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映画「怪物」を鑑賞して

はじめに

是枝監督の「怪物」を見ました。見てからずーっと頭がぐるぐるしています。衝撃を沢山受けたので、その時感じた気持ちを記録しておきたいなと思い、記事を書いてみます。
書き終えるまで、割と時間がかかっているので感想が前後したりしてます。

まずはなぜこの時期に鑑賞したのか、その経緯を書いておきたいと思います。


鑑賞するに至った経緯

公開前は「ベイビーブローカー」から久しぶりの是枝作品だったこともあり非常に楽しみにしていました。「怪物だーれだ?」という言葉と共に流れる予告映像は、あらすじもあいまって地方を舞台にしたサスペンスまたはミステリー作品のように見えました。

大きな湖のある郊外の町。
息子を愛するシングルマザー、
生徒思いの学校教師、そして無邪気な子供たち。
それは、よくある子供同士のケンカに見えた。
しかし、彼らの食い違う主張は次第に社会やメディアを巻き込み、
大事になっていく。
そしてある嵐の朝、子供たちは忽然と姿を消した―。

https://gaga.ne.jp/kaibutsu-movie/about/「怪物」公式サイトより

私が今まで鑑賞したことのある是枝監督の作品は「そして父になる」「三度目の殺人」「万引き家族」「ベイビーブローカー」です。社会の可視化されない部分に焦点を当てた作品を描き続ける監督はとても珍しいと思っていまました。(それを商業ベースにのせられるという意味も含めて)
なので、予告やあらすじを見る限り教育現場の腐敗あるいはそのしわ寄せ、家庭環境の相違から起こるトラブル、少年たちの反抗心や、陳腐な表現にはなってしまうけれども心の闇…そういうものをテーマにしているんではないかと予想をしていました。
けれども、映画公開を前にして「怪物」がカンヌ国際映画祭で最優秀賞脚本賞とクィア・パルム賞を受賞したニュースを目にしてあれ、となったのです。
カンヌの賞には詳しくないけれど、クィアとついているからにはそれを題材にしていなければ受賞はしないだろうし、そういったテーマがこの映画に含まれていることになります。
予告や宣伝では一切そのことについて触れられていなかったので、テーマが物語の根幹に直結していることは簡単に想像できました。
ニュースでは是枝監督が賞を受賞したことについて感想を求められていて、
その際の発言は以下の通りでした。

そのことに特化した作品だと自分としてはとらえていない

https://www.cinra.net/article/202306-kaibutsu2

もちろん語ったことはこれだけではないけれども、最初にこの言葉を出したことに驚きました。賞を贈られたということは、物語における根幹の一つのテーマである(はずな)のに、今まで何度も繰り返されてきた、マイノリティの存在を矮小化してまう発言を、そしてその賞に値する作品を撮った監督自らするなんて大丈夫なんだろうか…と。

※「クィア・パルム賞」は、2010年に創設されたカンヌ国際映画祭の独立賞のひとつで、LGBTやクィアを扱った映画に与えられる賞

そしてこの発言を受けて、X(旧Twitter)で案の定、批判が巻き起こったのを覚えています。物語を観ていないのでその時点では断じられないものでしたが、その発言を受けて気持ちが萎んでしまい、鑑賞する気は全くなくなってしまいました。

そのまま時は流れて、2024年3月8日日本アカデミー賞の受賞式があり「怪物」で新人賞俳優賞を受賞した黒川さんのスピーチの内容がSNSで話題になっており、私も動画を見て、その内容の深さに驚きました。姉にこの年齢ですごいね。なんて話していたら、「怪物」観たかったのに、と言われました。姉は是枝監督の作品が好きで「怪物」も観に行こうとしていたのですが私は上記の経緯があって、今回はいいんじゃない、と伝えてしまっていました。
しかし、これだけ素晴らしいスピーチをした俳優の子が演じていて、その気持ちも映画に出演したことが少なからず寄与しているだろうし、是枝監督の作品だから(2010年に放送されたmotherというドラマが好きで、その脚本家坂本さんとのタッグということもあり)意味のない物語では絶対ないし…。と考え、観てもいないのに批判をして鑑賞の機会を奪ってしまったことを姉に申し訳なく感じたこともあり、配信サイトでレンタルして鑑賞することにしました。

