人造人間十数号

適当にいろいろ述べます。雑記です。 たまに社会問題などの私見も書きます。 「それって私…

人造人間十数号

適当にいろいろ述べます。雑記です。 たまに社会問題などの私見も書きます。 「それって私の感想ですよね」

最近の記事

自殺とは他殺である

「自殺」。 自らを殺す。 この文字を見ると、どうにも違和感を覚えて仕方がない。 生物というのは生きているのだから、なにもなく無意味に自分を殺すなんてことはないのだ。 ではなぜ自殺するのかというと、それはその状況に追い込まれたからだという他ない。 それは人間でいえば結局のところ、パワハラ、いじめ、裏切り、圧力、戦争の自決、社会への絶望、虐待、犯罪被害者など、精神的身体的に追い詰められたものがたどり着く先が自殺なのである。 これは果たして「自殺」なのだろうか。と、私は

    • 「死」とは「カエル」ことなのである

      死とは何なのか。最近そんな事ばっかりだが、私は一つの可能性にたどり着いた。 それはある意味、現実的であり、仏教的であり、スピリチュアル的である。 すべての目線から言える事なのではないかという可能性だ。 それが題名にある「カエル」というものだ。 まず大前提を見ていこう。 私たちは元々ここにあったものではない。 生まれたものなのだ。生み出されたものなのだ。それを望んだにしろ望んでないにしろ、間違いなく私たちは生み出されたもの。「生み出される」ということはつまり、「元々

      • 生きる気力がなくなっていく

        人生において必要な事とは何だろう。 最近食事が面倒だ。おいしくない。たのしくない。めんどくさい。省きたい。 性は嫌悪対象。性欲なんて消えてしまえ。塵も残らず消えろ。 何か楽しむことってあったか。趣味。研究。なんか全部めんどくさくて辛くなってきた。 承認欲求?私は人に気に入られたいとか、そういえば最近全く思わなくなったな。これって結構人としてやばい兆候かなと客観的に見て思う。 あれ。なんかなんもなくない? こんなんだったっけ。 なんか。なんだろう。 なんて言えばい

        • 自分への失望、自分の意味不明な行動

          何故あの時あんな行動をとったのか。 今考えると意味不明で、すべてが間違いで、自分には全くの無益で、損で。 それなのにその時はその行動をとった。 何故そんなことが起きるのか。自分に期待しているわけではないが、あまりにも意味不明で不利益な事をわざわざやるようなら、そんな自分とは早々におさらばするべきなのではないか。 不利益を早めに切るということは、非常に合理的だろう。

        自殺とは他殺である

          死は怖くない

          「死」とは恐ろしいものだと、今生きている人間からするとそう思うだろう。 私自身、死とはどういうものなのか。死んだらどうなるのか。全く分からない。 しかし私は「死」は怖いものではないと思うのだ。 なぜかというと、生きていることがこんなにもつらいからである。 生きていることとは、様々なことを考えて、様々な感覚を受けて、様々な感傷を受ける。これほどまでに多くの犠牲、傷、処理、思考はもはや生物としてキャパオーバーしているのではないかと思う。 人間は特に、脳が大きくなりすぎて

          なぜ生きているのか

          私は最近病んでいるのか? 「なぜ生きているのか」ということを頻繁に思うようになった。 騒音の所為で病んでいるのだろうか。 それともこの機に悟りの世界の扉を開こうとしているのだろうか。 まあそんなことはどうでもいいか… 「なぜ生きているのか」 そもそも私たちは「生きたくて生きているのか」という疑問もある。 「生きたくて生まれたわけではない」ということは確定で良いと思う。なぜなら「生まれる選択肢」は生まれる側にはないからだ。 だから私たちは「生まれてしまったから生きる

          なぜ生きているのか

          「死」が「救い」に見えてくる今日この頃

          またやってしまった。 やっぱりもう生きていくのは難しいのかもしれない。 少なくとも他人からしたら死んだ方がありがたい存在になっているだろう。 私自身ももうこんな感情も負傷した痛みも感じたくない。 般若心経の域に達すれば楽になれるのだろうけど。私にはいささか難しいようだ。 死ねば感情も痛覚もなくなる。 今の私にとって、「死」は完全な「救い」の認識になってきた。 自殺は、未遂に終わった場合再挑戦できない体になるリスクがある。寝たきりで再挑戦もできず十何年も生きなけれ

          「死」が「救い」に見えてくる今日この頃

          改造車、騒音バイク乗りへ。殺される覚悟はしておいた方がいい

          爆音を響かせ、エンジンを吹かし、おもちゃのようにリズムを取ってバイクをのるアホ共。 音のなる物が大好きな改造車乗り共。 体だけ大人になって、脳は幼児のままの様だ。 人の迷惑を考えず、住居の連なる道路を真夜中に爆音を響かせ走行する。 私の家の前にもとうとう現れた。 非常に残念だが、ここは住居専用地域沿いの道路だ。故に、これが続くようなら私は自らの身を護るためにいかなる手段をもってしても騒音源を排除する。 通常走行の乗用車・バイク・自転車には影響のない方法で、ターゲッ

          改造車、騒音バイク乗りへ。殺される覚悟はしておいた方がいい

          常に「死」を想っている

          死にたい。 死んだら楽になるか。 何でもいいから死んでみたい。 私は最近、毎日何度も死を考える。考えるというより「想う」に近い。 家の周りが公害騒音環境に陥ってから、休める場所がなくなった。 地獄のような日々。 もうすべてが絶望。 アトピーも悪化する。 この苦しみは理解されない。 自分すらも邪魔をしてくる。 その最後にやってくる感情は「死」だけだろう。 どうやって死ぬか。死んだらどうなるか。どう死ぬのが一番良いのか。一番楽な死に方は。一番訴えとして印象に

