テキスト考8 メモとテキストと報告書

類義語を調べることは嫌いではなく、類語同士の微妙なニュアンスや語感の違いを吟味することは面白い。言葉はまさに植物の葉のように多様で、テキストの形も無限に考えられる。

日本語のカタカナ語としての「テキスト」が持つ感触を、私は単に「書き記された文章」と捉えたい。書き記すという思考の濾過を経て紡がれた言葉は、多少なりとも書き手の人間・人格を帯びているものと考えたいと思う。

複数件の「投稿」というテキストから、書き手の人間をプロファイリング的に推理することがある。推理が当たっているかは確かめようもないことであるし、テキストが全人格を象徴しているとも思わないので、まったくの酔狂としか言いようのないことかもしれないが。

オーラル・ヒストリーという言葉を思い出した。書かれざる物語、テキスト化されない物語にも当然、残されなくてはならない歴史の一部が存在している。あらかじめ書かれたものだけが歴史のすべてではない。しかし、時を超えて残すためにはテキスト化が必須でもある。

メモを取るという卑近な日常的行為も、テキスト化と言い得るだろう。このメモを取るという行為は、実務上まったく疎かにできない。あらゆることは書かないと忘れる。メモを文書にまとめ、文書をさらに報告書に仕上げる。公私を問わず、私は多くの時間をテキストのために割いているといえるかもしれない。



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