※ここから映画の内容について触れています。見ていない方はご注意ください。

エンディングの先にあるものとは

鑑賞し終わった後、すぐさま、これで終わり?となってとても混乱しました。美しい音楽と二人が先ほどまで嵐だったとは思えない陽ざしの下、駆け出していく先に、線路に出るのを阻んでいたはずのバリケードが無くなっていました。正直、この演出について最初は死を連想してしまいました。
けれども、希望にあふれる音楽と、水路から這い出してきて「生まれ変わったのかな」「そういうのはないと思うよ」「ないか」「ないよ。もとのままだよ」「そっか。良かった」という湊と依里のやりとりがあったことを考えて、この物語は少年たちが生きていなければ意味がない、と感じ二人は生きていくんだ、と一旦自分の中ではその結論に落ち着きました。

坂元さんも製作陣もそうだと思うけれど、少年たちが置かれている現実の状況がそういうものだという認識のもとに、それでも彼らが自分たちなりの幸せを手にしていいのだということ、気持ちを表明していいのだということを、そうできた子どもたちを祝福したいという思いが僕らのなかにはあったから、ああいった結末として描き、そして最後の坂本龍一さんの“Aqua”につながっていくというイメージをしていました。

https://www.cinra.net/article/202306-kaibutsu2

二人の少年の行く先について保証が欲しくなり、監督のインタビューをネットで漁り始めました。クィアが描かれる作品は悲劇的な結末が描かれることが多く(実際の歴史を基にした作品を別にしても)そうであればこの物語は再度、当事者の方たちに無力感を与えかねないのでは、と危惧した気持ちがあったので、こういった趣旨で監督・脚本家はじめ製作陣があのラストを表現したということが分かりひとまず安心しました。

少年たちが大人たちの手をすり抜けてふたりの幸せを手にしたということのほうが、むしろ大事なのかなと思うんです。その部分は脚本を練るなかで、僕も坂元さんもずっと変わりませんでした。その着地点が現実的にどういうものなのかはともかくとして、坂元さんと僕は、ふたりが大人の手をすり抜けて笑い合っているっていうことだけは、見失わないようにしようと思っていました。

https://www.cinra.net/article/202306-kaibutsu2

終幕は、脚本開発の段階で大きく変わっていたそうだ。「子どもたちを抱きしめて終わる話じゃない方がいいと。大人に救われて子どもが世界に引き戻されるより、大人が置き去りにされる方がいい、大人にはつらく厳しいけど、未来があるなと思った」

https://hitocinema.mainichi.jp/article/interview-koreeda-kaibutsu


ただ、上記インタビューにもあるように、大人の手をすり抜けてふたりの幸せを手にしたということが、感情移入して鑑賞していた自分にとっては嬉しくもあった一方、大人に救われる、というよりは大人には子どもを守る義務があると私は思うので、湊と依里を受け入れない/無自覚に加害してきた世界(狭義的に言えば親・先生)が、その加害性を自覚した後、2人に対して真摯に向き合う視点があったらどうだっただろうかとも考えました。

保利先生が二人の作文のアクロスティックに気づいて一つの結論を導き出して、嵐の中、湊の家に行き、「麦野。ごめんな。先生、間違ってた」「麦野は間違ってないよ。なんもおかしくないんだよ」と外から叫びます。
ただ、この時すでに湊は家におらず、保利先生の言葉を聞いていません。物語の中で大人(世界)が湊(=依里)に対して謝罪をし、あなたはそのままでいい、と肯定してくれる言葉が直接的に出てくるのはおそらくこの場面のみのような気がします。(肯定という意味では校長先生との音楽室のシーンも当てはまるかなとは思いますが、加害側の気づきとセットという点において)
また、早織が「好きな人がいなくなる夢を見て、いつも泣いているんだよ」「優しい子なの」と言うのは、全てを理解していなくても、依里という子が湊にとって特別な存在であることには気づき、そこに苦悩があったことにも気づきかけている描写だと思います。
二人が危険を省みず嵐の中必死に泥をかき分けて、湊と依里の名前を呼ぶのであれば、少年たちに対して傷つけたことに対する償いと、君たちは間違っていない、そのままでいいんだよと肯定の言葉をはっきりと伝えてくれるシーンがあったらな、と考えて…。

