死の循環に根差しており、これは生まれ変わりの思想として体現されてきた。
 冥界に対する宮崎駿の憧憬やかかる死生観は、『もののけ姫』のアニミズム的世界のなかで特に見事に描かれている。シシ神はときに命を奪い(生→死)、またときに命を与える(死→生)。作中では、シシ神は誕生と死を繰り返す不老不死の存在として語られている。しかし、こうした神話的なアニミズム的世界観は、人間社会においては差別の論理として機能する。古来より、日本で死は「穢れ」とされてきた。穢れは火を通して広がる。作中のハンセン病者の扱いからも明らかなように(そしてこれは史実でもある)、ハンセン病は穢れによる病、すなわち「業病」と見なされており、彼らと衣食住を共にするどころか、言葉を交わすことすら忌避されていた。余所者のアシタカを真っ先に受け入れ、気さくな人物として描かれている甲六ですら、ハンセン病者と言葉を交わすことはしない。彼らは人間社会におけるタタリ神なのだ。『もののけ姫』において描かれている神話的世界は、このように死と穢れと差別が日常的に分かち難く結び付いている。
 シシ神の首を狙うタタラ場の頭目エボシ御前は、そんな彼らも同じ人間として平等に扱う。宮崎駿曰く、エボシ御前は「我々現代人の感覚に近い」。シシ神の首を取ることとハンセン病者を人間として扱うこと、両者は神話的世界の否定という点で固く結びついている。彼女は神話的世界に対して反旗を翻す。差別を否定することは穢れを否定することであり、それは生と死の循環を否定することである。生を死から切り離すことは、生きる者を死の穢れという呪いから解放することを意味する。シシ神の首を取ること、それは差別に苦しむ者たちの革命なのだ。
 ここに後期宮崎駿の変化が見て取れる。前期の代表作『風の谷のナウシカ』において、腐海の森は汚染された世界の浄化、すなわち新生の役割を果たしていることが明らかになった。人々に死を与える腐海の森は、同時に新たな生を与える。生と死を司るこうした自然の偉大な循環構造が、ナウシカ的世界観の核心にはあった。しかし、『もののけ姫』は違う。神話的世界は人間社会において差別の論理として機能する。ハンセン病者に対する差別と迫害の歴史に心を痛め、公の場で人目を憚らずに涙した宮崎駿にとって、もはやこうした自然を無邪気に描くことは出来ない。映画版『風の谷のナウシカ』の続編が描かれている漫画版の終盤、腐海の森は旧世界の人類が作り出した人工生命体であることが発覚する。神話もまた人間が作り出したひとつの虚構に過ぎないのだ。
 では、宮崎駿はエボシ御前なのだろうか。断じて否、である。彼には間違いなく神話的世界ないし冥界に対する憧憬が心に深く根付いている。眞人が死者の世界に強く惹かれていたように。しかし他方で、差別は絶対に許されないという命題を誰よりも心に強く抱いている。そしてこれは、前作『風立ちぬ』においても共通している。宮崎駿は若い頃から飛行機に夢中だった。飛行機を描くと気分が高揚する自分がいる。しかし他方で、宮崎駿は誰よりも戦争を嫌う無類の反戦主義者である。冥界とハンセン病、飛行機と反戦。あるものに強く惹かれながらも、それが自己を最も嫌悪する世界に導いてしまうという矛盾。そして眞人もまた苦しむ。死者の世界(塔の中)にどうしようもなく惹かれてしまう自分に、軍需工場の経営によって戦時中にも関わらず豊かな暮らしをしている自分に、彼は苦しむ。彼はそんな自分を許すことが出来ず、道端の石でこめかみを傷付ける。こうした宮崎駿のダブルバインドが、後期作品の特徴なのである。
