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私のカタチはどこから来たの?

背景の前置きをすると、私は精神科病棟に4ヶ月いて退院してまだ2日終わった外界にとっては
赤ちゃんか、いや、
怪我で登録抹消された後マウンドに戻ってきたばかりの野球選手のようなものである。

無理しないでねと言われてもやりたいことはたくさんあるし、
さっきの例えでは160キロのボールを投げて完封したいと思うようなものだ。

でも、素直に(のふりをして?)
「わかりましたー!気をつけますね!」と
言ってしまうから厄介だ。

そんな受け答えをどこでもしているので、
周りからは、
”素直ないい子ちゃん”
と思われがち(自惚れすぎかな)である。
こんな文章を書いていることは、誰も知らない。

今日、そんなことを考えていると、由来が気になってきた。

私はつい最近まで、
“家庭はなんだかんだあるけれど、伸び伸び育ててくれた親や親戚や友人のおかげ”
と捉えていた。

でも、果たしてそれだけなのかな?とここ数日思うようになった。

これは卵が先か、ニワトリが先かの話になるけれど、
恵まれた環境から素直な表現ができるようになったのか、
その逆説で、
素直でいることで恵まれた環境に置かせてもらっている
なのかな。と。

どっちなんだろう?
という感じ。

私のカタチはどこから来たの?
作ってもらってたのかな、自分で作っていたのかな。
それは果たして自分のためになっているのかな?

今思うのは、どんなカタチであれ、しなやかな柔いものでありたいということだ。
カタチと考えるから苦しくなるんだ。
一つにはまる必要はない、姿カタチを変えたって今さら誰に咎められるわけでもないのだから。

私のカタチ、素直のカタチ、色々、
こんな捻くれた文を書いている私だって、
立派な私というカタチなのだ。
どこから来たのなんて、問いかける必要もないのだ。今をしなやかに生きよう。

マウンドに立った病み上がりの私、プレイボールの合図を待っている。

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