エンディングについて、映画で描かれた人たちの、この先の人生はどう続いていくのかを考えさせるというラスト自体は好きです。
全て描かれすぎると綺麗にまとまって、受け取り手の思考を奪って内容やメッセージについて考えることがあまりなくなるから、と思っているので。

「イミテーション・ゲーム」(2014年)・「ドリーム」(2016年)という映画がありますが、前者はエニグマを解読したイギリスの数学者アラン・チューリングを描いた作品で、後者はNASAで働く黒人女性キャサリン・ドロシー・メアリーの歴史的偉業を描く作品です。
どちらも史実を基にした作品ですが、マイノリティを描いた作品という点で共通していると思います。
イミテーション・ゲームは時代を行き来する構成の作品で、アランは偉大な功績を残した一方、同性愛者として有罪判決を受け失意のうちに自らの手で生涯に幕を下ろします。
ドリームはNASAでの人種差別に立ち向かう女性たちの姿を力強く描き、彼女たちが各々の実力を発揮し、宇宙開発に多大な貢献を残します。
映画内でアランの名誉回復がなされたことが伝えられており、またイギリスでは2013年に同性婚法が制定されています。
また、ドリームは映画内で差別が無くなっていくさまを目の当たりにできますし、エピローグで彼女たちの活躍を知ることもできます。また、1964年に公民権法が成立したことも私たちは歴史として知っています。
エンディングと上記の事実が存在していることが繋がっているので、私はこれらの映画を見た後、現代が(少なくとも描かれた時代よりは)、彼ら/彼女らが自分らしく生きられる世界になっているということを、良かった、と思ったのです。そんな時代があったけど今は違う、ということに、上手く言えないですが多分安堵したんですね。

史実を基にしている作品とは単純に比較できませんが、日本におけるLGBTQの方を取り巻く状況を知っていれば、この先二人の生活が続いていくことを考えた時、ラストで晴れた光の下を思いっきり走っていった湊と依里の行く先に、情けない話ですが現実はまだそこに追いついておらず、やるせない気持ちになってしまったこともあり、「怪物」という作品において、何かしらの言葉や映像でのアンサーが欲しくなってしまったのかもしれません。

※追記※
初感としては上記のように考えて、後で保利先生が土砂崩れの山で動揺する早織に「死なないでいい、今のままでいいって言ってあげてください」というシナリオブックにある言葉を読んで、映画内には入ってないですが、ちゃんと伝えるべきメッセージが構想にあったんだと知れて嬉しかったです。
これを省かないでいてくれたらな、と。
ただ映画で描かれない先の現実で大人たちと少年たちの対峙はあって、それがきっと悪い方向にはいかないだろう、ということは2章の終わりの保利先生と早織の気づきによって、示唆されているのでそこからは現実の私たちにかかってるのだろうと思えてきて、映画という媒体ではむしろあの終わりだから思考が止まらなくなり、こんなに心に残ったのかなと…。色々知った後見れば、Aquaがこれほどマッチするエンディングもないな…と思えてきて。
う~ん…。映像を繰り返し見て、他の方の感想や意見を読んで、何度も考えが変わったり、逆に自分の中で譲れない所があったりなのですが、そうなれること自体が良い作品の証だなとも思います。

