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noteで書いた文章が全消えした時のあの感覚なんて名前?って話。

そこそこの推敲をしながら、そこそこの文字数を書き、あとは画像1枚を選ぶだけ、という所で文章が消えた。正確に言うとホーム画面のようなところに戻り、何事も無かったかのようになった。これが今までに2回あった。
下書きをしない自分が悪い!とはいえ、直後はこの感情に名前が見つからないくらいにはぽかんとする。疑問符から始まり次第に、なんだって?と怒りに近いものが現れつつ、どうしようもないがな、という諦めの念が覆い重なってくる。今日は「占いを信じるか信じないかって結局人の自由やんね、」みたいな文章を書こうとしていたが断念してしまった。1度書いたものをもう一度捻り出すほどその話題に熱意や執着は無かった。

とはいえ度々こういう初歩的とも言える失敗をやらかす。ここで言う下書き忘れ、デジタルお絵描きで言うレイヤーミス、たまにある楽観的思考や甘えが「まあいっか大丈夫でしょ」と言いながら盛大なミスを生み出す。なんと言っていいのか、自責する他ないのだが行き場のない感情にしてやられてしまう。こういったことがある度に自信やそれに近いものを失うような気もする。

人の自信というものは成功体験もだが、失敗体験とその後も大きく関わるのではないか。もとい失敗体験がその後によって捉え方が変わり成功体験になりうることで自信がつくといったことも有り得るのではないか。例えば、上司から「ここは○○ではなくて、△△するようにして」と言われたとする。これを「ああ、言わせてしまった、間違えてしまった」と取るか「言ってもらえた、気をつけよう」と取るかがそれに当たるのではないか。叱られてるととるか否かのような話になってくる。後者の方が自分がやってしまったという意識よりも次に生かす意識の方が強いように見え、自信がつかずとも失いにくいように感じる。一方で自分がやってしまったと強く考えるとミスをした自分が色濃く残り後の自信に影響を及ぼすのではないか。

どちらが良い悪いかでは無い。私もどちらかと言えばミス意識が強いタイプである自覚がある。こんな生き方をしている自分、という意識で更に落ち込むこともある。どんな生き方もどんな在り方もフラットで平行線であると、自らに対しても人に対しても思いたい。

少なくとも、noteが消えたミスもこうして書いたことでプラマイゼロになればと思うばかりだ。

「noteで書いた文章が全消えした時のあの感覚なんて名前?って話。」

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