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「様々な愛の形」ではなく、「愛に形など必要ない」のではないか?

本当の「愛」とは何だろう。
本当に「愛し合う」とはどういうものなのだろう。
そこに「形」は必要か。

昨今、様々なメディアで「様々な愛のカタチ」や「多様な愛の形」などということが書かれており、まあ、いわゆるそういう時は「同性婚」が取り上げられているわけだが、なぜそんなにも「形」にしたいのだろうか。

本気で愛し合っている二人に、「形」は必要なのだろうか。

結局法治国家であるこの国と世界に、「結婚」という形を定めたこの状態で、「結婚」という形にすることで得られるものを想像してみると「形」にしたがる意味も分かる。
それは「金」だ。それしか理由がない。

結婚という形式をとることで、金銭面で都合がいい。その「都合の良い金銭面」の権利がほしいがために「結婚」という形式を求めるのだろう。

しかし、その口実を「愛」とするのは、いささか疑問である。

もし「金が欲しい」というのならば、「愛の形」という表現にすべきではない。そもそも「愛」は形ではない。たしかに気持ち的な部分から同情へ語りかけたいということなら「愛」という言葉を使いたくなるのかもしれないが、本当に欲しいのは「金銭面の権利」であって、愛の形ではないはずだ。

「金が欲しい」ための口実に「愛」などという言葉を使われるのは、本当に誰かを「愛している」者にとってはとても不愉快極まりないわけである。

むしろ今は男女間であっても「事実婚」という形式上の結婚をしない人もいるわけだ。私はそれは素晴らしいと思う。まさに形式上のことなどにとらわれない「愛」と言えるだろう。(ただ単に別れやすいということもあるだろうけど。)

愛の形に縛られるのは結局それ以外の何かが欲しいためなのだ。その人のことを本気で愛しているなら、「結婚」という形式など「最終的に、結果的に行きついたところ」であるというだけのはずである。

人以外を愛することはあるだろう。愛とはそういうものだ。(私はこちら側なのだが。)

だからこそ「結婚という形」だけを異常なほど追い求める人を見ると、非常に疑問なのだ。

「それって本当にその人そのものを愛しているのか?」「その人と結婚することによって付随してくる何かが欲しいだけじゃないのか?」と。

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