「怪物」をめぐる鼎談

ちょうど自分が鑑賞したタイミングで上記の鼎談が上がっていたので、リンクを(有料記事です)
評論家の方々が、私がモヤモヤしていた部分を言語化・代弁してくださっていて非常にありがたかったです。一方で是枝監督の自身の認識のアップデートに対する姿勢を見せてもらったこと(自分にも当てはまる部分が当然あって反省しつつ)、監督が作り手として意図したシーンやカット・セリフの取捨選択/演出の説明をこういった対談の場でしてくださったこと、お互いがリスペクトを持って丁寧に話し合われていて、こういった場を見せもらえる機会自体が貴重なので大事に受け取りたいなと思いました。

※追記
鼎談を読んで、そして友人とも色々と話して自分の考えを整理していくうちに、結局プロモーションの方法やメディアへの対応の仕方がかなり不誠実だった点が、一番モヤついた理由かなと。
是枝監督の「何も知らずに見てほしい」、という作り手の気持ちはわかるのですが、それであればプロモーションにおいてはなるべく3章がネタバレと捉えられてしまうような広報・予告を作成すべきではなかったんではないかなと思います。それかもう商業映画においてはあまりにも難しいですが、「ぼくたちはどう生きるか」手法を取るかしかないような。
どう見てもあの予告はサスペンスとかミステリーの結末に向かって「あっと驚く何か」があることをこちらに想起させる類のものでした。
上手く言えませんが、それが結果としてクィア性をギミックの一つであるように感じられる(受け取られかねない)プロモーションの仕方が問題だったように思います。

私は「怪物」の構成は作品としてあるべき一つの手法だと考えていますし、鑑賞してもそこにおける3章がネタバレ・ギミックに当てはまる、とは思えなかったです。
実際クィア・パルム賞を受賞したことがニュースになったので、宣伝側が伏せていた二人のアイデンティティがある程度事前に分かった状態で映画を観ましたが、作品の完成度や面白さは何も変わらなかったですし、事前に知っていたことで(私は作り手の意図は先にある程度知っておきたい派なので)早織のお父さんみたいに~、家族を持つまで発言や先生からの無自覚な言葉、依里の父親の態度などが湊や依里にとって辛く突き刺さり彼らを追い詰めていくものだということを観ながら感じられて、(自分では体験していないが、それを追体験させてくれる、他者の感じる痛みを理解するという点において。また当事者の方が見たら辛さを想起させるシーンはかなりあったのでそれを防ぐという意味でも事前に知らせる意義はあると思います。)むしろ1・2章の端々から先に大人・社会(我々の)加害性について考えることができたんじゃないかなと、思います。

僕自身は第3章で隠されているのはクィア性ではなく「私たちの加害性」であ り、それが再帰的に捉えられていくと認識している。「怪物とは私たちのことだったのだ」 と分かっていくプロセスなので、そこは伏せたいと映画会社とも話していました。

https://www.asahi.com/articles/ASS323PGSS2WULLI00F.html

伏せても伏せなくても気づく人は気づくし、気づかない人は気づかないので、ある程度情報を開示してむしろ本質に気づいてくれたらそれでいいんじゃないですかっていう。結局はこの目で観なきゃ作品の全容は分からないわけですし。
元々「怪物」というタイトルは(仮)状態のままで途中で「なぜ?」というタイトルに変更していて、「怪物」というタイトルから(仮)を外すことを坂元さんが難色を示していた、とインタビューで語られています。
確かに「なぜ?」であれば、テーマを取り違える人は少ないだろうし、「怪物」というタイトルのインパクトが強いのもあいまって、(それにも少なからず監督・プロデューサーからあえてこのタイトルにしたかった意図があったと感じますが)誤解を生んだ面が大きいんじゃないかと思います。
個人的には、最終的には怪物が誰かって考えること自体、ストーリーが進むにつれて忘れていて、なんでこの子たちが自分らしく生きられない世の中なんだろうと、とにかくこの子たちに幸せになってもらいたい、とその一心でした。(加害性については、うん…知ってる…という感じだったので…。)

