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翼をください

紅茶が大好きだ。
どれくらい?と聞かれてまっさきに思いつくのは、
「ドイツの留学のお土産で、スーツケースにぎっしり紅茶の茶葉を詰めて帰ったくらいかしら」。
2日に一回は違う紅茶屋まで足を伸ばし足繁く通い、店主にお茶の本場はあなたの本国の方ではないのか?と苦笑いされていたほどだったので余程珍しかったのだろう。

そんなドイツ留学時、わたしはあるドイツ人の男に大変入れ込まれていた。
当時はアバンチュールだと捉えていたが、日本帰国後国際電話でふたりの今後について大喧嘩したくらいだったから、わたしもそこそこ惚れていたのかもしれない。

留学先で知り合った彼はとても優しかった。
昼下がりのカフェでは日独間の語彙の偏りについて討論し(ドイツ人は本当に話し合うのが好きだ!)、夕方のスコティッシュパブでは私の勉強がてらドイツ語で愛をささやきあった。ドイツの夏は寒い。彼の上着を借りたわたしが彼の家に転がり込むのも時間の問題だったんだろう。

彼の住まいは街の中心から少し離れた駅にある大きくて綺麗なマンションの一室で、小さな部屋には不釣り合いなほど立派なピアノが印象的な部屋だった。
彼は中にわたしを招き入れると、ベットのへりに座るように指示し、仕事机の上に散乱している書類の中から楽譜と思しきものを集めて来た。
「知ってるものはあるかい?」
ショパン、バッハ、…そういった著名な音楽家たちの楽譜の中に、ちらりと日本語が見えた気がした。
「あれ、これ…」
「これかい?弾いてあげよう」

"翼をください"だった。

わたしはこれから先、あれ以上美しい夜に巡り合うことはできないかもしれない。
遠い異国の地で、生まれ故郷のうたを、彼が弾き、わたしが歌ったような完璧な夜には。

その歌を聞くたびにわたしは何度でもあの夜に引き戻される。
そしてほんの少しだけ泣くのだ。もう終わってしまった恋のことを思い出して。

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#恋愛
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