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得意科目ですか?現代文です。

「特に勉強もしていないのに現代文が得意だった奴はクズ、カス、ニート」などという半ば暴論に近いような言い回しをよくネット上で目にするのだが、この仮定に自分のことがまさにドンズバで当てはまっている気がしたので、少し考察してみたくなった。身の上話と照らし合わせながらつらつらと書いてみる。


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 本を読むことは好きだが、意識して読むようになったのは受験なんてとうに終わってからの話。勉強、一般教養のために本を読んだことはなかった。

 自分が人並み(またはそれ以上)に現代文ができることに気がついたのは、中学2年か3年くらいの頃。繁殖期に川を遡上する魚のように、私立中学校などを受験しなかった世間一般の子供たちが最初に"受験"という関門にぶち当たる頃だ。しがない市立中学に通っていた私もその中の一人で、来たる高校受験というものを見越して、中学生になった頃くらいから学習塾には一応通っていた。

 当時の成績はというと、総合的に見ると可でも不可でもなく、といったところか。「現代文が得意」というタイトルから察する通り、国語や社会はそれなりに得意だったが数学や理科はダメだった。理科に関しては暗記に近い側面もあったのでなんとかなったのだが、数学に関しては壊滅的だった。公式が覚えられないとかそういうレベルではなかった。理解する気もハナからなかったのだろうが、それ以前にちゃんと勉強をしたことがなかったので勉強法もわからなかった。

 そう、勉強をしたことがなかったのだ。それなのに成績は可でも不可でもない。これはどういうことか。

 勉強だけはできる無能、または受験や就活で転落していった落ちこぼれが自己弁護によく「地頭」というワードを好んで使う。臆面もなくあえてこのワードを使うのならば、私は地頭が良かったのだろう。小学校や中学校のお勉強なんて今考えてみれば大した難易度でもないし、ある程度地頭や要領のいい子供なら、"不可"という烙印を押されない程度には難なくできてしまう。もちろん"ある程度"止まりに過ぎない。それでも100点満点中の70点くらい止まり。そこから下がることはあっても大幅に上がることはない。微々たる上下を繰り返すのみ。このボーダーラインがまさに地頭の限界といったところか。

私は100点満点中70点を上回れるか上回れないか程度の人間だ

 といっても100点満点で70点近くも取れるなら、あくまで勉強においては、そこまで困らないのも現実。高校受験でも、中堅高校あたりを狙うのならば最低でも7割を取れれば十分合格圏内に入るはずだ(最上位校ともなれば8割9割の獲得が求められるが)。

 私もまさに高校受験で500点満点中350点、7割ピッタリを獲得し市内の中堅県立高校に進学した。塾などで受けた模試ではもう少し高い点数を獲得できていたが、肝心の本番ではまさに7割ドンピシャ。その程度なのだ、まさしく。

 さてさて、当日の私の科目別得点、最も点数が高かったのがお察しの通り「国語」である。記憶が確かであれば確か90点だったと思う。私より上位の高校を受験した友人たちよりも私の国語の点数のほうが高かったことには驚いた。ちなみに私のほかの科目は平均より少し上、または少し下という、まさに国語の独走状態。最初にもらったポケモンだけを育ててごり押しでポケモンリーグ突破、そんな感じである。

 ここで注目すべきは、私より上位の高校に入学した友人よりも"国語の点数は"高かった、ということである。その中に同じ塾に通っている友人もいたので、模試などを受けるたびに点数を見聞きしていたのだが、やはり国語の点数では地元じゃ負け知らずだった。
あるときふとこんな疑問を抱いた。

逆になんでみんな、国語が解けないんだ?