※追記※

アイデンティティに葛藤する、葛藤させられる少年たちを、映画の物語として利用してはいけないということです。自分自身を好きになれない好きにさせてもらえない人たちのことを書きたいという考えがあったので、そこが間違っていないかどうかが大きな課題としてありました。(中略)ただただこの子たちと共に生きる時間であってほしいと思っていました。

「怪物」パンフレットより

パンフレットを手に入れてインタビューを読みましたが、坂元さんが書きたいと思った物語とそれによる少年たちへのスタンスを知れて良かったです。
「自分自身を好きになれない、好きにさせてもらえない人たち」のことを書きたい…この言葉を読んだとき胸がしめつけられるような、泣きたくなるような、そんな感覚になりました。内容は省略していますがここで語られている言葉こそが映画に込められた全てだと、私は感じました。

そしてなおさらこのような思いで書かれた作品の良さを観る前の段階で台無しにしたプロデューサー・宣伝・広報にこれからはもっっと頑張ってくれ…という気持ちです。日本の映画の宣伝のレベルっていつまでこうなんでしょうか…?監督や製作陣が主体的に色々と考えてくれても、ここが変わらないと何も変わらないので、、頼みます。

作品が持つ力

「物語の中心にいるのは、ほかの子どもたちと同じように振る舞うことがで
きず、またそうしようともしない、とても繊細で、驚くほど強い2人の少年です。世間の期待に適合できない2人の少年が織りなす、この美しく構成された物語は、クィアの人々、馴染むことができない人々、あるいは世界に拒まれているすべての人々に力強い慰めを与え、そしてこの映画は命を救うことになるでしょう。登場人物のあらゆる面を、繊細な詩、深い思いやり、そして見事な技術で表現した是枝裕和監督の『怪物』に、私たち審査員は満場一致でクィア・パルム賞を授与します」

https://moviewalker.jp/news/article/1139571/p3

ここまで、映画への思う所な部分を先にばーっと書いてしまいましたが、カンヌ国際映画賞での審査員長のジョン・キャメロン・ミッチェルさんの言葉もまた事実で、深く染み入ります。

私もこの作品を鑑賞して本当に良かったと断言できます。
詳細に一つ一つ感想書いてたら永遠に終わらないので、簡単に言えば、
1章の得体の知れない他者への恐怖、コミュニケーションを怠る弊害、2章における人によって反転する人物像、観てた世界が180度変わる体験、3章で完璧に二人の少年の物語になって、(大人が3章で全くと言っていいほど排除されているのは意図的ですよね。例外的な存在は湊と同じ境遇で共感ができる校長先生)彼らの幸せを願わずにはいられない、エンターテインメント性を持った上でこちらをしっかりと見つめてくれる作品だな、と。

心に残るシーンや台詞がたくさんあって、感情を揺さぶられたからこそ自分が感じたこと思ったことを書き残しておきたいという気持ちになれたと思っています。映像の細やかさ・美しさ、演出、音楽、俳優陣の演技は日本映画の中でトップレベルだと思いますし、特に、脚本の台詞回しと構成は単純に凄いな、と感心するばかりでシナリオブックは映画を見終わった後ぜひ読んでもらえたらと…。映画の引き算の塩梅がわかるとともに、色々と内容が補完されます。映画を観ながらシナリオブックと照らし合わせると細かい気づきが沢山あって楽しかったです。


最初に延々と書いたエンディングについても、シナリオだけを読めば是枝監督が何度も答えていますが、少年たちがこれからも「生きる/生きていく」ということが分かりますし、二人を呼ぶ大人たちの声も入っていて、湊と依里へ降り注ぐ希望と、こちらへの問いがもっと明確に描かれてるので、監督が強く「生」を感じるようにエンディングを演出した、というのにも納得がいきました。
映像表現をするにあたってカットされた部分がありますが、私はその部分を含めることで、よりこの作品の伝えたいことがダイレクトに感じられるので(映画という媒体だと蛇足な部分と感じるのも分かるし、良し悪しではないのですが)、シナリオの満足感が非常に高いです。
その中でも特に、依里の父親が苦悩する姿があること、校長先生が退職届を書く~二人との交流の一連はこちらが捉えきれていなかった彼女の人間性(心情)が垣間見える(そして二人が彼女にとっても救いになった点)、ドアの前で湊が依里に親の、大人の意見が必ずしも正しいわけじゃない、ということを伝えるために選んだ言葉と自身の率直な想いを口にする、とても好きで、何度も読み返してしまいます。

