見出し画像

原稿用紙5枚の掌編小説「釣り人」

子供の頃、風邪をひいてよく学校を休みました。家で寝ているときに気になるのは勉強のことより仲のいい友達のことです。彼らは今、誰と何をして遊んでいるのか、そればかり気になって落ち着いて寝てなんかいられないのです。自分だけが取り残されてしまって、淋しいような切ないような、布団の中でそんな思いにかられたことを今もはっきり覚えています。                            2018年 5月27日 上毛新聞の上毛文芸「掌編小説」欄に掲載されました。


『釣り人』

「俺たちこれから釣りにいくんだ。ヨシ坊やノブちゃんもいっしょだせ。じゃあな」

 電話から聞こえてくるカズちゃんの声はそこでプツンと切れた。僕は二階の部屋に戻ると、ベッドにもぐりこんだ。二日前から続いている熱はようやく下がり始めたけれど、体のだるさはまだ残っている。

 カズちゃんはなぜあんな電話をかけてきたのだろう。僕が風邪をひいて学校も休んでいるのは知っているくせに。遊びに出られない僕を悔しがらせようとしているとしたら、意地悪としか思えない。カズちゃんは時々僕をのけ者にする。

―――僕はなんにも悪いことをした覚えはないのに、なぜだろう。

 けれど今は大人しく寝ていなきゃいけない。週末には父さんの一周忌がある。それまでにはなんとしても風邪を治さなきゃ。僕はそう思いなおして眼を閉じた。

 でも、カズちゃんやヨシ坊やノブちゃんが次々と魚を釣り上げる姿を想像すると、僕の胸は高鳴った。彼らの歓声や笑い声が聞こえてくるようで、とても寝てなんかいられない。母さんは仕事で夕方まで帰らない。知られたらきっと叱られるに違いないけど、僕はベッドから抜け出して着替えを始めた。

 空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうな気配だった。夢中で自転車のペダルを漕いだせいで息が切れた。

 川は中州をはさんで本流と支流に分かれる。川幅の狭い、緩やかな流れの支流が僕たちの釣り場だ。釣り場に来てみると、人の姿はまるでなかった。カズちゃんたちはどこへいっちゃったんだろう。それとも釣りにいくなんて嘘で、僕はまんまと騙されただけなのだろうか。そう考えると、僕はなんだか自分が間抜けに思えてきた。

 川面から霧が立ち上り、向こう岸の中州はぼんやりとしか見えない。聞こえてくるのは水の音と、どこかで鳴いている鳥たちの声だけだ。かすかに吹いている風が僕の頬を撫でた。いつだったか父さんが言ってた。

「風の匂いと川を流れる水音で、その日釣れるかどうか分かるんだ」

 僕は鼻から思い切り息を吸いこんだ。湿った空気は川と草の匂いがして、僕の胸をいっぱいにした。そして川のせせらぎの音は心地よいメロディーのように聞こえてきた。父さんが言っていた魚が釣れる日とはこんな日に違いない。カズちゃんたちのことなんか気にしてる時じゃない。僕は急いで仕掛けを用意して竿を振った。

 当たりはすぐに来たけれど、合わせるタイミングが悪くてなかなか釣り上げることができない。そんなことが何度か続いたあと、僕はまた父さんの言葉を思い出した。

「ウキが水面にもぐる瞬間に合わせるんだ。早すぎても遅すぎてもいけない」

 黄色い玉ウキが水面にもぐる瞬間に僕は素早く竿を上げた。最初の一匹が釣れた。魚は魚籠の中で勢いよく踊った。父さんがいたら、きっと褒めてくれたろうな。いいぞ、その調子だって。

 僕にとって父さんとの最高の思い出は、いっしょに釣りをしたことだ。長い竿を使って次々と大物を釣り上げる父さんが僕には頼もしく、誇らしかった。でも、父さんとは思い出の中でしか会えない。その思い出も少しずつ消えていくとしたら、それはなんて悲しいことだろう。僕は川面を漂うウキを眺めながら、そんなことを考えていた。

 そのときだ、川霧にかすむ中州で人の影が動くのが見えた。見間違いだろうか。僕は眼を凝らした。濃くなったり薄くなったりして漂う川霧が晴れるわずかな間に、人影がはっきり見えた。竿を持った釣り人だった。顔は見えない。ただその姿が黒い影のように見えるだけだ。

―――さっきまで誰もいなかったのに。 

 僕にはその釣り人がこの世の人ではないような気がした。けれど、不思議と怖いとは感じなかった。僕が感じていたのは、ずっと前からあの人を知っているような、そんな懐かしさだった。

 釣り人は大きく竿を振ると、片手でその竿を支え、反対の腕を腰に当てた。その姿は僕の記憶の中に喜びや悲しみや切なさやいろいろな感情が束となって残るあの姿だった。僕は手に持った竿を放り出して叫んだ。

「父さん!」

 眼を開けると、カーテンの隙間から西日が斜めに差しこんでいるのが見えた。ここが二階の自分の部屋だと気づくまで、しばらく時間がかかった。玄関から「ただいま」と、母さんの声が聞こえた。

―――夢だったのか。

 そう思ったとたん、僕の眼から涙がこぼれた。涙は頬を伝わり、パジャマの胸を濡らした。僕はその胸に両手を当ててみた。僕の心の奥に暖かい安心感のようなものが込み上げてくるのが分かった。

「父さんはここにいる」

 僕はそう小さく呟いた。

                      ――完――

                                                              

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?