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屋上でキャッキャする誰かを妄想したよって話。


今朝、いつもと何一つ変わらない道だった。強いて言うならいつもより空がきれいで聞いてた音楽がいい感じだった。そんな雰囲気のいい感じで歩き、何の気なしに顔を上げて遠くを見た。
ものすごくものすごく可愛い屋上があった。高すぎないくらいで、段々があって、ときめくにはうってつけのロケーション。ちょうど風が透明であたたかかったから、半袖でもいいかもしれない。

『窮鼠はチーズの夢を見る』という映画の中に屋上でキャッキャとするシーンがある。一言で言う、たまらなく可愛い。あの平和な瞬間が、朗らかな日差しが、無垢で、その一瞬だけはあなたたちを蠢かせる何かは見なくていいと本当に願った。その瞬間が続けばいいのに、と思うのは私の思考の癖だ。そんな誰かを思った。続くことが無いかもしれない瞬間を2人で過ごしている誰かを妄想した。洗濯物を干しながらわーわーする2人。春らしい色が似合うだろうし、髪が太陽に透けて柔らかな茶色になったところに、不意に手が触れて欲しい。なんて、ときめくなあ、太陽のような妄想だった。

絶対に可愛い。

絶対に、物事に絶対は無いって言うけれど、私が思う可愛いに私が思う可愛いを重ねればそれはもう絶対に可愛いに決まっている。私の中の揺るぎないものなのだから。揺るぎないものがあることは自覚するのは難しいように感じる。だけど、反語のように「これが可愛くないわけがあるか?いやない、」そう思うことは絶対だと思っていることなんじゃないだろうか。そして、絶対とは自分を確信づける為の合言葉なのではないだろうか。
絶対に離さない、は離してはいけない、離したくないを確信にするための言葉。絶対大丈夫、は大丈夫だと決定づけるための言葉。そんな風に見ることもできるのではないか。

私は絶対という言葉が好き、好き以上に信じたい、有るものだと思い続けたい言葉。こんな好きな言葉があることを嬉しく思う。絶対はないよ、って分かっているのかもしれないけれどあるものだと信じていたい。信じることは悲しいことかもしれないけれど。

「屋上でキャッキャする誰かを妄想したよって話。」

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