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セックスは怪物 ー 映画『哀れなるものたち』について

私たちは人間なのだろうか?それとも獣なのだろうか?いや、そのどちらでもないのかもしれない。
私たちは現実と現実的なファンタジーのキメラ。獣という肉体に人間という概念を拡張したもの。獣でもなく人間でもないものであり、獣でもあり人間でもある。つまり怪物という哀れなものたちだ。しかし、私は怪物であることの肯定をこの映画に見た。
ベラ。母であり子であり、大人であり子供であり、死者であり生者であり、自己であり他者であり、そしてそのどちらでもない者。

ベラには現実しかなかった。ベラにとっては感覚が全て。皿を割り、死体を刺し、そして快楽に耽る。ただ世界を感覚として受け取っている。そこに人間的な意味はない。現実があるだけだ。この映画のお伽話やSF、シュルレアリスムのような世界観、これは私たちにしてみればファンタジーだろう。しかし、ベラの感覚からすれば、世界はあのようだったのかもしれない。ベラにとってあれは現実なのだ。スピッツの『オバケのロックバンド』という歌に「子供のリアリティー 大人のファンタジー」という歌詞がある。ベラは世界を感じるがままに捉える。そこに意味はない。ベラにとってセックスはセックスではなく「熱烈ジャンプ」なのだ。生殖は生物学的な言葉で、セックスは性欲や快楽だけでは語れない。しかし「熱烈ジャンプ」はただ快楽があるだけである。まさにこれは現実を生きているのだろう。

物語が進むにつれて、ベラは成長し、自律/自立していっているのだろうか?これは自律/自立の物語なのだろうか?しかし、自律/自立の物語としてしまうには違和感がある。これは、物語の中で出てくるエリクソン批判をキャロル•ギリガンの『もう一つの声で』と紐づけるとすればの話である。
ベラがエリクソンについての本を読んでいるとき、男性の成長しか書かれていないことを批判した。そしてギリガンの『もう一つの声』もまさにエリクソンを批判している。ギリガンによれば、エリクソンの成長論は男性中心主義であり、そこでは自律/自立した強い「個」を成熟の姿としており、エリクソンには「もう一つの声」が届いていない。
確かにベラは駆け落ち相手のもとを離れてから、自律/自立しているようにも見える。しかし、娼館や家に戻ってからで見られる、連帯、共依存、つまり女性的な成長も見せている。(エリクソンのいう)男性的な成長と(ギリガンのいう)女性的な成長のどちらもがある。しかし、この二つだけが成長なのだろうか。成長とはなんだろうか。

物語のキーワードの一つに、「進歩(進捗だったかもしれない)」が挙げられるだろう。そしてその進歩への批判も語られている。それは本来私たちが獣であることを覆い隠すものでしかないと。
進歩で恐ろしいことは、一つの方向に向かうことだと僕は思う。進歩というと、どうしてもその先に良い状態を想定し、そこへ進むことになる。そして進歩とは、現実の否定でもある。それはまさしく獣であることから目を背け、現実から逃げていることにもなるだろう。そしてそれを成長というのであれば、獣の否定でもあるだろう。
しかし一方で進歩を否定し、ニヒリズムな態度を取ることも、もう一つの現実から逃げていることになる。それはベラの指摘通り、傷つくのが怖いのだろう。
私たちは進歩から目を背けることも、獣であることからも逃げることはできない。ではどうすればいいのか。恐らく、獣であることを受け入れつつ進歩するしかないのではないか。

物語が進むと、映画の中の世界が、私たちが普段感じている世界に近づいているような気がしないだろうか。私たちが普段現実と呼んでいる、人間的な現実に近づいてきていると。
この映画がベラが感じている世界を映しているとするなら、これはベラの世界の感じ方が変わってきているということだろうか。
ベラは冒険をし、様々な出会いにより変わっていく。それは、ベラ自身の現実を作ったということだろう。私たちは人間の作り出した現実的なファンタジーを生きている。ベラももう一つの現実、現実的なファンタジーを作った。しかし、ベラの作った現実的なファンタジーには、どこかオリジナリティがある。自分で作り上げたと言った感じがある。そしてそこには獣であることの受け入れ、現実の受け入れもある。ベラは二つの現実を受け入れ、生きている。

「人間」とは人間の作り出した概念である。当然だが概念に生命はない。それは空想のものであり、肉はなく、血は通っておらず、生命ではない。
クリトリスの切除、ペニスの焼印は肉、血、そして生命の否定だろう。
ゴッドとアルフィーは恐らく概念に生きた。ゴッドは「科学者」として生き、感情を捨てた。アルフィーは「将軍」として征服することに生きた。征服することは本能だろうか?僕は人間的な欲だと思う。動物のナワバリは生理的な反応ではないか。領土を広げようとか、征服とか、そんなことを考えているとは思えない。
しかし、一方で私たちには確かに「人間」という概念が必要だ。私たちは「人間」としての尊厳は守られなければならない。「人間」は踏み躙られてはならない。
また、概念に血はないが、概念が血に影響することもあれば、血が概念に影響することもあるだろう。
獣であること、人間であること、私たちにはどちらも必要だ。
故に私たちは獣でもなく人間でもなく、獣でもあり人間でもある、哀れなるもの、怪物になるしかないのだろう。
ベラは実験と言っていた。実験をし、自分なりの怪物になる。獣でもなく人間でもなく、獣でもあり人間でもあるということはそういうことかもしれない。
ベラは与えられた運命を引き受けつつも(運命に従っているわけでもなく、拒絶しているわけでもない)、自分の世界を作る。自分のもう一つの現実、現実的なファンタジーを作る。一つではない成長がある。しかし、現実を否定、拒絶するわけではない。ベラは2つの現実を生きている。それは生の肯定であり、進歩なのだろう。

ところで、セックスも獣ではなく人間でもなく、獣であり人間でもあるとは思えないだろうか。生殖は生物学の意味、熱烈ジャンプは快楽の記号だとすれば、セックスは何かの隠喩だろう。セックスには肉の快楽ではなく、人間的な快楽もある。そして、獣的な欲求だけではなく、人間的な欲望がある。それは娼館の中で客に幼いときのことを思い出させ、ジョークを言い合うというゲームをするシーンでも感じられる。そう考えると、セックスも怪物で、哀れなる行為なのだろう。


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