 エボシ御前は神話的世界における例外的存在である。しかし、ハンセン病者を人間として扱っているのは実は彼女だけではない。さらに二人の例外がいる。それは主人公アシタカと甲六の妻トキである。アシタカはハンセン病者(と甲六)の命を救い、トキは野営の際にハンセン病者から手渡された食事を躊躇わずに口にする(トキの声優島本須美がかつてナウシカの声を担当していたことは非常に示唆的である)。しかし、アシタカはエボシ御前とは異なる道を歩む。彼は人間と神話的世界の共存の道を必死に模索する。モロに対するアシタカの「森と人が争わずに済む道はないのか」という呼びかけは、宮崎駿の心の叫びでもあったのである。

わらわら。下の世界から飛翔し、上の世界で新たな命として生まれ変わる。

第4章 新生する宮崎駿ー胎内記憶と逆転する時間ー
 本作『君たちはどう生きるか』には、過去の宮崎作品を彷彿とさせる描写が何度も登場する。こうしたセルフパロディは、本作が宮崎駿の総決算であるかのような印象を観客に与える。しかし、本作の主題が「産むこと/産まれること」にあることを前提とするならば、この印象は逆転する。わらわらたちは下の世界から上昇して新たな命として生まれかわり、産む決意をしたナツコは若きキリコの介助を得ながら下の世界から脱出する(若きキリコのモデルと言われている保田道世は、ジブリの色彩担当として長年仕事を共にしてきた宮崎駿の「戦友」であり、作品の生みの苦しみを間近で手助けしてきたという点で、大魚の腹を手際よく割く場面は、まさに助産師のそれを彷彿とさせる)。ヒミもまた眞人を産むために上の世界の扉を開ける。このように、下の世界はファンタジー世界や冥界の象徴であると同時に、胎内がモティーフとなっている。
 ここで我々が想起するのが、清水寺の「胎内巡り」である。清水寺の随求堂では、暗闇の地下洞窟を辿る「胎内巡り」を体験出来る。暗闇の地下洞窟を、臍の緒に見立てられた数珠だけを頼りに進んでいく。最深部には梵字が刻まれた大きな石が鎮座しており、そこから再び地上に還ってくることで新たな自分に生まれかわるというものである。
 かかる新生のモティーフを本作に当てはめてみると、奇妙な逆転現象が起こる。宮崎駿の総決算であったはずの本作は、むしろ宮崎駿が生まれる前に見ていた胎内記憶であるかのような印象を観客に与える。胎内記憶としての本作が宮崎駿という人間を駆り立て、数々の宮崎作品を導いてきたのだ。宮崎駿を導いてきた宮﨑駿。それは胎内記憶ないし生前の記憶としての、すなわち神話的無意識としての宮﨑駿である。こうして過去の宮崎作品は、宮﨑駿の胎内記憶の断片が紡がれ、具現化したものとして再構成される。宮崎作品の時間は逆転し、宮崎駿は新クレジット「宮崎駿」として新生する。
 ここにおいてようやくNHK番組「プロフェッショナル」では語られることのなかった問題が浮かび上がってくる。それは、宮崎駿が最も避け、最も沈黙しながらも、常に亡霊のように彼に付き纏ってきた問い、すなわち母親ないし母性の問題である。

母親の妹であり、父の再婚相手のナツコ。眞人の喧嘩に心を痛め、塔の中に雲隠れしてしまう。

第5章 神話的無意識ー宮崎駿における母性の問題ー
 日本のアニメーションの歴史において、母親の問題は非常に根深い。日本のアニメーション作家たちは往々にして、失われた母親の代理創造を試みてきた。代表的なのは、松本零士『銀河鉄道999』のメーテルと庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイであろう。両者は失われた母親の現し身として主人公の前に登場する。しかも主人公の初恋相手として。この「禁忌」とも言える作家の創作行為を、ヒッチコックは映画『めまい』のなかで見事に表現している。この作品は、死んでしまった元恋人と瓜二つの女性に出逢った主人公が、彼女を元恋人に作り変えていく物語である。