 国語はこんなにも簡単ではないか。漢字の読み方とか、適切な四字熟語とか、そんなもの普通に生活してきたらテレビやら漫画やらで目にするし、自然と身につくではないか。登場人物の気持ちなんて、選択肢の中で違和感のあるものを排除していったら自然と正解の選択肢が残るではないか。よく言うだろう、「国語は5科目の中で唯一、問題文の中に答えが書かれている」と。どうしても分からないのならば最終手段、しらみつぶしに文を読めばわかる。何も難しいことなどではない・・・。

 高校に入学してからの勉強はより一層難しく専門性を増した。各科目、さらに掘り下げて学ぶのだ。国語であれば現代文、古文、漢文などと細かくジャンル分けされる。理科であれば地学、物理、生物、化学と。こうやって専門分野ごとに小分けされても、私の国語に対する考え方は変わらなかった。むしろ変わるはずがない。分野ごとにちょっと深掘りされるようになっただけで、本質はあまり変わっていない。相変わらず国語の成績は良かった。

 ありがたかったのは、社会や理科である。社会科目も世界史や日本史、経済倫理など、選択式になったことで好きなものだけにとっつけるようになった。世界史や地学に興味があったことで私の勉強は幾分か楽になった。相変わらず勉強時間は少なかったが、国語と社会に関しては成績が徐々に伸びていった。

 それに反して、専門性を増した数学は私に牙を剥いた。もはや負けイベである。ここで数学に関しては話すことはない。割愛する。

なぜ、現代文が得意なのか。

 国語や現代文という科目は、数学のように多彩な数式や公式、英語の文法のような複雑な法則がほとんどない。漢字を書けるか、読めるか、意味がわかるかの単純明快、しかも自分が10数年ずっと使ってきた日本語で。いくら小説やフィクションの中の登場人物の考えや気持ちといっても、中身は所詮は現実の人間と一緒だ。べらぼうに捻くれたアマノジャクでもない限り、リアルな私たちと同じように動き、話し、考える。同じように付き合えばいい。

と、ここで私はある仮説を立てる。

それは「人づきあいが苦手な人ほど、国語能力に特化している」という説。

 ※ここからは私の暴論にお付き合いください。

 人づきあいが苦手な人というのは実は、人づきあいが得意な人よりも余計に多くのことを考えて、必要以上に気を遣って生きている。

 人づきあいが苦手な人は多くの人と関わろうとしない。自分に都合のいい人のみを選り好みして付き合う。都合のいい、というのは金銭面やプラスの事象をもたらすとかそういうことではなく、自分にマイナスの影響を与えない人のこと。ほかには、無理に気を使わせない人、テンションの波長が近い人など。いろいろと細かい条件がまだあったりするが、大まかにいうとこれくらい。仲良くする人間ひとりとっても、気を遣いまくっている。あぁ息苦しい。

 その点、人づきあいが得意な人というのは、私が四苦八苦している気遣いがいとも簡単にできているのだ。むしろ気遣いという考えすらない。潜在的に自然に人づきあいに向いている。それは誰に教わったでもない。学校じゃ教えてくれない。私にはなぜいとも簡単にそんなことができるのか、わからない。
 なるほど、これは私が現代文が潜在的に得意なことと同じだ。

 人づきあいが苦手な人は、トラブルを避けるために普段から人の気持ちを先回りして考えるようになる。私の経験から語ってみよう。たとえば、登下校中に誰かと二人きりになる場面。

 複数人で下校中と仮定しよう。このまま家の方向に向かって帰っていくのだが、ある地点ごとにひとりまたひとりと減っていく。そして最終的に自分と誰かもう一人が残る、あ、このまま帰るとさして仲良くもない人と二人きりになる、気まずい。

 こうなることを見越して、私は早めに行動を起こす。下校初期段階で帰るルートを変更するのだ。口実はなんだっていい、友達に届けるものがある、とか忘れ物を取りに行く、とか。できるだけ悟られない自然な口実、ただ友達と下校するだけだってのに、下校メンバーの帰宅ルートまで考慮しなければならないのだ。無駄な気を遣いすぎだ。疲れる。

