映画「オッペンハイマー」 ①鑑賞前の感想

映画「オッペンハイマー」を観たので、その感想を2つ記したい。鑑賞前に準備していた感想と実際に鑑賞した後の感想だ。

今回は鑑賞前の感想を記す。

この映画ほど「感想」を準備して観た映画はこれまでない。戦争やその記憶について少しだけ勉強してきた私にとって、原爆を扱ったアメリカ発の映画において、原爆がどのように描かれているのか、広島・長崎における被害の描写をシーンとして映し出せるのかなど、一つの作品としてのあり方自体にとても興味を持っていた。

ただ事前情報として、広島・長崎の描写はなく、オッペンハイマー博士の主観、アメリカの視点で映画は進むことは把握していた。この時点で、そのような映画が日本で公開されることに意味があると考えていた。

後続の文章の前提として、私は原爆が広島・長崎で使用されたことは全くもって正当化は許されないものだと考えており、その被害の実情を体験者が語ることは非常に重要なことであると思っている。

一方で、日本社会における原爆や「あの戦争」についての言説が閉じてしまっていることについても批判的である。戦後80年近くが経過しようとしているにも関わらず、戦争を巡る言説が体験者の話を聞くだけでは、なぜあの戦争が起きたのか、原爆が使用されたのかについて思考することができないと考えている。

犠牲者の記憶や被害の記憶は、加害のそれよりも記憶空間の範囲を狭め、ある種のナショナリズムを生成する土台となる。

よって日本国内だけの視点だけでなく、相手国からの視点を取り入れることは戦争や歴史、国際政治を考えるうえで、非常に重要だと考える。また歴史という意味では、第2時世界大戦の終了後に冷戦へと続いていく過程も理解し、核兵器の恐怖と共にあった冷戦という時代を見つめなければいけない。1995年生まれの私は冷戦を知らない世代であるし、冷戦が崩壊して既に30年も経過していることを考えると、冷戦も立派な過去の歴史である。原爆の被害の記憶を聞くだけでは十分にその後の歴史を見つめることはできない。

日本の敗戦による第2時世界大戦の終結から現在のロシアによるウクライナ侵攻、イスラエルによるパレスチナ侵攻に至るまで、世界中で戦争は度々起きてきた。日本社会の閉じた戦争の記憶や言説を受け継ぐだけでは不十分であり、本気で「戦争を防ぐ」のならば、その歴史やメカニズムを他の事例からも学ぶ謙虚さが必要なのではないか。

前置きが長くなったが、映画「オッペンハイマー」にておいては、おそらく広島・長崎への原爆投下だけでなく、その後の冷戦下での核兵器の恐怖といった視点も提供してくれることを期待していた。そのため、「広島・長崎の被害描写がないことに対する批判は理解はできるものの、核兵器がもたらしたものをより幅広く知れる点は非常に重要」といった「事前の感想」を準備していた。

* ②鑑賞後の「感想」に続きます。(多分近々)


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