ヒッチコックはこの映画を通じて、代理を創造する人間の創作行為を「屍姦」であると看破したのだ。あるいは三島由紀夫。彼もまた創作行為を「殺人」と捉えていた。彼はそのことを短編小説「中世における一殺人常習者の遺せる哲学」の中で明確に語っている。三島はモデルを徹底的に取材する。徹底的に取材した後にモデルを殺す。そして殺したモデルを作品において美的に再生させる。三島にとって、小説家は「殺人者」なのである。ヒッチコックや三島のこうした理解に立つならば、失われた母親を恋人として再創造することは、現実の母親を殺して屍姦するに等しい行為であると言えよう。
 本作『君たちはどう生きるか』の主題は「産まれること/産むこと」であり、これは当然ながら母親ないし母性の問題と密接に関わる。本作は、宮崎駿の原体験とも言える母親に対する屈折した慕情を、産むことの美しさで昇華させていく物語である。母親ないし母性という問題は、これまでの宮崎作品に常に亡霊のように付き纏ってきた。『となりのトトロ』のサツキとメイの母親は入院中であり、『もののけ姫』のサンは実の母親に捨てられた。『千と千尋の神隠し』において、母親は千尋に対して終始素っ気ない態度を取っていた。宮崎作品におけるこうした母親の存在感のなさ、すなわち「母親の不在」という問題は、母親に対する彼の屈折した慕情の裏返しではないだろうか。彼は常に母親を描くことを避けてきた。しかし、避けながらも同時に、作品内の女性に母性を見出す。代表的なのは『風の谷のナウシカ』であろう。かつて宮崎駿は主人公ナウシカを「母性の象徴である」と語ったことがある。母親を描くことを避けてきた宮崎駿は、この少女を母親代理として再創造する。あるいは『風立ちぬ』の菜穂子も同様である。主人公と恋に落ちる彼女は、宮崎駿の母親と同じ結核に罹り、闘病生活を強いられる。このように、宮崎駿も松本零士や庵野秀明と同様に、母親代理を創造してきた作家であった。
 本作は、まさにその母親が失われる場面から始まる。大火事によって焼ける街、母親ヒサコが入院している病院に駆け付ける主人公の眞人。ここで場面が切り替わる。母方の実家に疎開のため移り住んできた父子。それを母親の妹であり、主人公の新たな母親となるナツコが出迎える。母親は失われ、母親代理が登場する。
 業火に焼かれ、命を落とす母親。我々はその姿に日本神話におけるイザナミの最期を想起せずにはいられない。イザナミは火の神カグツチを産み落とした際、カグツチの火で陰部に火傷を負って死んでしまう。夫のイザナギはイザナミに逢いに黄泉国に赴いたが、腐敗した自分の姿を見られたくないイザナミは彼を追い返す。イザナギは地上と黄泉国を繋ぐ出入り口を塞ぎ、黄泉国の穢れを落とすため禊として顔を注ぐと、左眼からはアマテラスが、右眼からはツクヨミが、鼻からはスサノオが誕生した。イザナギは子供たちにそれぞれ高天原、夜、海原の統治を命じた。しかし、母を強く慕うスサノオは海原の統治に赴かずに母がいる根の国(黄泉国)に行きたいと嘆き続け、遂には父の怒りを買ってしまう。根の国に行くことを決意したスサノオは、母親代理のように慕っていた姉アマテラスに別れの挨拶に行く。スサノオが攻めてきたと勘違いしたアマテラスは武装して彼を待ち構えたが、スサノオは「誓約」によって身の潔白を証明した。アマテラスと和解したスサノオは有頂天になり、母親に駄々をこねる子供のように無茶苦茶な悪戯を始めた。スサノオの乱行の果てに、アマテラスは陰部を負傷してしまう。アマテラスは怒り、天の岩戸に引き籠ってしまう。アマテラスが岩戸に隠れたことで世界は暗黒に包まれる。これによってスサノオは高天原を追放されてしまう。
