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原稿用紙5枚の掌編小説「チー坊」

数年前に、我が家の愛猫がちょっとした隙に逃げ出し、私と家内はそれこそ焦りまくって家の近所を探し回ったことがありました。
たがが猫ではありますが、私たちにとっては大切な家族でした。
幸い数日後には見つけることができ、事なきを得たのですが、そのときの私と家内の感じた思いを掌編小説にしてみました。


「やっぱりここにもいないわ」

 押し入れの中をのぞき込んでいた妻は振り向いて言った。我が家で飼っている雄猫のチー坊の姿が見えないのに気づいたのは、私と妻が夕食を食べ終えたときだ。いつもなら食事の匂いに誘われて、決まって食卓の上にまで飛び乗ってくるのに、今日はその様子がない。不審に思ってチー坊のいそうな場所をくまなく探した。しかしキャットタワーや洋服箪笥の上、さらに奴が時々忍び込んではねぐらにしている押し入れの中にも、その姿はなかった。

「きっとあのとき出ていっちゃったのよ」

 妻が記憶を探るように言った。

「あのときって?」
「夕食の支度をしているとき宅配便がきて、私が玄関のドアを開けたでしょう。そのすきに出ていっちゃったのよチー坊。ああ、なんで気がつかなかったのかな」

 妻は自分の失敗を悔いているときいつもそうするように、両手で自分の頬を抑えた。

「とにかく探してみよう。たぶんその辺りにいるさ」

 夕食を早々に切り上げ、私と妻はチー坊を探しに出かけた。アパートの階段と駐車場の隅、その脇にある植え込みの中、駐車場に停めてある車の下まで念入りに探したが、奴の姿はなかった。

「あの子、外に出られることなんてないから、嬉しくて飛び回ってるのかな」
「でも図体はデカいけど、意外と小心者だからね、どこかの物陰で震えているかもよ」

 私たちはそれぞれ懐中電灯を片手に、本腰を入れてチー坊を探すことにした。災害時に備えて購入しておいた懐中電灯が、こんなときに役に立った。

 結婚して七年になるが、私たち夫婦に子供はいない。新婚生活の高揚感もそろそろ薄れてきた頃、妻が猫を飼いたいと言い出した。私はとくに動物が好きなわけではないが、妻の意向に従った。私たちには何か愛でる物が必要だったのだ。まだ子猫の時に、妻の友人から譲り受けたのがチー坊だった。雑種の黒猫だった。

「チー坊・・・チー坊・・・」

 私たちは小声で奴の名前を呼びながら、近所の路地裏を探し歩いた。しかし、いつもの床に入る時間になっても、チー坊を見つけることはできなかった。

 チー坊の姿が消えて三日目のこと、私は仕事中にあるミスを犯した。介護士として勤めている老人介護の職場で、一人の利用者の内服を忘れていたのだ。すぐに同僚が気がついてくれたので事なきを得たのだが、小さなミスとは言え、犯してはならないものだった。

 チー坊のことで、私の頭はいっぱいだった。それは妻も同じだった。パートで働いている妻は、仕事が終わるとすぐにチー坊を探しに出た。近所ばかりか、隣の町内まで探しているようだった。

 私の仕事は日勤と夜勤が交互にあるため、勤務時間が不規則ではあるが、時間の許す限り、空いた時間は猫探しに費やした。考えることは悪いことばかりだった。誰かにさらわれたのではないか。車に轢かれてはいないか。そんな妄想に囚われることが仕事のミスにつながったのだ。

「インターネットの迷い猫サイトに登録してみたの。効果のほどは分からないけど」

 私が帰宅するなり妻が言った。

「打つべき手はすべて打ってみよう。俺、奴のチラシを作ってその辺に貼ってみようかな」
「いいかもね。あの子の写真ならいっぱいあるから」

 その苦労の甲斐もなく、さらに一週間が過ぎていった。この近辺はすべて探しつくしたが、見つけることはできなかった。妻の表情から笑顔が消えた。猫の失踪を自分のミスと思い込んでいるらしい。そんな妻が自嘲気味にぽつりと言った。

「私たちの幸せなんて頼りないものね。チー坊がいなくなっただけで、こんなにも暗くなっちゃうんだもの」

 妻の言うとおりだった。猫一匹のせいで私たちは滑稽なほど落ち込み、慌てふためいている。我々の生活とはなんて頼りなく、そして脆いものなんだろうーー。

 さらに私はこんなふうにも思うのだ。私たちが探しているのは一匹の猫だが、本当はもっと大切な切実なものを探しているのではないだろうか。私たちが今日までささやかだが守り続け、そしてこれからもけして手放すことのできない何か。どの何かを失うことが恐くて、私たちは毎日足を棒にしてチー坊を探し歩いているのではないか。それはきっと壊れやすく、脆いものなのだ。

 夕食が終わると、私たちは無言のまま部屋を出た。今晩もまたチー坊を探すのだ。私が持つ懐中電灯のライトが行く先を照らし、妻のライトが足元を照らしながら。


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