小松随三

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音楽のパッション

 酒を飲んだ帰り道、中央線の車内で口論になり、男の顔を思い切り殴った。  男は警察に連れて行くと喚いた。T駅のプラットフォームに降りた中年の背中を蹴り上げると、取っ組み合いになり、私から二、三発殴り、頭突きを入れた。男の口もとに鮮血が滲んだ。  なにか大声で抗議して、私に血を飛ばしてくる。喚くなと言うと、腹いせに血の混ざった唾を吹き掛けてきた。私のシャツに粘度のある、赤いまだら模様が浮かんだ。黒い背広の汚れは目立たなかった。  駅員が駆け付け、間に割って入り、トイレットペーパ

    • ペトロニウスの転生

      四季を織るこの国の冬は 天然色を売り払ってさみしいのですが あなたの髪はいよいよ濃淡を強めて (アンニュイを吸い上げたように) 一本いっぽんになにか 名状し難いこころを感じるのです あたかも暗黒物質の結晶みたいに 偉大なふしぎを含んで 銀河を整理してしまう力なのです(ハレルヤ、ハレルヤ) あっは 暗い空のカンバスにて 散りばんだ閃光に (そいつはほとんど爆発でした) 胸を撫でるような 哀しみを見い出すぼくは この時代のペトロニウスなんだろう 錯誤かもしれない けれどあなたの相

      • 天国に行けない人だけが読めるnoteです。

        • 人造人間キティ

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        音楽のパッション

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          『オッペンハイマー』と忘却できないもの

           クリストファー・ノーランの映画を鑑賞する度に、スタンリー・キューブリックを連想してしまうのはなぜだろうか。  家族の交歓、そして相対論を超える愛をテーマにした『インターステラー』は、明確に『2001年宇宙の旅』の無機質な人間像への回答だろうし、『オッペンハイマー』の扱う赤狩りの描写、そして科学考証への誠実さは、ブラック・コメディーである『博士の異常な愛情』を念頭に置いているのではないか。  確かにノーランがキューブリックへの敬意を公にしている以上、二人の監督を対比させるのは

          『オッペンハイマー』と忘却できないもの

          お裾分け

           しとしと降る梅雨は、インドのモンスーンのお裾分けなんだよ、と子どもの頃に教わった。洗濯ものがなかなか乾かないのにも、摂理があるらしい。異国の土地を打ち据える大雨と、やさしい湿気を湛える頭上の天気は、同じ旅行客に見えないけれど、長旅で疲れたモンスーンが梅雨の正体である。  梅雨ほど暇つぶしに困る季節はない。散歩道はだいたい水たまりの悪路になってしまい、悪路を抜けてカフェを訪ねようと考えても、裾を濡らすことを思えば、最初の一歩がなかなか出ない。  それで、本を読むことにした。ふ

          火炎を炙る

           私はこのように聞いた。  横たわる青年の腋に山河がある。胸から腹の肉の筋は弓弦のように引き締まっている。その髪は月のさらわれた夜よりも黒々としていた。  絨毯から体を起こし、シッダールタは饗宴のなかを歩いて行った。足もとでは酔い潰れた女たちが手や脚を絡めて寝息を立てている。群青や紅の着物は輝かしいけれど、はだけた肌は酒や果物をまぶして嫌な匂いがした。  シッダールタは妻の姿を求め、女たちを踏まないように彷徨ったが、どの寝顔にも区別を見出すことがなかった。  鞭のように繊細な

          火炎を炙る

          愛想笑い

           彼女と会ったのは、鉛のように重い、雨の日の午後だった。  上司に指示されて、S駅の東口から少し離れた〈レアリア〉というカフェで彼女の訪れを待った。  店内は挽いたばかりの豊かなコーヒーの匂いがしたけれど、カフェインの受け付けない女性を相手にしたことがあった。  結局、私はジンジャーエールを口にしながら、出入り口に目の届く席に座り、女性を待ち構えているのでもなければ、リラックスしているのでもない姿勢を取った。準備は出来ていた。  しかし、時刻から三十分が過ぎても女性は現れなか

          私小説のために

           家に誘った女の子と是枝裕和監督の『歩いても 歩いても』を見た。  二人とも若くて、気難しくて、いちばん寂しい時期だった。ちょっとした言葉のあやで、すれ違ってしまう。  その日も、喫茶店でお喋りするには、消耗し過ぎていた。こういうムードで、是枝裕和の映画を選ぶのは、ちょうど良かっただろうか。  『歩いても 歩いても』のあらすじ──夏休みの帰省で、一堂に会する親戚。日差しのなかで、子どもたちは跳ねるように活発だけれど、大人はどこか億劫だった。  実家の老夫婦は、長男を水難事故で

          私小説のために