 日本神話におけるスサノオ、イザナミ、アマテラスを巡るこの物語は、本作の主人公眞人、母ヒサコ、母親代理ナツコの関係と非常に酷似している。ヒサコは業火に焼かれて死んでしまう。アオサギは「母親に逢わせてやる」と眞人を下の世界に誘惑する。ナツコは眞人の母親代理として登場する。学校の帰り道、眞人は同級生たちと喧嘩し、彼らに勝利したにも関わらず、道端の石で自らのこめかみを傷付けてしまう。怪我をした眞人を見て気に病んだナツコはつわりが悪化して寝込んでしまい、遂には石棺で封印された塔の中に雲隠れしてしまう。眞人はナツコを探すため、アオサギの誘いに乗り、下の世界に赴く。
 こうして本作『君たちはどう生きるか』は、多層的な世界が複雑に絡み合いながらひとつの物語が紡がれていく。宮崎駿の原体験は作家の禁忌や神話的無意識と混ざり合い、空想と胎内と死後の世界が「下の世界」という形で具現化される。宮崎駿は、自らの人生の歩みを「日本のマザコンの原型」とも言われているスサノオに重ね合わせながら、これまで彼を駆り立ててきた神話的無意識(スサノオ・コンプレックス)としての宮﨑駿と対決するのである。
 スサノオの駄々がアマテラスの陰部を傷付けてしまったことからも明らかなように、ここには近親相姦のモティーフが隠れている。眞人はナツコに密かな恋心を抱いていた。例えば、下の世界に赴いた直後のキリコとの会話。眞人「ナツコという女性を知りませんか?」キリコ「好きな人なのかい?」眞人「お父さんの好きな人です」。宮崎駿は、わざわざここでキリコに「好きな人なのかい?」と問いかけさせている。眞人はこれを即座に否定するが、この問いかけが「大切な人」ではなく「好きな人」である点が興味深い。これは、眞人が「ナツコは自分の好きな人ではなく、父親の好きな人(自分にとっては母親)なのだ」と必死に自分に言い聞かせていることを示しているのではないだろうか。眞人はナツコを強く求めながら、彼女に対する慕情を口にすることを巧みに避ける。母親代理という禁忌の前で揺れ動く眞人。彼女は母親なのか、それとも恋人なのか。あるいは、以下の場面。眞人が怪我をした直後からナツコのつわりが悪化し、彼女は下の世界に雲隠れしてしまう。次に眞人が彼女と再会したのは、石で囲まれた産屋であった。眞人が喧嘩(乱暴狼藉)の末に自らのこめかみを傷付け、それによってナツコのつわりが悪化したことは、スサノオが乱行の果てにアマテラスの陰部を傷付け、天の岩戸に引き籠ってしまったことと見事に符合する。これは近親相姦と産むことの否定を暗示している。何故ならナツコの出産は、母親代理が別の男性の子供を産み、彼女の関心が完全に赤ちゃんに向いてしまうということ、すなわち眞人にとっての「失恋」を意味しているからだ。眞人は深夜、夜遅くに帰宅した父親を出迎え、父親にキスをするナツコを目撃する。そして翌日、眞人は道端の石でこめかみに傷を付けてしまう。
 母親を業火によって失ったにも関わらず、軍需工場(新たな業火の生産)の経営によって豊かな暮らしをしている自分自身。現世でナツコたちと新たな生活を始めなければならないにも関わらず、死んだ母親がいる冥界に惹かれてしまう自分自身。ナツコは母親と別人格の女性であるにも関わらず、彼女に母親代理としての役割を求めてしまう自分自身。眞人はこうしたダブルバインドに人知れず苦しみ、乱暴狼藉の果てに遂に自分自身を傷付け、更にはナツコまでも傷付けてしまう。彼のこめかみの傷は、まさにこうした「罪(悪意)」の象徴なのである。