演者の方々に関しては安藤さんはもう言わずもがなですが、黒川さん・柏木さんのお二人は本当に上手で驚きました。是枝監督の作品は子役に対しては脚本なしセリフを口頭伝えで自然な演技を引き出すことで有名ですが、今回は鑑賞したときその方法でやってるのかな…?と思いましたが、やはり脚本を渡してやっていたということだったので、それでも自然な演技であそこまでやり切ってしまうのだから、ただただ感心するばかりでした。
そして、個人的に日本アカデミー賞は好きじゃないんですが、永山さんの役の演技力に圧倒されましたし、この作品の転換点を担っていたので、ノミネートもされていないのは驚きでした。同じく脚本も同様でこちらも驚きました。
「怪物」に関しては坂元さんの脚本を映像に出力する際にイメージ通りあるいはそれ以上に撮れるのはだれか、となった時に是枝監督にオファーがあったように、監督の力量があって傑作になったのは間違いないんですが、この映画の肝は坂元さんの脚本の方だと感じました。

脚本にミスリード(とこっちは後で思わされるわけですが)がある、として、ただ実際、現実でもこれくらい頓珍漢な対応をすることはいくらでもありうるよな…と思っていたら実生活でまさに3つの視点から物事を見なければならないという体験をして、信じられないくらい話が噛み合わずとても疲弊するという。コミュニケーションの不足は時としてとんでもない事態を引き起こすことを身をもって知ることができました。
そして本人のせいではないのに、嘘をつかざるを得ない状況って本当に苦しくて嫌なものだな、と。理由に差はあれどそういった経験は少なからずしてる人の方が多いのではないかと思っていて。
そこから歯車が狂っていっても、それは本人から起因したのではなく、そうさせた周囲であったり状況が問題なんですよね。それが上手く描かれていて本当に凄いなと思いました。

世界は生まれ変われるか

少年2人を受け入れない世界にいる大人のひとりとして、自分自身が少年の目に見返される、そういう存在でしかこの作品に関わる誠実なスタンスというものを見つけられませんでした。なので脚本の1ページ目に『世界は、生まれ変われるか』という一行を書きました。常に自分にそのことを問いながら、この作品に関わりました。

https://moviewalker.jp/news/article/1139514/

私(おそらく鑑賞した方達の大多数)が一番印象に残った台詞が、校長先生が音楽室で湊に言った「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。誰にでも手に入るものを幸せって言うの」です。
私はこれを聴いた時に、雷に打たれたような感覚になりました。
現代の日本において、あらゆる人に認められている権利というものは少ないと思います。この言葉を聞いて、一部の人だけに認められている権利を幸せとは言わないよな…、とあらためて気づかされて。
湊が「なんで生まれたの」と亡くなった父に問いかけずに済む、湊と依里が生まれ変わるなんて考えることもなく、ただ幸せを手に入れられる世界にする、つまりその現実を変えることができるのは社会を構成する一人、有権者である私たちなんだと再度実感させられましたし、苦しい気持ちになりました。
毎回、選挙に行っても変わらない現実に絶望して、無力感と怒りが湧いてくるのですが、この映画を観て、微々たる力ですが絶対世界が変わる(変える)まで諦めない、って思えるようになりました。
まわりくどくいいましたが、うだうだしてないで、早く世界生まれ変わらんかい!!というのが率直な気持ちです。

最後に

超長々と書いてしまいましたが、かけがえのない作品に出会えて、最高の体験をさせてもらいました。これからもずっと心に残り続けると思います。
遠い将来の話ではなく、当たり前のこととして、湊と依里が先に手にした幸せが実現されますように。





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