 ここでポイントとなるのは、自分が気まずいから避けるのではなく、むしろ私といる他人が感じる気まずさについて考えているという点。自分勝手なのではない、むしろ他者への気遣いだ、と自己正当化してみるがどこまでいっても机上の空論である。むなしい自己弁護に過ぎない。さてお得意の、登場人物の気持ちを考えてみようという設問。人々の表情、言葉や行動から、自分が選択すべき正解はどれか。小説の中の主人公になったつもりで、解いてみる。

 人づきあいが苦手な人は、情報収集が得意だ。他者との齟齬を極力避けようとするためにも情報は不可欠。帰宅ルートから人間関係や所属コミュニティまで、常日頃から耳を立て気を配り、その情報を仕入れておく。コミュニケーション強者が肉弾戦を好むのなら、私どもは情報戦を仕掛けるのだ。

 人づきあいが苦手な人は、索敵能力が異常に高い。高度化した情報たちは一種の探知レーダーのようになる。部屋に残された痕跡や雰囲気、遠くに見えるシルエットからでさえ、もはや勘や野性に近いものかもしれないような力が働いて、他者との齟齬を回避することができる。

 現代文が得意な人は、人づきあいが本能的に苦手な人。

 少し道が逸れてしまった。ようやく本題へ。

 現代文を解くにあたって必要となる要素を挙げてみる。

基礎的な語彙力や教養 ②他者の気持ちを汲み取る力 ③見つけ出す力。これらの三要素は、コミュニケーション弱者として過ごすうちに、学ぼうとせずとも自然に培われている悲しい能力と見事にリンクしているのだ。その自然と培われた能力は現代文の問題を解くうえで身を助ける。なんせ普段やっていることをそのまま問題に投影すればよいのだから。

 現代文をいくら勉強しても点数が上がらない、逆に全く勉強していないのに高得点が取れる。ここまで見事に二極化するということから考えるに、現代文の得意不得意はもはや勉強法とかそういうことではなくて、"生まれ持った性格"によるものというどうあがいても覆せない要素があると思われる。たとえば数学という科目は、『いかに数学的な思考ができるか』というセンスに依存するものだ。これはある程度効率的な学習をすれば覆せる要素がある。語彙力や基礎教養を除いて、現代文にはこのようなことがあまり存在しない。

 (勉強せずとも)現代文が得意な人は、人づきあいが本能的に苦手な人、と安易に決めつけるのはあまりにも早計かもしれないが、少なくともその素養はあるだろうということを私は言いたい。さらに人づきあいが苦手だからといって、その人の性格までこれまた安易に決めつけるのは良くない。

 ただ、勉強せずとも現代文ができる人はまず勉強自体をしないので、他の科目の得点率が平均的に低いということを忘れてはならない。転じて、努力をしない人づきあいが苦手な人間になってしまうので、この仮説はあながち間違いではないのだ、と唱えて私の主張はここまでとする。

 もうこの歳になると表立って学生時代の勉強の話などはしなくなるが、特に入れ込んで勉強をしていなかった私がなぜ現代文だけ得意だったのか。今更ではあるが、その後の人格形成過程と照らし合わせて冷静に分析してみると、述べてきた理屈は一応通るような気がしないでもない。とっくに学生の身分ではなくなったが、相変わらず人づきあいは得意ではないし何事にも身を入れて努力することができない。他人との不和や干渉を避けようとすることで知らず知らずに自分本位な人間になってしまい、もはやどうしようもない。

 もし、ちゃんと学生時代に本腰を入れて勉強をしていたのなら、今頃どこでどういう人生を歩んでいたのか。ほとんど勉強らしい勉強をせずに流されるまま人生を漂流してきて、なんとなく楽なほうへその生き方に理由付けをしながら生きてきた。そして今、その漂着地で過去のツケが一気に返ってきたような状況になっている。正しく努力をしてきた人間にはやはり敵わない。私も少し、勉強をしてみようかと思う。誰か私に言ってください、国語もちゃんとお勉強しといてよ、って。

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