 産むことの否定は、下の世界でより直接的に表現されている。眞人は石に囲まれた産屋でナツコと再会する。石は下の世界を象徴している。下の世界を構成しているのは石の意志である。石は無機物である。無機物は何も産み出さない。石は墓石であり、下の世界には時間が存在しないと作中で語られる。すなわち、下の世界は死あるいは産むことの否定を示している。そのため、産まれる/産むためには、この下の世界に別れを告げなければならない。わらわらは新たな命として産まれるために上昇し、ヒミは眞人を産むために、業火に焼かれる運命にあることを知りながらも地上の扉を開ける。これに対して、何も産み出さない石の空間がナツコの産屋になっているということは、何も産まれない場所に産むこと、すなわち死産を意味する。眞人はナツコの死産を心の底では願っていたのだ。上記の通り、ヒッチコック曰く、代理を創造する行為は「屍姦」である。映画『めまい』では、恋人代理は元恋人と同じ運命を辿り、再び非業の死を遂げてしまう。結局のところ、恋人や母親を代理として再創造する行為は、新たな命を産み落とすのではなく、単に死体を弄んでいるに過ぎないのだ。
 これに対して眞人は、石(産まれることの否定)で付けたこめかみの傷を指差して「これは悪意の象徴です」と告白する。スサノオにとってのアマテラスの陰部の傷は、眞人にとってのこめかみの傷なのである。産むことを否定した眞人は、自身の悪意を自覚し、下の世界に留まることを拒絶する。すなわち、産むことの否定の否定である。これは、地上の世界の、新たな命が産まれる世界の肯定である。宮崎駿は、女性たちを代理創造してきたこれまでの自身の行為が、屍姦的な悪意に満ちたものであったと懺悔する。そして、母親の現し身として創造した母親代理のナツコの「産むこと」を肯定する。宮崎駿は、自ら創造した碇シンジをエヴァの世界から解き放った庵野秀明のように、母親代理のナツコに母親としての命を吹き込む。それは母親の亡霊との決別であると同時に、過去の自分自身との決別を意味する。
 眞人のこうした「転回」はいつ生じたのか。それは、わらわらたちが新たな命として産まれるために上の世界に上昇する光景を見たときである。物語序盤から終始表情の変化に乏しく、真面目な顔を崩さなかった眞人が、ここではじめて子供のように目を丸くさせ、螺旋状に上昇するわらわらたちの美しさに見惚れ、思わず涙する。ナツコの出産を心の底で否定したがっていた眞人は、命が生まれることの尊さと美しさをここではじめて知ったのだ。
 物語終盤、眞人は石の産屋でナツコと再会する。石の産屋に潜入した眞人とヒミだったが、石は二人を歓迎しなかった。二人は石から発せられる電流に襲われながら、ようやく産屋に到着する。眞人は産屋で寝ていたナツコに「ナツコさん」と声をかける。ナツコは眞人を拒絶する。「あなたなんか大っ嫌い!」と。眞人は失恋する。失った母親を代理創造したいと願う主人公は、映画『めまい』で恋人代理を失ったように、母親代理に拒絶される。しかしそれでも眞人は引き下がらない。眞人は決意を新たに再びナツコに呼びかける。「ナツコ母さん!」と。あなたはこの子の母親でしょう。あなたはこの子を産まなきゃならないんだ。だって、命が産まれることはとても尊くて、美しいことなのだから。産屋の天井に吊るされた大量の式神が眞人に襲い掛かり、彼の口を塞ごうとする。作中、眞人が大勢の「何者か」に襲われる場面は何度かあった。夢の中でカエルに襲われたときはナツコが弓矢で、下の世界でペリカンに襲われたときはキリコが鞭と火で、インコに襲われそうになったときはヒミが魔法で助けてくれた。そしてこのとき、眞人は襲いかかる式神をはじめて自らの手で引き剥がし、再度ナツコに呼びかける。「ナツコ母さん!」と。眞人はナツコの出産を力強く肯定する。それは、ナツコを母親代理ではなく、現実の母親として受け入れて生きていくことの決意である。日本のマザコンの原型とも言われるスサノオ・コンプレックスは、命が産まれることの尊さと美しさを知り、他者は自分の意のままにならないということを引き受けた眞人の決意と覚悟によって、ようやく克服される。