          常に「死」を想っている

          街の明かりを見るといつも思うのです。

          この明かりの一つ一つに人間の営みがある。 家族で過ごす人、風呂上りに寝転んでいる人、恋人と幸せな時間を過ごしている人、一人で趣味を楽しんでいる人、家族兄弟でテレビを見ている人、自分の部屋で好きな人と連絡を取り合っている人、人生に絶望する人、自殺を考えている人、自殺を実行してる人。幸せの絶頂にいる人もいれば、人生のどん底にいる人もいる。この街の明かりの、この中にいろいろな人がいる。 美しいのか、混とんとしているのか。なんともまがまがしい世界だなと。 日本では年間で1万人以

          街の明かりを見るといつも思うのです。

          赤子(乳児レベル)を飲食店に連れてくる親は何を考えてるのか

          この前、とある飲食店に家族連れが現れた。 何やら産声のような声も聞こえる。 見ると、数週間前に産んだばかりですか?と言わんばかりの赤子を連れている。 あの声、非常に耳障りである。というか、こんなこと言うのは申し訳ないが、顔も色もまだ完全に形成されていないような見た目なのだ。おそらくあれは0歳児~1歳児の間であることは間違いないだろう。 そんな者を飲食店に連れてくるのだ。 正直言って、人間の赤子はグロい。あまりにもグロい。そんなのが近くにいながら食事をするなんて無理で

          赤子(乳児レベル)を飲食店に連れてくる親は何を考えてるのか

          座っているとすぐ腰が痛くなる(20代)

          私は20代だが座っていると10分そこらで我慢できないくらいに腰が痛くなる。 だから数分単位で体勢を変えないと仕事もしていられない。 どんな体勢でも同じだ。 ちなみに父親は今までに腰の手術を2,3回やっている。 まさか遺伝か。また遺伝なのか? 腰の痛みにはストレスも原因らしい。 『HEALTH UP THE SEASON 現代人に増えている慢性腰痛 ストレスが大きな原因だった』 まあでも一番の可能性は「クセ」なのだろうか。 『大正製薬 腰痛の原因は筋肉のアンバラ

          座っているとすぐ腰が痛くなる(20代)

          【バイク騒音・改造車騒音】夜中にうるさい音を鳴らす彼らは幼児と同じ脳みそだろう

          子どもは音が鳴るものが好きだ。 バイクや改造車のように、わざと爆音を鳴らし街中を走る彼らは、頭の中が子供のままなのだろう。 加えて、「目立ちたい」「構ってほしい」というのもこれまた子供っぽい。 他人の迷惑を考えないというのもまた子供っぽい。 むしろ悪いことをしていると若干分かっていながらやっているのではないか?それだとしてもそれすらもまた子供っぽい。 結論、夜中に【バイク騒音・改造車騒音】のうるさい音を鳴らすやつらは、クソガキ。

          【バイク騒音・改造車騒音】夜中にうるさい音を鳴らす彼らは幼児と同じ脳みそだろう

          自家用車は一家に二台目を買う場合に税金を上げるべきではないか

          こんなことを著名人や政治家が発言した暁には、おそらく批判殺到し炎上でも起こりそうである。 しかし考えてみてほしい。 日本は今最悪の車社会になっている。 そのせいで自動車騒音問題が頻発し、道路増設による環境破壊が進み、排気ガスによる地球温暖化が進む。 自動車保有台数が米・中に続いて3位だそうだ。こんな狭い国土でだ。しかも、どんどんと鉄道の廃線が進み、さらに車社会に拍車をかける。これは庶民があまりにも手軽に自動車を買えるようになった弊害ではないか。本来自家用車なんてものはそ

          自家用車は一家に二台目を買う場合に税金を上げるべきではないか

          「様々な愛の形」ではなく、「愛に形など必要ない」のではないか?

          本当の「愛」とは何だろう。 本当に「愛し合う」とはどういうものなのだろう。 そこに「形」は必要か。 昨今、様々なメディアで「様々な愛のカタチ」や「多様な愛の形」などということが書かれており、まあ、いわゆるそういう時は「同性婚」が取り上げられているわけだが、なぜそんなにも「形」にしたいのだろうか。 本気で愛し合っている二人に、「形」は必要なのだろうか。 結局法治国家であるこの国と世界に、「結婚」という形を定めたこの状態で、「結婚」という形にすることで得られるものを想像して

          「様々な愛の形」ではなく、「愛に形など必要ない」のではないか?

          バイクの騒音を言うと「大きい音が無いと気付かれない」などという人がいるが、そもそも乗用車と同じ交通ルールに乗っ取って運転していればそんな心配もないのでは?

          バイクが自分から路肩での追い抜き、二車線での割り込み、信号待ち停車時での追い抜き、速度超過などがあるわけだが。おそらく彼らはこういう時に「音がしなければ気づかない」などと抜かしているのだろう。しかし、よく考えてみてほしいのだが、これは「危険運転」なわけである。 自分たちが危険運転をしているのに、乗用車側に注意を促さないといけない、とかいう完全な「自己中心的考え」から来る主張なわけだ。 バイクといえども「軽自動車」以上の物を言うわけだ。軽車両ではない。だったら乗用車の軽自動

          バイクの騒音を言うと「大きい音が無いと気付かれない」などという人がいるが、そもそも乗用車と同じ交通ルールに乗っ取って運転していればそんな心配もないのでは?