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途上国在住日本人のジレンマ

3万円。
これが現在の東南アジアの平均月給である。

私は日本の大学を卒業して、新卒でカンボジアの企業に就職した。
現地就職だったので、日本の給与ほどはもらえないが、現地スタッフのマネージャーレベルの月給は頂いていた。

ただ、アルバイトでしか社会経験がなく、現地語も話せない私と比べて、一緒に働くカンボジア人たちは間違いなく即戦力だった。

彼らよりも多くの給料を貰うのは申し訳ないと感じつつも、日本の生活基準を持っている私は、何度も歯がゆい気持ちを感じた。

周りのカンボジア在住日本人を見れば、カンボジアでビジネスを起こしている人、日系企業の駐在員として働いている人、公的機関で働いている人などなど。

接客業だったため、たくさんの日本人のお客さんに出会った。

もちろん私よりも一回り年齢が高いこともあるが、彼らはカンボジアでもスーツを着用し、日本と同じ生活水準で暮らしていた。

「カンボジアの屋台飯なんて汚くて食べられない」という人も中にはいた。

別にその人がカンボジアを侮辱しているのではなく、その人が生まれ育った環境による価値観なのだから、気にしないが。



ある日、日本にいる知人に電話していた時のこと。

「週1回の休み、マッサージへ行ってきた」

と伝えると

そんな贅沢して、途上国のために貢献したいと思っているなら、現地の暮らしに溶け込めるようになりなさい

と批判された

ちなみに私が通っていたマッサージ店は、高級スパでもなく、ローカル店で、4$で1時間のマッサージを受けられる。

彼女のように日本にいる日本人にとって、途上国支援のような大義名分を持って途上国に住む私は自己犠牲を払ってでも途上国に貢献するべきだと思われいるのだろう。(実際に途上国を支援しているかどうかは別として)

つまり、現地の人と同じ生活水準で暮らせと。苦しんでいる人がいるのに、あなただけがその国で贅沢するのは違うでしょと。


わからなくもない。


私は大学生の時にフィリピンという国に何度も訪れ、そこでの経験が、ソーシャルビジネスで社会問題を解決しようと思うきっかけになった。

当時の私は、彼らとは違う環境(現地の人よりも何倍も金銭的に恵まれてきた環境)で生きてきた私を、心暖かく受け入れてくれる途上国の人に対して罪悪感を感じていた。

私が彼らの身だったら、何不自由なく大学に通い、明日が保証された生活を送っている私を憎むと思うし、受け入れもしないだろう。

それに、日本ではまだダイバーシティが多様ではなく、外国人(特に東南アジア人)に対する偏見や差別が多い。明らかに彼らを軽蔑しているのだ。


フィリピン人の友達に、このような話をされたことがある。

「あなたは旅行として海外に行くことができていいね。私たちにとって海外は出稼ぎのために行くところだから、旅行としていくなんて夢みたいだ。」

きっと彼は何の悪気もなく言ったのだろうけど、彼の言葉が先進国に生まれた私のアイデンティティを考えるきっかけになった。

先進国に生まれた私だからこそ彼らに貢献できることは何か。

考え抜いた答えは、『この環境を最大限に活かし、たくさん勉強して、いつかソーシャルビジネスで途上国に貢献する人材になる』だった。(改めて今の私の戒めになる、、)

その当時、ピュアな心を持っていた私は、日本に帰ってきて友達とディズニーランドへ行っているときさえも、「途上国には勉強することさえ許されない子どもたちがいるのに、今私はこんなところで贅沢していてもいいの?」と罪悪感を感じていた。

今は美容医療の広告ばかり見ているので、当時のピュアな心はもう失われたのだろう(小声)


途上国での就労経験や現地で国際協力に携わる人との出会いを経て、私の価値観や金銭感覚も変わった。

聞く人によっては、私はブレる人間のように思われるかもしれない。

犬の排尿のにおいがする屋台で1ドルのご飯を食べる日もあれば、支出を気にしながらも、日本人の友達と高い日本食を食べることもあった。

ときには、年上の日本人の方に高級レストランでお食事をご馳走されることもあった。

狂い狂う金銭感覚に変動に、慣れてしまったのだ。

これは、途上国に在住する全日本人が経験することなのか、それとも、新卒で海外に飛び込んだ私だけが持っている感覚なのか。

カンボジア人と比べて裕福な暮らしをする私とカンボジア在住日本人の中では底辺のような暮らしをする私。

そんなジレンマを常に抱えていた。

日本に帰ってきた今になっては、本当にパラレルワールドのような話だ。



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