 大叔父との決別を宣言した後、眞人は自ら石の産屋を出たナツコと合流し、現実世界へと還る。こうして上の世界に還ってきた眞人は、小さな鳥の姿に戻ってしまったインコの大群の糞尿を浴びながら、ナツコと笑い合う。それはナツコが初めて眞人に見せる笑顔だった。

僕が愛したあの人は誰も知らないところへ行った
あの日のままの優しい顔で今もどこか遠く

米津玄師「地球儀」
眞人とアオサギ。下の世界を旅する中で二人に奇妙な友情が芽生える。

結語 君たちはどう生きるか?ー宮崎駿と私たちー
 宮﨑駿の新作『君たちはどう生きるか』は、彼の創作人生において多大な影響を与えてきた高畑勲と母親に対して決別を宣言する作品であると同時に、神話的無意識にまで自己を下降させることで、作家としての自己の「罪(悪意)」を引き受けて再度上昇を開始する、いわば胎内回帰を経た宮崎駿の生まれ変わりの物語なのである。こうして宮崎駿は新クレジット「宮﨑駿(崎→﨑)」として新生する。どこか物悲しさを覚えながらも力強さに満ち溢れた本作『君たちはどう生きるか』は、「死と生」「冥界と現世」「別れと新生」が見事に織り重なることでひとつの物語を形成していたのだ。その意味で本作は、宮崎駿の「俺はこう生きた/俺はこう生きていく」という自叙伝的作品なのである。
 大叔父との決別に際して、眞人は次のように宣言する。「地上の世界に還ります。ヒミやアオサギのような友達を作ります」と。作中に描かれている眞人とアオサギの不思議な友情関係は、宮崎駿と鈴木敏夫の関係にも酷似している。鈴木敏夫は、宮崎駿の創作意欲をいつも巧みに刺激しながら、作品をどうやってプロデュースするのが最も効果的かを常に考え続けていた。宮崎駿には、それが自分の誇りや想いを無視した過度な商業主義と感じられたこともあった。宮崎駿が付けた新作のタイトルを、鈴木敏夫が「それでは集客が見込めない」と切り捨て、勝手に『もののけ姫』というタイトルに変更してしまったことは、あまりに有名な話である。このように、宮崎駿にとって鈴木敏夫は、ファウストにとってのメフィストフェレスのような存在だった。しかし眞人は、自分を下の世界に誘惑してきた彼らが実は友達だったと告白する。それは、宮崎駿を「冥界」に引き込みながら自分を都合良く利用してきた鈴木敏夫との「和解」であり、同時に創作という「屍姦」を繰り返してきた母親との「和解」を意味する。このように、宮崎駿にとっての「新生」とは、単なる自己変容ではなく、これまで出会ってきた人々が実はかけがえのない友達であったことに気付き、人生そのものの意味を新たな仕方で反復することなのである。
 したがって、本作『君たちはどう生きるか』は、宮崎駿の自叙伝的作品であると同時に、我々観客に向けた、これまで以上に強烈なメッセージ性を帯びた作品でもある。眞人はナウシカやアシタカのような高潔な人物として描かれていない。内面的にはどこにでもいるような真面目で少し不器用な少年である。こうした普通の少年であっても、旅を通じて「生きること」「産まれること」の美しさを知り、現実の猥雑さの中でダブルバインドを引き受ける覚悟を持つことで、いつもで自分自身を生まれ変わらせることができるし、いつでも他者と新たな関係を取り結ぶこともできる。本作『君たちはどう生きるか』とは、宮崎駿から我々に問いかけられた「俺はこう生きた。君たちはどう生きるか?」なのだ。

本稿は、前作「論考・宮﨑駿『君たちはどう生きるか』:産むことのメタファンタジー」を大幅に加筆修正したものである。

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