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学び。

誰かに何かを教えてもらったり
自ら何かを知るために勉強するとかをさすのだろうが

何故、学ぶのだろう?

学生時代、自分の思い通りにことがすすんでないのを棚にあげ勉強に対し身勝手に言いたい
放題だったのを思い出すと懐かしくもあり
つい笑みも浮かぶ。

両親のアドバイスで勉強そのものから知識を得れることもその通りだが、付随的に忍耐力、
計画力、実行力も育成でき創造性や
心の豊かさ、判断力に豊富な切り口を生み
物事に対する理解力が期待できると・・・
それが教養だとも教えてくれた。

大人になる準備だと・・・

無理やり意味を求めそう言い聞かせてもいた。

心の奥底の方で傍観者を装っていた。

当時は両親も“やんちゃ者”のあつかいには手こずったのだろうと今となっては感謝しかない。

黙って見守ってくれてたことに私自身、
安心感を感じてもいたが真のそれでないことも薄々わかっており結局は舐めていた。

若気の至りと一言で片付けるのも口惜しい感じもありあえて思い返してみようと思う。

勉強は出来る方だった。

ある時期より何故そうなるのか?と腹落ちせずに解決されないとなると丸暗記を導入せざる負えないことで興味も湧かずにいた。

結果、後回しにもしていた。

求めてもいない短期間という期限付き
レースに参加させられた感も拭えなかった。

所謂、受験というやつだ。

安易にテスト前は一夜漬けを慣例にし、
時間を掛けて少しづつ積み上げるべき忍耐に対し結果が伴わないことへの苛立ちが凌駕し、
次第に焦りも吹き飛ばすほどの開き直りが発動された。

結果には時を要するとは思ってもいなかった。

逃避したことでさらに負の遺産は膨れ上がっていった。

勉強が出来れば素晴らしいのか?
問いかける始末で、言ってしまえば粘り強く
繰り返すことが好きでないとまで自分なりの
勝手な解釈を導入した。

今思えばやり方を間違え勘違いもしてた。

受験には受験のやり方がある。

ロジカルテクニックだ。
学びとはあえて別物と捉えるべきだった。

ビジネスシンキングがそれにあたり
ターゲットを決めることから始まる。
志望大学とかがそれにあたるのだろうが
それにより自ずと勉強範囲、
戦うフィールドが見えてくる。

その上で自分の学力を知る。
現状把握のフェーズだ、
強み弱みを整理してそれに基づいた無理のない計画をあるべき姿から逆算して作る。

参考書もあれもこれもでなく信頼できるものに絞り基礎を固める。
インプット、所謂、理解と暗記のフェーズをこなしアウトプットでテストを繰り返す、応用と実践のフェーズに移行する。
特にこの時間を多くとり勉強する習慣をつける。習慣化するには1ケ月もあれば十分だった。

重要なのは結果に一喜一憂せず特に受験においてだと思うが弱みを重点的にこなしつつ底上げしながらも都度、完璧にすることは避ける。
とにかく止まらず続けるのがいいのだろう。

インプットでもある基礎をつける期間では
参考書をノートに五感を総動員してまとめるのもひとつだ。

それからはひたすらアウトプットとしての
問題を解くフェーズとなりこの期間は全体の
半分以上、7割近くを要するのが必要だったと感じている。

受験には一定のパターンもあり繰り返すことで傾向もわかって効率を上げるための方法が見えてくる。

但し勉強ばかりの泥沼的な時間の使い方ではなく勉強時間と余暇とのメリハリも必要だと感じてもいる。オンオフの切り替えだろうか。

学びは本来、面白く楽しいものだと思う。

最初の受験というカテゴリーで
学ぶこと全てに嫌悪をもってしまうのは大いなる勘違いで損失へとつながる。

本来の学びとは選択肢の拡大を伴う理解する力が心の拠り所をもたらすと信じている。

教養。

私はこれからも学び続けたい。

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