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親子の逆転関係と罪悪感

母は私を愛していた。と私は結論づけることにした。

母が亡くなって半年経った。喪主の父の意向で彼女の葬式にも納骨にも参加は叶わなかった。

母について考えても今更どうにもならないということは理解している。でも心に燻る何かが残っていた。母について祖父や祖母、親戚に尋ね回った。彼女の生きていた時代を知りたくてジェンダーについての本やデータを漁った。

私はいわゆるデキ婚の子どもだ。
第一子であるが、私の誕生後に籍を入れている。
計画的に出産をしたわけでは無いようだった。
ただ、デキ婚でも幸せな家族はいくらでもいるだろう。


「子なし、子ありで結婚生活の満足度は変わる」明治安田生活福祉研究所
2023年2月10日閲覧
https://toyokeizai.net/articles/-/247218

ところで桜の花弁が散っていくのは桜にとって寂しいことなのだろうか。地面に落ちた無数の花弁は桃色の絨毯になって見る人を楽しませる。花弁を空に掬い上げ、遊ぶ子ども。そして最後花弁は腐り、栄養分として地に帰り、他の生物を支えるものとなっていく。
自身の血肉が他の生き物の命を繋いでいくのは寂しいことだろうか?
当然この話は本題に何も関係しない。

「どうして私を産んだの?」と母に聞くと「堕すお金が足りなかったのよ。」と答えた。

当時はショックだったが、経済事情が、夫との不仲が、世代間のトラウマが彼女を変えてしまったのだろう。
きっと、そうに違いない。
産んだ時にはきっと私を愛していただろう、そう信じている。

どんな状況であっても、子どもを産めば幸せになれると思っていたのだろうか。

母を幸せに出来なかったけれども。

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